第四話 金翅鳥王の火

 一人ひとりは、おのれおしええてくれた女である。

 字をとおし、世界せかいひろさをおしえてくれた女。きびしく、しかられたことなどかぞえきれないし、おこれば理詰りづめでこちらをただし、完膚かんぷなきまでにいうちのめされる。だがしかし、一刀斎いっとうさいにとってほこれる「はは」であった。

 だがしかし、そのははこころを、一刀斎はみだしてしまった。それゆえに一刀斎は、あの伊豆いず伊東いとう三島みしま神社じんじゃからたびったのだ。

 二人ふたりは、あの世界せかいからこぼひとつのあかはな

 死だけが蔓延はびこけがれた世界せかい唯一ゆいいついのちという無垢むくかがやきをはなっていた、目の見えない童女どうじょ

 今まであってきたすべての中で、もっと綺麗きれいだと言い切れるだろうむすめ。彼女のおかげで、目指めざすべきけん一端いったんれることが出来できた。だがしかしその娘とあったのは、一度いちどきりのこと。

 三人さんにんは、その母親ははおやいやしくもたくましく、ねきったえだごとき女。

 むすめを大切に育てながら、目の見えない娘に、言葉ことばきるすべおしえながら、あの地獄じごくから追い出すために、かねへとえた女。

 そして最後さいご四人よにんは、京にて世話せわになった、大野おおのおさなむすめ

 こころやさしくはなやかな、少女しょうじょらしい少女しょうじょ武芸者ぶげいしゃいえまれながら、武芸ぶげい執心しゅうしんする家族かぞくたいし、さびしさと不満ふまんいだいていたむすめ。しかし、その家族がっていたやさしさをしんじ、あいしていた娘。

 だがしかし、その信頼しんらいあいはよりにもよって、もっと敬愛けいあいしていた長兄あにおかしたつみによって裏切うらぎられた。

 そして、その長兄をったのは――。

「……なるほど、な」

「どうだ、つまらんはなしだろう」

 そら見上みあげれば、つきはさほどうごいていない。ながらくかたっていた気がするが、本当ほんとうあきよるながい。

 はなしをせがんだ月白つきしろはと言うと、神妙しんみょうおもちで一刀斎の話にみみかたむけていた。

「そうだな、たしかに、わらえるはなしではない。だが、うん」

 清艶せいえんとしたほほみをかべ、ながひとみを、よりほそめて。

 いつくしむようなひとみで、よるらす月光げっこうつきえのような視線しせんで、一刀斎をめて。

「気に入った。お前は、とても綺麗きれいな男だ。その、赤という少女に負けないほどに」

 月白が、一刀斎の胸に手を伸ばす。からだふるえたが、「大丈夫だ」、と月白はつぶやいた。

 月白の手が、一刀斎の胸に触れる。小袖こそでしにもかるやわらかさ。ほそながく、組紐くみひものように白い指は、月明かりで白くかがやいていた。

あたたかいな……こころほのお、か。言葉ことばだ」

 しんぞうが、鼓動こどうはやめる。火山かざんのように、あつながして、全身ぜんしんえるようなのは、きっとさけのせいだろう。月白が相槌あいづちわりにさけをどんどん注いで、自分も素直すなおしたから。きっと酔っ払ったのだ。

「……一刀斎。言っていたな? その陣三郎じんざぶろうとやらの、なにかを斬ったと。そしてその技の名を、金翅こんじ鳥王ちょうおうけんと言うのだと」

 月白のいに、短く「ああ」とかえした。喉が妙にかわく気がする。これも酒のせいなのだろうか。飲むものでありながら喉を渇かすとは、酒には重大じゅうだい欠陥けっかんがないだろうか。

「なら、お前が斬ったものは、その陣三郎とやらに巣食っていた煩悩ぼんのう。心をおかしていた、やみそのものだよ」

 今まで実感だけがあった、の答えが、思いがけずあらわれた。

 この無遠慮むえんりょながらも才走る、「天下一の医者」を目指すという女によって、もたらされた。

 月白は一刀斎の胸に当てていた手でもって、今度は一刀斎の左手ひだりてを取る。無骨ぶこつで、指のふとく、しおけで、あさぐろくなったマメだらけの手。

金翅こんじ鳥王ちょうおうとはな、仏典ぶってんいわ迦楼羅かるらてんのことをしめす。煩悩ぼんのうもとである悪竜あくりゅうらい、病毒びょうどくくす火をまとったかみとり。そしてその、迦楼羅天のほのお背負せおうのが、はらい、煩悩ぼんのう権能けんのう不動ふどう明王みょうおうだ」

「……よく分からんな、説法せっぽうか?」

「いや、ちがうさ」

 なんとも観念かんねんてきな月白の言葉に、一刀斎は首をかしげる。そういえば、彼女の師で伯父おじである曲直瀬まなせ道三どうさん僧籍そうせきにいた。そのえんかある程度ていど仏法ぶっぽうわきまえているのだろう。

 月白は頬笑みをたもったまま、言葉をつづける。

「――きみこころの中に燃える炎。それはきっと、人の煩悩を斬り裂けるものなんだよ。一刀斎。君は人を斬るんじゃ無く、人の悪意あくいをこそ斬れる剣士けんしなんだ。見えないものさえ、斬れる剣士。……一刀斎。君はきっと、天下一の剣豪になれる。いいな、すごく良い。れたよ」

 ねつっぽくかたる月白に、思わず一刀斎は溜息ためいきく。

「どちらにせよ、人はる。怪我けがにんやす武芸者ぶげいしゃなんぞに肩入れするのはどうかと思うぞ」

「なに、武芸者とはそういうものだろう? 武芸者にめろというのは、わたしら医者いしゃなおすのを止めろというようなものさ。それにな? 世には武医ぶい同術どうじゅつという言葉があるんだ。どちらもひとからだ相対あいたいする技術ぎじゅつ。故に、お互い参考さんこうになるところがある。例えば」

 月白が、帯に挟んだおうぎを取り出す。と、同時に。

「こうだ」

「ぐっ…………!?」

 腕を取り、ぐいと身体を寄せてきたと思ったら下腹部かふくぶかれた。ただの扇と思ったが、おやぼねてつで出来ているようだ。

 攻め気は無かった。というよりも、攻め気があまりにもよわすぎて読めなかった。

 思わぬ一撃いちげきに、一刀斎は顔をゆがめる。

臓腑ぞうふきたえられないからな。効いたか?」

 にぶい痛みに奥歯をみながら、なるほどなと心の中でうなずいた。

 医者いしゃゆえに、肉体からだ構造こうぞう理解りかいしている。

「まあ、護身ごしん程度ていどのものだがね」

新左衛門しんざえもん殿と道三どうさん殿がしたしいのもそういうことか?」

「この柳生やぎゅう山々やまやまくすりもとになるくさが多くてね。それをもとめてのことでもある。あと、単純たんじゅんに新左衛門殿は顔が広い。松永まつなが顔役かおやくをやっていることもあるからな。……動いたら、少し、あつくなったな」

「あれで動いた内に入るのか──」

 月白が、打掛うちかけもどきの羽織はおりを脱いだ。おもわず、一刀斎は目をそむける。

 今まで羽織で気付かなかったが、なぜか月白は小袖こそでそでざつたすきけにしていた。お陰で、ほそうでさらされている。

「……あついのなら、部屋へやもどれ。流石さすが夜風よかぜたるのは、からだに悪いぞ」

「医者に養生ようじょうくのか? どれ、布団ふとん用意よういされているようだしそうさせてもらおうか」

 月白が羽織を持って立ち上がる。これで今夜こんやはおひらきか。――と思いきや。

「では失礼しつれいして」

「いやちょっと待て」

 月白はそのまま、一刀斎の部屋に入ろうとする。さすがの一刀斎。月白のかげの動きを見るやいなやすくと立ち上がり、その細い手首てくびつかむ。……力を入れれば、れそうだ。

 すると、月白は振り返り、その上気させた頬を、頬笑みでもっゆがめて見せた。

「……はじめて、君かられてくれたな」

「完全にぱらってるな、お前」

 女は苦手だが、酔っ払いには慣れている。自斎じさいは酔ってない日などそうはなかったし、酔いつぶれることこそなかったがえばその豪快ごうかいさにみがきがかかり、余計よけいに手が付けられなかった。

 だから、今の月白もせっしやすい。

「いいや酔ってない! だって一刀斎の方が飲んでた! なのに酔ってない! つまり、わたしも酔ってない!」

 そういえば、体もあつく喉もけるが、酔っているという気はしない。……自分は酒に強いのか? と一刀斎は首をかしげる。

 それはとりあえずさておいて。

「いや、お前は間違いなく酔っている……ほら、ってやる。部屋はどこだ」

「ん? わたしを部屋までんでどうする気だー?」

かせる気だ」

「ならわたしはこの部屋で寝る! 自分の寝る場所ばしょくらい自分で決めるぞ!」

「おい……」

 月白は手を振り払い、(一刀斎のために)敷かれていた布団にもぐむ。一刀斎はかいまきをがそうとするが、月白はしがみついて離れない。

 仕方しかたない。この部屋はこの酔っ払いに引き渡すとして、自分は松軒の部屋にでも上がり込むかと、一刀斎はかいまきから手を離し、隣室りんしつはいろうとする。

 ――が。

「…………なんのつもりだ?」

「ここは一刀斎の部屋なんだから、一刀斎が出て行くことはないだろう」

 月白に、すそつかまれた。

「ならお前が出て行け……」と、溜息混じりに振り返ると、ギョッとした。

 ……服が、はだけている。

 ざつに結ばれていたタスキはほどけ、おびはずれ、形の良い乳房ちぶさが今にもこぼれ落ちそうだ。というか、片方かたほう完全かんぜんに出ている。さっきのかいまき乱闘らんとうみだれたか。

 これが自斎であれば―出来るかどうかは別として―そのまま外にほうせたのだが、女の月白をこの恰好かっこうのまま外に出すのは気が引けた。

 なんとか視線をらそうと目をおよがせていた時、本が一冊いっさつ布団ふとんに落ちてた。月白が帯かふところにしまっていたのだろうか。

「なんだ、この本は……医学いがくしょか?」

「ん? ああ、これか? 読んでみるか?」

 医学書など読めないが、月白から目を話せるならなんでもいい。

 月白が差し出したそれを、一刀斎は受け取り、ほんはしに指を掛ける。

「で、なんの本なんだ?」

「伯父上が書いた黄素こうそ妙論みょうろんという本でな。交合こうごう指南書しなんじょだ。」

 めくった瞬間しゅんかんそくじた。

「…………なんで、そんなものを、持っているんだ」

「来る前にたなからくすねてきた」

「持ってきた理由を聞きたいんだが」

「……だって、同門どうもんの男に読んでいるところ見つかったら、恥ずかしい……」

「いや、持ち歩く方がはじだと思うんだが」

 急にしおらしくなったのは酔いのためか。それとも寸分すんぶんのこっていた乙女おとめごころか。前者ぜんしゃだ。

 月白には、みょう調子ちょうしくるわわされる。医者としてすぐれているのかも知れないが、すきと言えるところが多い。男の患者におそわれでもしないかと不安になるが、その為の護身の鉄扇か。

 一際ひときわおおきい溜息を吐いて、この酔っ払いをどうしたものかと思案しあんする。はやく処理しょりしなければ、すこし、あやうい。

「一刀斎なら、いいぞ?」

「――――は?」

「わたしでは、だめか?」

 言葉ことば真意しんいは、きよ艶然えんぜんとしたその頬笑みからうかがえない。酔う前までと、なんら変わりないその微笑びしょう。そのお陰か、「酔っ払いではない」と錯覚さっかくしてしまい、したぱらに血があつまった。

 一刀斎は、平静へいせいたもつようにいきむ。さとられぬように吸気きゅうきを腹の底にめ、呼気こきととのえる。

「…………なぜ、俺ならいい?」

 そのいに、月白は「決まっている」とほこらしげに。

「――天下一を目指めざす、仲間だからさ」

 天下一を目指す仲間。月白のその言葉に完全にきょを突かれてしまい、思わず月白のその顔を見つめてしまった。

 さっきの鉄扇の一撃いちげきよりも、深くしんつらぬいてくる言葉ことばだ。

 ……よく見れば、誇らしげで清艶せいえんとしていると思っていたその頬笑み。眉尻まゆじり対称たいしょうで、口の端はわずかにゆがんでいた。――月白は、無理をして笑っている。

 ああ、よわった。天下一を目指す仲間だから。だから好意を持ったのだと。この男ならいいのだと。――なぜ、自分がつとめて無視していたことを、平気で言うのだ、この女は――。


 一夜いちやにして、さけおんなおぼえてしまった。

 となりねむる月白のかお幼女ようじょのように無垢むくであり、昨夜さくや見せていたあのつややかさはえている。

 一刀斎は月白を起こさぬようにそっと布団ふとんから出て、枕元まくらもと用意よういされていた、愛用あいようしているかちかえし小袖こそでに袖を通す。どうやら桃が洗濯せんたくしてくれたらしいようで、よごれのほとんどはちていた。

 ……しかしなんだろうか、みょう気配けはいを感じる。予想よそう以上いじょうえすぎたような、少しあらぶった熱っぽさ。

 はて、と部屋へやわたしてみると、それに、気付いた。

 いつもはさやに、きっちりとおさまっていたはずのおのれ差料さしりょう。――甕割かめわりの刃が、二寸にすんかおのぞかせていた。

「…………すまん」

 なぜか分からないが、物言わぬはずの愛刀あいとうあやまっていた。つかを手に取り、サッと戻す。柄糸つかいとが妙に刺々とげとげしかった。

「ふわあ──」

 背後はいごから、低い声音こわねに対して可愛かわいらしいあくびが聞こえてきた。振り向けば、かたちのいい目をぬぐう月白の姿。

 やわらかな裸体らたいが、かいまきのうちから明らかになる。

 ──どおし見たはずだが、やはり直視ちょくしはできない。

「おはよう、一刀斎」

「ああ、いいあさだな」

 月白は布団からながら、枕元まくらもとに用意されていた小袖を手に取る。春霞はるがすみのような、薄紅うすべにいろの小袖である。

「……ん?」

「どうした、一刀斎?」

 ふと、気になった。

 今自分が着る褐返の小袖。昨日の夕に脱いだあと、すぐに洗濯したとして、夜に乾いて枕元に用意することなど出来るのか。

 というかまず、己の部屋であるはずなのに、なぜ月白の小袖が用意されているのか。

 あたりを見渡せば、脱いだはずのお互いの服がない。

 月白もそれに気付いたようで、「まさか」と二人ふたりかお見合みあわせる。と。

「おはようございます!」

「も、桃さん!?」

 障子しょうじがピシャリとはなたれて、あらわれたのはあき寒空さむぞら小春こはる日和びよりに変える女。

 この屋敷の主、柳生新左衛門の家内かないであるももだ。

「お食事の用意ができましたので、客間きゃくまへどうぞ。あ、からだきをお二人ふたりぶん用意よういしておきましたのでお使いくださいね。それと、来る時間は多少たしょうずらした方がいいかもしれないですよ。いえ、私としては一緒でもかまわないんですけれどね! それではまた!」

 ほがらかな笑顔えがおで言い切った桃は、湯桶ゆおけぬぐいをくとサッと行ってしまった。まるで季節外れの春一番はるいちばんのようである。

 いまので確信かくしんした。この小袖を用意したのは桃で、昨日きのう一刀斎たちが何をしていたのか、間違いなく把握はあくしている。

「……背中せなかいてやろうか?」

「……頼む」

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