第十一話 黒い雪夜の凶つ星

 それはあらしの前の静けさか。

 一刀斎が抜いた刀を正眼せいがんに構え、対する甚助は、いま納刀のうとうしたまま。

 だが一刀斎は知っている。甚助にとっていてあるかおさめてあるかなどは関係ない。

 見た目には穏やかな構えからは、そのじつすさぶ風雪の如き気勢きせいが放たれている。

「寄らば死ね」

 相変わらずの無表情。相変わらずの冷たいひとみ。ただ気配けはいだけが、たりを起こしかねないほどの殺意さついを宿していた。

「寄らば死ぬ」

 頭も心もそう告げていた。湿しめりきった大きなおそれが、甚助の寒気きはくによって凍り付き、足の裏を白布しろぬのと張り付ける。

 脳裡のうりぎったのはあの剣閃けんせんと倒れる男。いまだにあれを越える術は見当けんとうも付かない。

「……」

 ジリと、甚助がにじる。よれた白布が、蹴散らされた残雪ざんせつにも見えた。

 こちらが攻めあぐねているならば、甚助の優位には違いない。だが甚助には、心的優位から来る油断ゆだん予断よだんも存在しない。

 ただ池に張り詰めた氷のように、一部のひびもなく澄み渡っている。

 ならば。

「…………――――」

 吸気きゅうきを腹の底に貯め、呼気こきでもって整える。

 身体からだ中心ちゅうしんともせば、乱れた心が正される。

 心ばかりは、負けるわけにはいかなかった。

「…………む」

「ほう……!」

 甚助が、小さく唸る。舞台から仕合場を見下ろす誰かの感嘆かんたんが、聞こえた。

 一刀斎は、刀を高く構え上げる。どうわきもガラ空きで、しんぞうさえ見せ付けている。

 堂々どうどう泰然たいぜんと掲げ上げてはくらい

 その姿は、空にかがや天日てんじつへと、火の手を伸ばす火焔かえんのように。

 あるいは、今にも飛ぼうとする大鳥おおとりのように。氷面鏡ひもかがみのような甚助の目に対し、一刀斎の目は眼光が活火かっか激発げきはつと燃えていた。

 こころねつちて、凍土とうどと化した場を溶かす。

 両者の距離は五尺ごしゃくなかば。たがいの刃圏はけん二尺にしゃく五寸ごすん三尺さんしゃく三寸さんずん

 一足いっそくけば一刀いっとう斬り付けられる間合である。

 甚助の抜刀の速度は、一刀斎も知るところ。だがしかし甚助は、一刀斎の斬撃を知らない。

 大上段から放てる技はただ一つ、振り下ろして、斬り裂く。ただそれだけである。至極しごく単純たんじゅん、それ故にちからづよくく、猛々たけだけしい破壊はかいりょくを秘めた斬撃ざんげき

「寄らば斬る」

 真っ向から、己のいしを叩き返す。甚助が寄せていた白布のシワが張られて消えた。

 熱気おもい冷気さついがぶつかり合うその空間は、まるで二人が数合すうあいつるぎまじえた後かのような緊張感が支配していた。

 膠着こうちゃくするか。誰かが息を飲んだその瞬間。

ァアアアアア!」

 轟いたのは裂帛れっぱく咆吼ほうこう。一刀斎が吐き出した気が、神聖しんせいさをまとった静寂せいじゃくを吹き飛ばす。

 灼熱の意が乗せられた大上段だいじょうだんの斬り下ろしは、炸裂さくれつする炎のように。

 その速度は己の吐いた雄叫おたけびさえも置き去りにする。

 対し甚助は臆気おじけることなく一歩踏み込んで来た。

(来るッ!)

 瞬息しゅんそくの間をぬうように、刹那せつなさえ遅く、意識の虚空こくうを突くように。

 冷たい意識いしきが、より鋭く研ぎ澄まされた。せぼねを包んでいた肉に怖気おぞけが走る。――腹!

ェエッ!」

「……!」

 一刀斎は即座に転じ、肩から甚助に当たりに行く。身体で右手と左肩を押さえ込み、甚助の抜刀動作を封じにかかった。

 これほどの密着距離ならば、たとえ甚助と刀は抜けぬ――――

「――――ッ」

 わずかばかり、甚助が身を引いた。それは一寸ばかりの、距離とも言えない小さな隙間すきま

 その空間に満ちたのは、えた気配。…………まずい!

ッ」「ァァァア!」

 ほとばしったこおりやいば

 おうじられたのは奇遇きぐうだった。腕を返して切っ先を下げ、ハバキ元を抑え込む。

 しかし抜刀が生んだ衝撃は尋常じんじょう でない。己の振りと同等どうとう威力ちからが秘められ、全力を込めて受け止めなければ弾き飛ばされかねないほどだった。

「…………まさか、止められるとはな」

「たまさかだ。甘く見た非礼ひれいびる」

 甚助が後ろに飛び、彼我ひがの距離が六尺ろくしゃくはなれる。

 寸分すんぶんに生じた殺気さっきさとれたのは、幸運としか言えない。密着したならば無事だろうと、思った己をとした。

 剣速だけでない。「つ」という意が生じるのもまたたときをいくつにきざめばいいのか分からぬほどの、極小の最中。気をゆるてば、その間隙かんげきをたやすく突かれる。

 立ち合いの間、ひたすら全集中ぜんしゅうちゅうし続ける精神力が必要だ。

 互いの得物えものとう。しかし二人の意識は、既に真剣しんけん仕合じあいのそれと同じ。

 たった一合いちあいむすんだだけで、番兵達も尾張兵も、神前だと言うことも忘れてみな一様いちよう歓声かんせいを上げた。

「――――次は、ない」

 甚助は今一度いまいちど刀をおさめる。

 その剣筋けんすじは、一度ひとたびるえば冷光れいこうを引き、命を刈り取るまがぼし

 広がる凍空いてぞら、死の氷原ひょうげん。沸き上がる人等ひとらに対し、仕合場は既に必死ひっし世界せかいと化している。

「こちらの台詞セリフだ――!」

 だがしかし、絶命ぜつめい必至ひっしの空間で、その炎は揺らめいていた。

 零度れいどの世界で決して熱を失わず、湿しめることなくその炎は燃えていた。

 構えはまたも大上段。構えが済むや否や一刀斎は、六尺の間合を一息に詰める。

 石火の足運びと共に刀を振り下ろし、ものちはピタリと甚助の額を据えていた。

 懸撃けんげき一拍子いちびょうし意気いきが込められた渾身こんしん一撃いちげき

 しかし甚助は冷徹れいてつに、一歩いっぽ退しりぞ撃剣げっけんかわす。しかし懐に入ろうとすれば、切っ先が喉元のどもとに置かれている。

 甚助じんすけ抜刀ばっとうは、さい近距離きんきょりによって力を発揮はっきする。

 あそこまで練られた抜剣ばっけんは、よほどのこだわりか執心しゅうしんによって生まれたもの。

 一度練った術理じゅつり理合りあいを、活かさないほど武人は利口りこうでない。

 身に染みついた技倆ぎりょう行使こうしすることをこそ至上しじょうとする。

 それだけは、出来る事実である。

 ――しかし。

ッ!」

「――――んな」

 目の前から、甚助が消える。

 まるで相対していたのが、ただの雪煙ゆきけむりで出来た虚像であったかのように。

 一刀斎が感じ取っていた雪景色けはいが、暗夜あんやまる。

 気配けはい辿たどり、目をくばれば。そこにはちゅうんだ甚助の姿。鍔と鞘の合間から、ハバキの銀がひらめいた。

ャアアア――――!」

 放たれるのは、虚空こくうを斬り裂くまがぼし

 あやまった。なぜ見落としていた。この男は確かに、間違いなく、紛う事なき剣客けんかくだ。

 だがしかし、こおりきったその気質きしつはむしろ――――。


 会場がざわめき立つ。巫女達の息を飲む声が、仕合しあいきわを見極める男達の熱っぽい視線が、白布に滴った鮮血に注がれた。

「…………やはり、確実には打てぬか」

 頬が熱い。傷口から血が流れる。気持ちまでは一緒に流してやるものかと、親指を舐めて傷口にった。

 刃挽き刀とはいえ、するどさきは針に同じ。ひっかけば当然、傷は付く。無事、掠り傷だけで済んだ。

「飛び斬りはとかく、近間でなければその抜刀は力を発揮はっきしないようだな。拍子が、わずかにのろかったぞ」

 お陰で寸でで身を引けた。直撃ちょくげきすれば頬骨ほおぼねくだけて目玉が落ちたことだろう。

 だがしかし、刀が掠めたその瞬間、全ての熱を持って行かれたように身体中からだじゅうの血が冷めた。

 一刀斎は息を吸い、再び身体に熱を起こす。

 気を抜くな、目を見張れ、針の先程さきほどの気配が生じる時を見過ごすな。

 わずかな機微きび対応たいおうしろ。

 甚助の速さを、越えろ!

ッッッ!」

ェエ!」

 冷たい気配を感じるたびに、精神せいしんる。

 互いの距離が三尺を切るたびに、神経しんけいれる。

 冴え渡った剣の閃きを避けるたびに、全身をめぐる燃える血が、内側から身をあぶる。

 一度ひとたび抜けば必殺ひっさつだろうまがぼし

 袖をかれながら、懐を掠めながら、死に物狂いで命をつなぐ。

 かえす太刀に牽制けんせいを入れられ、引いたところにかり行けば即座そくざに剣が飛んでくる。

 無論両者の武器は刃挽き刀、斬って裂かれはしないだろう。だがしかし、甚助が放つ撃剣げっけんじかに食らえば、意識はこそぎ打ち砕かれるのは明白だった。

 攻めあぐねている理由はそれだけでは無い。

フンッッッ!」

ァァァ!」

 遠間とおまから、白布しろぬのの下の石畳いしだたみを蹴りつけて斬り懸かる。

 迫る一刀斎に対して三尺ちかまを甚助は自ら越え、ほぼ密着距離で長大ちょうだいな刀を抜き放つ。

 またも寸でで回避した一刀斎は片手で肩へと切っ先を伸ばすが、甚助はさっさと飛び退いた。

 この通り甚助は、一刀斎と剣をまじえようとしなかった。

 通常つうじょう剣撃けんげきにおいては、一刀斎に分がある。それを踏まえてのことか、甚助は抜刀が済めば三尺以内に一刀斎を置かない。先程さきほど見せた飛び斬りのような剽悍ひょうかんあしさばきで、即座に引いて体勢たいせいを立て直す。

 あのねばづよ強靱きょうじんな足腰はどうやって身に付けたのだろう。

 しかしそんな疑問さえ、一刀斎の頭には浮かばない。一刀斎の意識は己の内に向ける余裕は寸分もなく、いつあの斬撃が飛んでくるかと甚助の方へと向いていた。

 飛んでくる。その形容はあながち間違いではないだろう。

 瞬発しゅんぱつはじされる刀の速度は尋常じんじょうでない。まるで近間でつぶてでもたれたかのようだ。

 気が休まらない。気がたゆめば瞬間命を刈り取られる。

 己に剣撃のがあるからなんだという。そんなものは切り結べねば意味は無い。

 精神的優位に立っているのは、間違いなく甚助の方であった。

 甚助の姿が大きく見える。柄が化物ばけものの尾に見える、柄が化物のたまごに見える。

 いつまたつめたいながぼしが飛んでくるか、一刀斎は必死ひっしに、黒雪くろゆきけぶり、氷風ひょうふうすさぶ甚助の世界に身を置いていた。

(羨ましいくらいに、沈着ちんちゃくだな……!)

 肩で息をしたい気持ちを抑え込み、ごく浅い呼吸を繰り返す。

 甚助のぬきは見に覚えさせた、なにもおそれることはない。

 それにこたえられる己の技倆ぎりょうに疑いはなく、まどわされることもない。

 だがしかし、張り詰めた意識は自動的じどうてきに体力を薪にべ、一刀斎を疲弊ひへいさせる。

 残る活力を振り絞り、全力を込めて蹴り出した。

 まさにその時。

「ぐっ……!?」

 散漫としていた。いつの間にか睫毛まつげに乗っていた汗が、向かい風にあおられ目に入った。

 痛みさえ感じる掻痒そうよう感が目の血筋ちすじを走り、思わず目をつぶる。

 しまったと思った時にはもう遅い。一刀斎に間隙かんげきしょうじた。

 全身の毛が逆立って、おぞましい吹雪が一刀斎の身に吹き付けた。

 甚助にとって一刀斎が生んだ隙は、充分すぎるほどのときがある。

 星が、降る。

ィィ……!」

 これでしまいだと、耳に突きつけられる。

 気がけ、刹那せつなでさえやすわけにはいかなかった集中が途切とぎれた。

 これで終いかと、 まがほしに撃たれて終わりかと、脳裡のうりぎった。

 ――――瞬間。こころほのおが、揺らめいた。

「ッァアアアアアアアアア!」

「っ……!?」

 至極しごく微細びさい。それと全く同時に放たれる剣閃を、一刀斎は打ち払う。

 即座に飛び退いた甚助を、一刀斎は追わない。その目は未だに、瞑られていた。

 境内けいだいつどっていた者共ものどもが、目の前で起きた石火せっか一合ひとあいに目をみはる。

 この中の何人が、刀と刀が打ち合って、火花が散った瞬刻ときを見ることが出来たのか。この中では手練であろう番兵ばんぺいや、舞台で俯瞰ふかんして見ていた者達であっても、その撃交げっこうを理解し得た者はいない。

 一刀斎は目を閉じながら、甚助の打ちを、捌いて見せたのだから。

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