第二十四話 羊目

「ヤン、エン……?」

ひつじ、という意味だよ」

「…………ひつじか?」

 いぶかしむ一刀斎いっとうさいに、博士はかせは、指の間からそのいびつな目から視線をそそぐ。

「ああ、日本このくににはいないんだったか……有角ゆうかくの獣さ。牛より小さくてね……毛が豊かでよろずに使える」

 フッと頭から手を離した博士――羊目ヤンイェンの表情はひどく穏やかだ。先程さきほど怒気どきはその視線には乗っていない。

 なんとも異質いしつ。意を掴もうとしてももやがかったように触れることが出来ず、気配も霞のようで判然としない。

ということは分かるが、分かるのは、ただそれだけ。それがどういう意味を持っているのかが判断出来ない。

「――まあ、御託ごたくを並べるのはここまでにしよう」

「ああ、とっとと再開はじめるぞ」

 一刀斎が甕割かめわり晴眼せいがんに。あの四つ目の結ぶ中心、眉間にきっさきを据える。

 対する羊目ヤンイェンは武器を出さず徒手としゅでもって構えて見せた。拳は握りきらず半開はんかい。両足を前後に開いている。

 見たことがない体勢たいせい。あれが大陸の武かとい思いながらも、一刀斎は沈着ちんちゃくに、視野を広くし中心に羊目を抑える。

 奴は本気を出した。ならばあのあしさばききによる攻めはより激しさを増すだろう。

 ならば、することは。

ッッ!」

 さきんじて動いて、あの動きをふうじること。

 羊目の武器は反閇へんばいとやらを元とした独特の運歩うんぽほうと、数十年掛けて身につけたちから操作そうさ術、けい

 あの速度で死角に入り込まれ、あの一撃を繰り出されるのはなんとしても避けたい。

 それ故の先手打ち。自由に動かすのは、危険!

セイッ!」

 前に出された拳の手首をねらい、最小の動き、それでいて鋒へと力を運び斬りかかる。

「ほう、そちらから来るか! ならば!」

 羊目は脚の前後を入れ替え一歩分いっぽぶん退しりぞくくと同時に拳を引き絞り、もう片方の腕で牽制けんせいの突きをち放ってくる。

 一刀斎の牽制を繰り出した腕めがけ刀を返し、身を滑らせながら薙いだ。

 しかし。

「スッッッ!」

 鋭い呼気こきと共に、あの歩法でもって羊目の姿は立ち消える。その様は正に霧のよう。

 そして霧は、気付かぬ内に一刀斎を取り込む――!

とみてあし

「ッ!」

 横に抜けていた羊目が、引き絞った拳を一刀斎の脇腹に付けている。

 一刀斎にも見えた。拳と己を一直線いっちょくせんに結ぶ、拳撃けんげき軌道きどう

「フンッッッ!!」

「ちぃ……っ!」

 重心じゅうしんを外に弾き出し、寸でのところで拳を避けた一刀斎は素早く足を捌いて羊目の斜め後ろに回る。

 羊目の歩法ほほう幻惑げんわく狭霧さぎりならば、一刀斎のそれは捷速しょうそく石火せっかである。

 死角しかくに回った。一刀斎はガラ空きの肩口から腰まで線を引き、なぞるように、甕割を振り下ろす。

 取った――!

「フッ!!」

「なにッ……!?」

 跳ね上げられた裏拳うらけんが、かいなを打つ。流した力は裏拳によって遮られ、ぶつかり霧消むしょう、甕割は天を向いたまま制止した。

 これも勁の応用かと思いつつ。

 完全に視界の外に回ったはず。なぜ――。

「僕のこの目はね、見た目通りなんだよ」

 振り向き様に飛んでくる拳を飛び退いて回避かいひする。

 両者の距離は三間さんけん半。一刀斎は構えを解かず、羊目のその目をじっと見る。

 左右共に、二つの瞳が並んいる。黄色く濁った虹彩こうさいはお互いに食い合いながら歪な楕円だえんえがいていた。

「この目のお陰で苦労した。人に疎まれたというのはさておいて、なにしろものが多重たじゅうに見える。しかしながら、大陸でそれに上手く対応したときに、初めて気付いた。どうやら僕は、人よりも視界が広いらしい。……あの程度の位置ならば、目端めはしにはいるよ」

 羊目の言葉に、思わず口の端が吊り上がる。ああなるほど、伊達に眼球に瞳が二つあるわけではないらしい。耳の後ろまで回ったはずだが、そこすら視界の内だとは。 

「それは、大したものだな……!」

「ッ!?」

 足元に落ちていた竹をサッと拾い、羊目の顔面目掛け下手したてに投げ飛ばす。今朝けさがたあやまって斬ってしまった竹だが、意外なことに役立った。

 自ら投擲とうてきした竹を追い、一刀斎は地面を蹴り出して三間半の間合まあいを駆ける。

あみあし!」

 しかし羊目も驚愕きょうがくしたのは一瞬で、斜め前に足を運ばせて竹を避け、同じく一刀斎へと攻め掛かる。

 彼我ひがの距離は瞬く間にちぢむ。狭霧は石火を飲み込んで、狭霧の中で石火はひらめく。

ッ!!」

「シュッ……!」

 据えられた拳が飛ばされる前に刀を袈裟に振るい牽制するが、羊目は刃下じんかを掻いくぐって紙一重でそれを回避して見せ、直線、最短距離で拳打けんだを撃ち放つ。

 剛剣ごうけんの一振りにすら匹敵する拳が迫った。

 出し切られる前に柄打ちでもって拳を払いつつ、打撃面を支点してんに一歩踏み込み、し切るように一歩踏み込んで斬り払う。

なまめあし

 だが羊目は、大きく後ろに下がる。そですそも動かさず、一瞬で四尺は動く運足は幻でも見せられてるかのようであり、魔法でも掛けられたかとさえ思う。

 だがそれは魔法でもなければ奇術でもない。

 間違いなく、練り上げられたわざの形。

うみやめあし!」

 離れた羊目を追ったものの、近付く刹那に羊目は身をひるがえしながら横へと転じる。

 目で追えばもはやそこには居らず――一刀斎は、羊目と逆回転に身を返し、振り向き様、背負った甕割かめわりを勢いよく振り落とした。

 背後に回っていた羊目はその眼を見開いて繰り出しかけの拳を引いて、大鉈おおはなのような一撃をやりすごす。

 鼻の頭に熱を帯びた太刀風たちかぜが過ぎり、それでも怯むことない羊目は、一刀斎の顎向けて掌底しょうていを撃ち出した。

 やはり近間ちかまは羊目の方に分がある。だが、しかし。

ァア!」

 三尺以内での振る舞いを、一刀斎は今朝方この場で鍛錬たんれんした。

 ぶっつけ本番でこそあったが、あの感覚が鈍らぬうちに試す好機こうきでもある。

 そして試す相手がここまで武を練り上げた相手というのも好都合こうつごう

 まどいの狭霧にかこまれてなおとらわれることはなく、伸び伸びと剣技わざを試すその様は、火の手をおどらす炎にさえ思える。

 だが、しかし。

とろきあし!」

「くっ……!」

 霧もそう簡単には燃やされない。勁の一撃は、はげしく熱い火の手を越して、炎心えんしんを打ち据えて火種ひだねから砕いてくる。

 一刀斎は悠々ゆうゆうとしながらもだがしかし、狭霧にひそ凶拳きょうけんに気を配っていた。

 力を直に流し打ち込む勁の技はただ苛烈かれつ。二度三度とは、受けられない。

 正直言って、お互い決め手に欠けている。

 今一度いまいちど大きく離れた羊目は、一刀斎をそのあやしい眼でめつけていた。

 だがそれも一瞬で、諦めたように嘆息を吐く。「やれやれ仕方ない」とでも言いたげに、肩をすくめて見せて。

「やはりと思っていたけれども、では足りないか。――正直、気は進まないが」

 拳を前に出した羊目は、調息ちょうそくしながら手形しゅけいを変える。それは仏像の印相いんそうのようで。

 静かな呼吸を繰り返す様は、まるで座禅ざぜんでも組み、瞑想めいそうふけっているようにさえ思えた。

、交わり、ハタとなり、我が身、絶対ぜったいなる太極たいきょくる」

 なにかを呟いた。その瞬間、羊目が吐き出した呼気が竹林ちくりん全体を包み込む感覚がした。

 押し固められた空気が一刀斎の体を縛り上げ、意に反して体を動かすことが出来ない。

 ――羊目の持つ気配が、変わった。

 霧のような気配は黒く凝り固まり、二本の腕は純然たる殺意が宿り、鋭いほこにさえ見えた。

(――――前だ!!)

 硬直こうちょくした脳天がふるえた心王しんおうに動かされ、一刀斎は咄嗟とっさに横に転じる。

 いつの間にか羊目が、眼前へと迫り手刀を振り下ろしかけていた。落とされた手刀しゅとうの衝撃は地面をおおう竹の葉を巻き上げ、共に出された踏み込みは、大地さえも縦に揺らした。

 いま羊目から発された力は先の比にならない。纏う気配は尋常ならざるものであり、もはや一体の鬼神と言って良いほど不穏。

 そして一刀斎は、この力と気配を知っている。

 己の力に酔いしれた武芸者崩れの無頼共や、人知を越えた怪力を持っていた牛童子。そして己の肉体に反した実力を発揮して見せた千治。

 羊目が放っている気配は、彼らのものと同じく。正気を逸脱した常識外れのものである。

「貴様、いったい……」

「なに、気息フラナととのえて経絡チャクラを開いただけ。――貴様に分かるように言えば、意識をいじって、力を増やし、通り道を広げたわけだ。――たまのおあし

「ツッ!」

 もはや分身と言っても良いほどの速度で足をさばいた羊目は、四方から、時間差で拳を飛ばす。

 幸い強力な意を乗せられた拳は読み易かったが、ただそれでも、回避することだけに心体しんたいが割かれ反撃はんげきの間がない

あしぬりこあし

 止まらない。触れることが叶わなかった狭霧は確かな質量ちから殺意いしを持って一刀斎に襲いかかる

 一歩いっぽ一打いちだ七歩ななほ七撃しちげき

 怒涛どとう拳撃けんげきは止むことない。一歩の距離は大きくなりながら、前後する一撃の時間差は逆に早まる。

 そしてそれらの拳は、数多ある急所をしかと狙い据えていた。

 目にも止まらぬ高速連撃は、呼吸などする暇など見つからない。だがしかし、目端にわずかに映る羊目の顔に疲労ひろう困憊こんぱいの色はなく、辛苦しんくしかめることもない。

 呼吸、息とは体を動かすために必須である。だというのにこの男は、息を止めてなおそのたいさばきに鋭さを増していく!

あしたれあし――――!」

「ッ……!」

 もはやそれは、ほぼ同時。九連きゅうれんの拳が、背面を除く七方から飛来する。

 その拳は無慈悲にも、一刀斎の肉体を強かに打ち付ける――!!

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