第十二話 雪夜に一つ炎燃え
大きい吸気の音がした。直ぐさま気配が遠ざかる。
目から汗をぬぐい取れば、甚助はまたも遠くに飛び退いていた。
「――――全く、おれは、なにをしていたのだろうか」
一刀斎は
気を張る必要、などなかった。
己の姿勢は
打たれたくないから気配を読んだ。全くそれでは意味が無い。
打つために、応じなければならないのに。
『むやみやたらと打とうとするのは、打たれまいとする心の弱さからくるもんだからな。相手を打ちのめす、そうすりゃ打ちのめされることはない。単純なあことだが、それはつまらん。ただの獣だ』
師の言葉が頭の中で反響した。間違いなく、先程の己は獣であった。
「……くく」
笑えてくる。なにが剣の楽しみを教えるだろう。剣を振るってすらいなかった獣の
ああそうだ、あんな雑な剣では、「
「…………なにを、笑っている」
「なに、剣の楽しさを思い出した」
一刀斎は、
熱心になる必要は無い。ただ
心の
――――削ぎ落とせ、ただ削ぎ落とせ。削ぎ落とした
どうすべきかは心が知る。だから全て、心に
「非礼を詫びるぞ浅野甚助。剣の楽しさを教えてやると大見得を切っておきながらつまらんことをした」
「…………
「だろうな」
当然だ。一刀斎も今まで、雑に鉄の棒を振っていただけだった。
一刀斎は構えた剣を、甚助の
「――お前の気質は、剣客ではなく刺客の
先程の飛び斬り、
刺客、その一言で、甚助の瞳がわずかに揺れた。吹き付けていた
思いがけぬ反応だった。氷原にわずかに、ひびが入った。
「剣の楽しみを知らぬと言う理由も分かった。恐らくお前は一度たりとも、真剣な立ち合いをしたことがないのだろう。あの
「――――だから、なんだという」
しかしまたも雪の乗った風が吹き
氷のような目が、より一層深く
「
「そんなわけないだろう」
真面目くさった
瞬間パチリと、
「さっき言ったはずだぞ、浅野甚助。お前は今日初めて剣を楽しむことになると」
刀身を滑らせるに吐いた言葉を、甚助の
まさか己よりも年が下の武芸者に、「してやろう」などと言われるとは。
全く思っていなかっただろう甚助は、その細い目を大きく見開いて、
「おれはもう幾度となくお前の
「…………――――!」
心に積もった黒い雪が、一刀斎の言葉で
腰の鞘に手を掛けて、膝を折り身を低く
「だから心ゆくまで剣を振ろう、浅野甚助。
吐き出したのは、浮き世離れした
甚助の放つ凍てつく風を、神社が纏う静粛とした空気を、燃え上がらせる
雪が、降っていた。
心の臓を
背後から三撃。突きと、
切り口が、ではない。人相手にするとは思えぬほど、荒々しかった。
それが父の
記憶は全て、
程なくして父と縁があった武芸者に拾われて、最初の師として正しい教えを授かった。
しかし師は、『執心を捨てねば
もはや意識さえ凍てつき始めてきたその時、雪影の先に浮かんでいた像が、やたらハッキリと
刹那、いや刹那でも遅いほど早く、刀を抜き放っていて――――。
それから先の記憶は、スッポリと抜け落ちている。
記憶は飛んで、
誓願を果たした。だがしかし、その心は既に、積もった雪が溶けきれぬほどに、冷え切っていた。積もり積もった
「
「
古びた
甚助は中途半端に裂け、手に落ち掛かる袖を引き破いて一刀斎へと投げつける。
袖を剣で払えば、甚助がこちらに踏み込んできた。この仕合で、初めて甚助の方から仕掛けてきた。掛かり抜きの心得もあるのだろう、一刀斎の腰より低く
「奮ッ!」
「っ……!」
一刀斎は瞬時に刀を返し、刃先に絡めた袖を甚助の方へと投げ返す。甚助も即座に横に抜けたが、視界が開けた瞬間に、迫っていたのは一刀斎の振り下ろし。
「
だがその抜刀は神速。一尺先に迫っていた剣にさえ、甚助の剣は追い付いた。力の乗った物打ちで、力が抜けた後のハバキ元を打ち付けられる。
お陰で剣先がわずかに反れたが、構わず一刀斎は振り抜いて、今度は右側の袖を裂いた。
これでは戦いにならないと、再び袖を破ろうと舌打ちをしながら一度引く甚助。しかし。
「
「ぐぅっ……!」
一刀斎が追いすがり、その剛剣を払い上げる。袖の絡む右腕では刀を抜き打ち払うことも出来ず、甚助は身をよじって剣を
足腰の強さは蹴りにも生きているらしい。
甚助は蹴った反動で後ろに二、三歩退けるも、
「よく出来た脚だな。どう
「…………
「なるほどな」
ならばこのような布の被った
どのような
全く本当に、恐ろしい限りだ。
「――――剣は、人殺しの道具だろう」
「む?」
唐突に、そう
一方瞳は、黒みが差したままだった。
「剣は、人を
小さかった声が、わずかばかりに張られていた。
ただ冷たい。その声に乗せられた心は、分厚い氷のようだった。
ただただ恐ろしいほど底冷えした、悲愴な叫びだった。
甚助はそのまま、
「
「いや、全く」
しかし一刀斎は、スパリと言い切る。熱された
「よほどの相手でない限り、殺しに
脳裡に浮かんだのは、魔道に堕ちた一人の剣士。腕を高めることを忘れ、築いた屍山を登って天に至ろうとした
だがしかし、奴と甚助は違う。
「…………いいか、浅野甚助。剣術は人を殺める術ではあるが、剣を振れば、必ず人が死ぬわけではない。武と死の間に、
正眼の構えから、手を腰元に移して陽に構える。その燃える視線は、甚助の方をしかと見つめて。
甚助は違う。武のために死をもたらした存在ではない。
死のために、武を扱ってきた存在だ。
ならば。
「お前はここに、「武」を知りに来たのだろう。刺客ではなく、剣客になりに来たのだろう。ならば、やることはただ一つ」
陽に構えた太刀を頭のてっぺんまで持ち上げて、刃を天に向け、甚助の方へ切っ先を突きつけた。
「――――ただ戦え。ただひたすら剣だけを振るえ。殺意なぞ、剣を振るのに不要だと知れ!」
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