第十二話 雪夜に一つ炎燃え

 大きい吸気の音がした。直ぐさま気配が遠ざかる。

 目から汗をぬぐい取れば、甚助はまたも遠くに飛び退いていた。

 一刀斎いっとうさいが思い出したのは、かつての夏の日。我武者羅がむしゃらに、雑に剣を振るったあの夏のこと。

 脳裡のうりに浮かべた師を打つことばかり考えて、今のように無闇に身体を燃やしていた。

「――――全く、おれは、なにをしていたのだろうか」

 一刀斎は愚直ぐちょくに進みすぎる。危機に陥るごとに、かつてを思い出しては救われた。

 気を張る必要、などなかった。

 己の姿勢はせめに見せかけたうけだった。相手に合わせて身体を動かすことと、気配に応じて打つことは大きく異なるものである。

 打たれたくないから気配を読んだ。全くそれでは意味が無い。

 

『むやみやたらと打とうとするのは、打たれまいとする心の弱さからくるもんだからな。相手を打ちのめす、そうすりゃ打ちのめされることはない。単純なあことだが、それはつまらん。ただの獣だ』

 師の言葉が頭の中で反響した。間違いなく、先程の己は獣であった。

「……くく」

 笑えてくる。なにが剣の楽しみを教えるだろう。剣を振るってすらいなかった獣の分際ぶんざいで。

 ああそうだ、あんな雑な剣では、「綺麗りそうおのれ」など遥か遠い。

「…………なにを、笑っている」

「なに、剣の楽しさを思い出した」

 一刀斎は、正眼せいがんに剣を構えた。気を張ることなく自然体。身体中から、無駄な力を削ぎ落とす。

 熱心になる必要は無い。ただ無心むしんになれば良い。

 心の機微きびを感じ取るためには、集中さえも不要であった。

 ――――削ぎ落とせ、ただ削ぎ落とせ。削ぎ落とした不要いらんものは尽く、こころほのおべてしまえ。

 どうすべきかは心が知る。だから全て、心にゆだねてしまえばよかった。

「非礼を詫びるぞ浅野甚助。剣の楽しさを教えてやると大見得を切っておきながらつまらんことをした」

「…………われにとっては、元より剣はつまらんものだ。それは、今とて変わらん」

「だろうな」

 当然だ。一刀斎も今まで、雑に鉄の棒を振っていただけだった。

 一刀斎は構えた剣を、甚助の心臓しんぞうに据える。

「――お前の気質は、剣客ではなくたぐいだな」

 先程の飛び斬り、手数てかずれてはいるだろうが、首に飛んできたその斬撃は間違いなく、倒すことではなく「命」を直接狙って放たれたものだった。あれは「剣を振るいたい」という剣客の剣撃ものではなく、「必ず殺す」という刺客の攻撃ものだった。

 刺客、その一言で、甚助の瞳がわずかに揺れた。吹き付けていた冷風れいふうが、にわかに弱まる。

 思いがけぬ反応だった。氷原にわずかに、ひびが入った。

「剣の楽しみを知らぬと言う理由も分かった。恐らくお前は一度たりとも、真剣な立ち合いをしたことがないのだろう。あのぬきの腕だ。まともに、誰かと剣をまじえたこともないのではないか」

「――――だから、なんだという」

 しかしまたも雪の乗った風が吹きれる。

 氷のような目が、より一層深くくろみ、ひび割れた間隙が即座に埋まった。

われが、剣客でないならば、どうだという。戦いを、止めるか」

「そんなわけないだろう」

 真面目くさった仏頂面ぶっちょうづらで、一刀斎は甚助のいを斬り捌く。

 瞬間パチリと、火花ひばなが散った。正眼から高めに剣を移し、胸の前で真っ直ぐと、寝かせた切っ先を甚助の額に置いた。

「さっき言ったはずだぞ、浅野甚助。お前は今日初めて剣を楽しむことになると」

 刀身を滑らせるに吐いた言葉を、甚助の心王しんおうへと打ち込んで、そのまま高く、仕合三度目の上段の構え。

 まさか己よりも年が下の武芸者に、「してやろう」などと言われるとは。

 全く思っていなかっただろう甚助は、その細い目を大きく見開いて、傲岸ごうがんえた一刀斎を射貫かんばかりに注視する。

「おれはもう幾度となくお前の抜刀けんを斬り越えた。断言だんげんしてやる。――――お前の居合じゃ、おれは殺せん」

「…………――――!」

 心に積もった黒い雪が、一刀斎の言葉で鳴動めいどうする。

 情動じょうどうが甚助を突き動かして、雪崩なだれとなって意がたぎる。

 腰の鞘に手を掛けて、膝を折り身を低くかがみ込む。

「だから心ゆくまで剣を振ろう、浅野甚助。死合しあいではなく、仕合しあいをするぞッッ!」

 吐き出したのは、浮き世離れした怪気炎かいきえん

 甚助の放つ凍てつく風を、神社が纏う静粛とした空気を、燃え上がらせるこころほのお


 雪が、降っていた。

 心の臓をえぐられて、せぼねが傷口からのぞいていた。

 背後から三撃。突きと、袈裟けさひだり袈裟けさ。十字に裂かれた創痕きずあとは、あまりにも雑であった。

 切り口が、ではない。

 それが父の最期さいごの姿である。それは五つになる前の頃。父がどのような存在だったかなど、サッパリ分からなくなった。

 記憶は全て、漆黒しっこくゆきに埋め尽くされた。

 復讐ふくしゅう。それ以外を捨てた。父の形見とむくろから羽織はおりを剥ぎ取って、身の丈に合わない家伝の太刀を持ち逃げし、神社の裏でひたすら振るった。雪の影に、父のかたきかたちえがき、ただひたすら斬り付けた。

 程なくして父と縁があった武芸者に拾われて、最初の師として正しい教えを授かった。

 しかし師は、『執心を捨てねば誓願せいがんを果たせぬ』と毎日再三さいさん口にしていたが、それでも黒い雪が降り止むことは無かった。

 わざほどきを受け十年。武芸者の元を出奔しゅっぽんし、神社で刀を振ること百日ひゃくにち

 風雪ふうせつに身体がかじかみ、柄糸に触れるだけで手の皮が千切れ、めくれ上がった肌からは血が滴り、紅蓮ぐれんの華を咲かせていた。

 もはや意識さえ凍てつき始めてきたその時、雪影の先に浮かんでいた像が、やたらハッキリと現出げんしゅつした。

 刹那、いや刹那でも遅いほど早く、刀を抜き放っていて――――。

 それから先の記憶は、スッポリと抜け落ちている。

 記憶は飛んで、眼下がんか見下みおろしていたのは、父の仇。

 誓願を果たした。だがしかし、その心は既に、積もった雪が溶けきれぬほどに、冷え切っていた。積もり積もった弥々雪いややゆきだけが心に残り、熱さえも感じぬ身体と、化していた。


ッッッ!」

ェ! ァアイ!」

 まがぼしさばいて、そのまま肩口を切りつける。

 古びた羽織はおりは障子紙のようにもろく、刃先が触れただけで容易に裂けた。

 甚助は中途半端に裂け、手に落ち掛かる袖を引き破いて一刀斎へと投げつける。

 袖を剣で払えば、甚助がこちらに踏み込んできた。この仕合で、初めて甚助の方から仕掛けてきた。掛かり抜きの心得もあるのだろう、一刀斎の腰より低くかがんでいながら、纏う殺気によどみはない。

「奮ッ!」

「っ……!」

 一刀斎は瞬時に刀を返し、刃先に絡めた袖を甚助の方へと投げ返す。甚助も即座に横に抜けたが、視界が開けた瞬間に、迫っていたのは一刀斎の振り下ろし。

シェェヤァアア!」

 だがその抜刀は神速。一尺先に迫っていた剣にさえ、甚助の剣は追い付いた。力の乗った物打ちで、力が抜けた後のハバキ元を打ち付けられる。

 お陰で剣先がわずかに反れたが、構わず一刀斎は振り抜いて、今度は右側の袖を裂いた。

 これでは戦いにならないと、再び袖を破ろうと舌打ちをしながら一度引く甚助。しかし。

ォアッ!」

「ぐぅっ……!」

 一刀斎が追いすがり、その剛剣を払い上げる。袖の絡む右腕では刀を抜き打ち払うことも出来ず、甚助は身をよじって剣をかわして一刀斎の横腹よこばらを蹴りつける。

 足腰の強さは蹴りにも生きているらしい。拇指ぼしが肋の下にめり込んで、一刀斎を押し留める。

 甚助は蹴った反動で後ろに二、三歩退けるも、蹌踉よろける様子はまるでない。尋常でない下半身の粘りだ。

「よく出来た脚だな。どうつちかった」

「…………われ故郷くには雪が積もり土も凍る。埋まらぬよう、滑らぬよう、ただ歩き立つだけで鍛練たんれんになった。…………その雪の上で、吾はひたすら剣を抜き放ってきた」

「なるほどな」

 ならばこのような布の被った石畳いしだたみなど、一刀斎が思うよりも盤石に感じているだろう。

 どのような荒場あればであっても甚助は、あの神速のぬきを放てるのだろう。

 全く本当に、恐ろしい限りだ。

「――――剣は、人殺しの道具だろう」

「む?」

 唐突に、そううた甚助の唇は、まるで寒さに震えるように揺れていた。寒気がわずかに戻ったのか、呼気もわずかに白かった。

 一方瞳は、黒みが差したままだった。

「剣は、人をあやめるための道具だろう。ならば剣を振るう技も、人を殺める技ではないのか」

 小さかった声が、わずかばかりに張られていた。

 ただ冷たい。その声に乗せられた心は、分厚い氷のようだった。

 ただただ恐ろしいほど底冷えした、悲愴な叫びだった。

 甚助はそのまま、い続ける。

外他とだ一刀斎いっとうさい、お前は、人殺しを楽しいというのか」

「いや、全く」

 しかし一刀斎は、スパリと言い切る。熱されたきっさきは、その氷をたやすくいて、返されたたちがあまりに早く、思わず甚助はたじろいだ。

「よほどの相手でない限り、殺しに感慨かんがいなど抱かない。……一つ、勘違いしているな。そのような思い違いをした者を、おれは幾度となく見てきたぞ」

 脳裡に浮かんだのは、魔道に堕ちた一人の剣士。腕を高めることを忘れ、築いた屍山を登って天に至ろうとしたからす天狗てんぐ

 壮絶そうぜつ死合しあいを繰り広げた末に討ち破り、そして、感慨を抱いたの相手。

 だがしかし、奴と甚助は違う。

「…………いいか、浅野甚助。剣術は人を殺める術ではあるが、剣を振れば、必ず人が死ぬわけではない。武と死の間に、因果いんがはないんだよ」

 正眼の構えから、手を腰元に移して陽に構える。その燃える視線は、甚助の方をしかと見つめて。

 甚助は違う。武のために死をもたらした存在ではない。

 死のために、武を扱ってきた存在だ。

 ならば。

「お前はここに、「武」を知りに来たのだろう。刺客ではなく、剣客になりに来たのだろう。ならば、やることはただ一つ」

 陽に構えた太刀を頭のてっぺんまで持ち上げて、刃を天に向け、甚助の方へ切っ先を突きつけた。

「――――ただ戦え。ただひたすら剣だけを振るえ。殺意なぞ、剣を振るのに不要だと知れ!」

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