第十話 喜楽と無喜楽

「ではこれより、神楽かぐら奉納ほうのうします。両者、前へ」

 枯れているが、広い境内けいだいによく響く声だった。

 熱田あつた神社じんじゃ古女房ふるにょうぼうで、太阿たあの側に仕える山路やまじの声だ。

 声は初めて聞いたが、その風格ふうかくに沿うものだった。

 巫女の頭というのはどうも、時として神主さえしのおごそかさがある。

 手はずは、直前に文官らしき尾張兵から聞いていた。

 一刀斎は立ち上がり、境内けいだいの中心に敷かれた一辺いっぺん二丈にじょうなかばはある白布しろぬのに上がる。

 白布の中心から二尺にしゃくはん離れた場所に、黒い線が引かれている。これが仕合の開始線であり、止まる目印めじるしである。

 一刀斎は黒線の手前で足を止め、座して拝殿の方を向いた。

 ちょうど、その時。

「…………お前が残ってきたか」

「やはり、と枕に付けてそのまま返すぞ、浅野あさの甚助じんすけ

 鏡合わせに座った甚助に、声をかけられる。

 相変わらず声は雪の降る音のようで、都合つごう五尺ごしゃく離れているため耳をそばだてねば聞き取りにくい。

 あちらも心をととのえたのか。纏う雰囲気は冴え渡り、この厳寒げんかんの空気さえもぬるかんじた。

流石さすが神速の抜剣を使う。終わらせるのも相当早かったらしいな。身体はあたたまっているか」

「…………温まる?」

 なにか、気に掛かったのか。甚助の声音がわずかに跳ねた。

 目端めはしうつるその首が、かしげられることはなかったが、至極しごく不可思議ふかしぎそうに、目を細めていた。

 境内には鼓笛こてきが鳴り始め、拝殿はいでんすよう設置された舞台に、巫女達が上がる。

 みやびやかでおごそかな楽音がくおんのせいで、甚助の声が、より小さく聞こえた。

「…………先日も告げたとおり、戦う用意は、常にしている。特別な用意は、不要ふようだ」

「ふむ、そうか。そっちは、だいぶつまらなかったと見える」

「………………つまらない、か」

 くるりくるりと、巫女達が踊り舞う。その手にはつるぎみやの巫女らしく、剣と鈴とを持っていた。

「なら、聞こう」と、鳴る鈴にもかき消されそうな微塵みじんの声で、甚助がポツリといてきた。

「剣とは、面白いものなのか?」

「無論だろう」

 なにを訊くかと思ったらと、一刀斎は即答そくとうした。なぜそんなことをとさえ思った。

 一刀斎にとって、剣とは己が進む道だった。

 刀を振るのは、日常だった。

 強者との戦いは、全霊ぜんれいを尽くす撃剣げっけんは、こころを燃やし火花を散らす感覚は、なににも代えがたがあった。

 戦いの最中は肝が冷え、楽しむ余裕などない。早く終われとも思うし、く斬るために己の全てを使い果たす。

 だがしかし振り返れば、己の全てを使い果たした身を温める立ち合いの熱は、一刀斎にとって至上の快感かいかんをもたらした。

 そして元より一刀斎には、刀剣これしかない。

「お前は、楽しくはないのか」

「――――はて、な」

 間の空気が、変わった。先日と同じ、果てしなく広がる寂寞せきばく雪原せつげん

 こごえきった、零下れいかの気質。あの流星でさえも切り開けない、分厚い雪雲ゆきぐもおおわれた気配。

 ただ無常むじょう。世を儚む冷気れいきを纏った、当てもなく流離さすらうだけのこころ

 少なくとも、剣に対する喜楽きらくの情は感じない。むしろ悲痛ひつうささえも感じた。

 今までの武芸者とは、毛色が違う。一刀斎が相対してきた武芸者はみな、己の武に矜持きょうじを抱いていた。しかし浅野甚助からは、彼らから受けた熱を感じない。

 強い想いなくしては、あそこまで技を鍛え上げ、研ぎ澄ますことなど出来はしないはず。

 だがしかし、あの圧倒的な抜刀わざの冴えに反して、甚助自身には一切の炎がきていない。

「一つ、訊いてもよいか」

 甚助は口で答えず、澄み切った黒い目で一刀斎を見遣みやった。

「お前は、なんのために剣を振るうんだ?」

 目の前で繰り広げられる神楽は、きゅう段階だんかいに入ったのだろう。鼓笛の音はより強く、巫女の舞はより鋭く。

 気配に聡い一刀斎は、熱田神社全体に、澄んだ霊気れいきちていくのをはだで感じた。

「…………なんのために、か」

 しばし、神楽に見入っていた。それでも甚助の小さな声を、一刀斎は聞き逃さない。

 いや、聞き零すことなど出来なかった。

 この清い空気の中で、甚助の声は浮いていた。うつろとした、なににも染まらぬ声だった。 

「…………われにはもう、理由それはない。果たすべき目的ものは、とうの昔に斬り越えてしまった」

 心象しんしょうの雪原に吹雪ふぶき風巻しまく。

 瞳の黒みがいっそう増す。

 背筋せすじが、文字通りてついた。ただの気配だというのに、全身の毛穴がいららいで、噴き出した汗も氷のようだ。

 自分らのいる白布りょういきが、隔絶かくぜつされた。

 厳寒げんかんみさきに立ち、冷たい潮風が吹き付けるこの神社の空気も、神楽によって清められた神社の空気も、介在かいざいできぬ世界になった。

 ――――ここは既に、戦場となった。

「…………吾はただ、身にたった一つ残った剣術これに、すがって生きているだけでしかない。……一つだけ、確かなことが、ある」

 鼓笛こてきみ、巫女達の舞が終わる。

 それと共に、吹き荒んでいた吹雪が止んだ。

 しかし雪嵐ゆきあらしがもたらした酷寒こっかんは消える事なく、甚助の心は熱さえ食らい、炎すら生じるかも分からない凍土とうどと化していた。

 そして――――。

「…………吾は一度たりとも、

「――――」

 その言葉に、思わず一刀斎は絶句ぜっくする。

 浅野甚助という男は、武を楽しんだことがないという。

 あれほどの技倆ぎりょうを持ちながらも、この男は、はっきりとそう言い捨てた。

 ならなぜだ。なぜこの男は、あそこまで抜刀の技を身に付けられたというのだろうか。

 一刀斎は音を立てずに、ひっそりと呼吸する。こころの内に燃えた炎に、たきぎべるかのように。

 先の雪風の気配で乱れた炎を、正すように。

 そうすれば、自然となにをするべきか。否、「なにをしたいか」が浮かび上がる。

 巫女達が一例をして、袖の方へと去って行った。

 一刀斎は、それを見送り。

「――そうか、ならば」

 冷酷れいこくとも言える無表情を浮かべるままの甚助。

 一刀斎も、いつもと変わらぬ仏頂面ぶっちょうづら。だがしかし、赤黒く灼けた顔色は、心中しんちゅう火焔かえんがもたらす熱が浮かび出たように、よりすこやかに赤らんでいた。

「今日初めてお前は、剣を楽しむことになる」

「…………な、に?」

 いぶかしむ甚助じんすけは、眉尻まゆじりゆがめて一刀斎の方へ目を流した。初めて、一刀斎の方へと目を向けた。

「おれが、剣を楽しませてやろうと言っている。待っていろ、浅野甚助。これの楽しさを、教えてやろう」


「いやあ、良い舞だったがや!」

 神楽が終わるや否や、舞台に上がったのは織田おだ尾張守おわりのかみ名代みょうだいとして訪れたという、木下きのした藤吉郎とうきちろう

 そのかたわらには、一刀斎がいた赤組の目付である竹内半兵衛が控えていて、もう片側には、いかにも武張ぶばった男がいた。見当付けるに、あっちは青組の方の目付だろう。

 そして舞台の中心には、熱田神社の次期大宮司である千秋せんしゅう喜七郎きしちろうがいた。

 無垢むくながら根が真面目まじめな喜七郎らしく、軽く口の端を上げながら、愛らしい目をつとめて凜々しく見せていた。

「どの巫女達もでら美しいもんだで、つい魅入みいってしまったがや! さすが日の本有数のやしろの巫女だがね! もっかいしてちょーせんか。え、だめ? もう一回はあかん? どうしても?」

 はてさて、開始の合図を出すはずの男は、既に散った巫女達に執心の様子。長かった鼻の下が余計に伸びていて、スケベ心が丸出しであった。

 女を見るだけで、よくあそこまで興奮こうふん出来るものであると、周囲の男達は―密かにしていた同意の気持ちを押し込みつつ―首を振った。

「そうなんですっ。熱田神社うちのみんなは、みんなきれいでいい人なんです!」

「いやあ本当に、お次の宮司様が羨ましい……!」

 意味も分からず同調どうちょうした喜七郎の肩を掴んで、うんうんと頷く藤吉郎。喜七郎も真似て頷いているが、絶対に理解してはいないだろう。

 そんな藤吉郎に対して、半兵衛が肩を叩き、もう片割れが咳払いをした。

「藤吉郎。そろそろ――進めてもらって良いかな?」

「お、おうっ!?」

 ニッコリと笑う半兵衛の顔は空恐ろしい。あれも一種の無表情むひょうじょう。内の感情とおもてに差を付けるのが得意らしい。

 冷や汗を流した藤吉郎は、喜七郎の肩からバッと手を離して舞台の下、一刀斎らのいる境内の真ん中にその真円まえんの目をやる。

「それでは両名りょうめい! 立つがや!」

 言い終わるのが遅かったか。一刀斎と甚助は同時に立った。

 ようやくか、待ちくたびれた、さっさとやれとでも言いたげな早さに、藤吉郎は苦笑くしょうする。

「待たせてすまんかった。ここから先は一騎討ち、邪魔する者は誰もいない。しかし誰もがその目でしかと見る。天の神や海の神、山地さんちの神の八百万やおよろず、そしてもちろん、熱田あつた大神おおかみ八百万やおよろずかみが見るに相応しい武と覇と技の競い合いを期待するがや!」

 えらく堂に入って調子の整った向上を上げ、「では」と片手を上げる藤吉郎。

 一刀斎と甚助は、共に腰の刀に手を掛ける。

 扱うのはとう。しかし質は悪くない。さすがは熱田神社という所か。

熱田あつた神社じんじゃわざくらべ! 赤、外他とだ一刀斎いっとうさい! 対、青、浅野あさの甚助じんすけ! いざ、いざいざいざ尋常じんじょうにぃ!」

 藤吉郎が生んだ一拍いっぱくの間、神社がシンと静まりかえる。

「――――勝負ッッッ!!」

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