第三話 月白

 最初さいしょおもしたのは、正月しょうがつもちである。

 近江おうみにいたころ正月しょうがつ堅田かたたで行われたもちつき。その時につきがった、両手りょうてにも余る餅。小次郎こじろうあたまより大きく、どんなツボにはまったのか、小次郎本人ほんにんがゲラゲラと爆笑ばくしょうしていた。

 ──その巨大きょだい餅もかくやというほど、やわらかそうで、たわわな、それでいて、かたちよく、きめこまやかな……むね。一刀斎の頭など、そのままはさめそうな、胸。

 本能ほんのうてきに、注視ちゅうししてしまった。「これはいかん」と、バっとかおをあげる。すると、目にうつったのは。

 ながかたちまぶたにぴったりそろう、なが睫毛まつげ健康けんこう的にうるんだ、かがやひとみ

 ゆるやかな曲線きょくせんえがく鼻に、うすく、べにいた様子ようすもないのに赤々あかあかとしたくちびるほおにくきはよくないが、それがかえって彼女の持つ清艶せいえんとした雰囲気ふんいきしてせている。

 ちいさなかおささえるくびほそく、一刀斎が両手りょうてつかめばおおきくあまりそうで。

 こしまである黒髪くろかみは、まるでほしらした夜空よぞらのようにつややかで、思わず目で追ってしまった。

 女だというのに、五尺ごしゃくなかばほどはあるだろう。その腹には余分よぶんにくがない。ももの太さは、前からは見えない尻朶しりたぶゆたかさを物語ものがたる。

 一刀斎は思わず目をらし、最初からそむければよかったと後悔こうかいした。

 この女は、まるで天上てんじょうに住まうという天女てんにょのようであり。

 きよらかなつきひかりが、そのまま人の形を成して現れたようであり。

 いや、それはとかく。

「す、ま──」

素晴すばらしい」

 いや、そうじゃない。すまんと言いたい。と、思ったが、素晴らしいといったのは、一刀斎ではなくて女の方。

 はてと思って今一度女を見てみると、目は見開みひらかれ、ひとみ爛々らんらんかがやいている。その光は、薄雲うすぐもとおした月のように幻惑げんわく的であり、同時に、メラメラと燃え上がる、情熱じょうねつの炎でもあった。

 その小ぶりなうすい口のが、不気味ぶきみに釣り上がっている。

「な、なに?」

「素晴らしい体だ!!」

 おたが全裸ぜんらだということもおかまく、女が大股おおまた風呂ふろはいってきた。

 予想よそうだにもしなかった珍事ちんじに、一刀斎に体はピクリとも動かない。

 というより、れてぶつかり合うたびに、小さく「たぷん」と音を立てる双峰そうほうから目がはなせずかたまってしまったのだが。

「まずこのうでだ」

 目の前までせまった女が、まえかがみになり、一刀斎の腕やら肩やらをさわり始めた。

 れたちちあたまで見えなくなり、もったいないと思ってしまった己を殴りたい……と思ったが、女の髪からただう、いかんとも解説しがたい芳香ほうこうに先に脳漿のうしょうを殴られた。

 草花くさばなの、あまかおりだ。くすりにも似ているが、瑞々みずみずしさがある。

「おいはなれろ」と、押し退けようとしたのだが。

 ──今までと違う意味で、一刀斎は動けなくなった。

「この腕……なるほど、剣客けんかくだな? ひだり前腕ぜんわんがよく発達はったつして重心じゅうしんが左に寄っている。──ああ、すごいな。この筋肉きんにくしつやわらかいが、指がまるほどではない。かえしてくる弾力だんりょくがとてもしなやかだ。これは人というより馬のようだな。剣を振り始めたのは、ざっと十年ぐらいか? だが骨格こっかくはまだ出来上がっているわけではないな。としは私と変わらない。十七、八ほどかな? なるほど、けんてきした成長せいちょうをしたんだな。だが、本格ほんかく的にけんまなんだのは最近さいきんた」

 組紐くみひものようにほそしろゆびで、一刀斎の体をなぞる女は、滔々とうとうと口を動かす。

 声は女にしてはややひくいものの、充分じゅうぶん色気いろけがあり、みみおくまでひびいてくる。心地ごこちのよいものだった。

「腕以外の発達はったつはまだまだ。ふむ……本格的なけん鍛練たんれんはざっと四年よねんか。あとが多いな。はげしい撃剣げっけん稽古けいこおこなってきたんだろう。それもこれは、ちゃんとした木刀ぼくとうった痕ではないな。ほとんどがふとえだのようなものだ。このあかみをびたけは、しおけか? うみ沿いで育ったか」

 たしかに今、一刀斎は裸をこの女に見せている。だがしかし、この女は、それ以上いじょうのものを見抜みぬいている。

 女は胴体どうたいさわえると今度こんどかがみ込んでふくらはぎへと手を伸ばす。

 ゆたかな胸が、ひざに当たってふわりとかたちを変えた。見ただけでわかる。あれはやわららかい。それこそつきたての餅のように。

「このあし具合ぐあいから見て、なるほど。今日きょうやまのぼりしたな。それとはべつたび疲労ひろうも見てとれる。二、三日ぐらいかな。この足もたくましいなあ……。このからだをしっかりとささえるちからづよさがあるし、弾力だんりょくもある。地面じめんからもどちから自分じぶんのものにく変えられる足腰だ。それと──」

 女は、今度こんどはすくと立ち上がる。そしてそのまま、顔をずいと、一刀斎の顔に近づけた。

 あと一寸いっすんで、鼻と鼻とがふれあう距離きょり。女は、その指を一刀斎のひたいほおに当てる。

 一方いっぽうひざからはなれた胸は、元のまるさに戻っている。こちらも弾力だんりょくり、かなりのものと見た。

「このひたいきず、これはふるいな。おも金属きんぞくかなにかでったものだ。気絶きぜつしたか? さすがにしたな。それに対してこの鼻と頬のものは最近さいきんだな。まだ七日なのかっていない。よほど鋭利えいりやいばで切られたと見た。この刃のはいり方からして、相手あいては君よりは小さい。ねらった一撃いちげきをすんでのところでけたか。こちらのは向かい傷だな。いさまましいが、想像するときもが冷える。体は大事だいじにするように。む、顔が赤いな。ああ、このにおい。くすりいてきたか。生気せいきやしな薬草くすりを湯に入れてきたからな。どうだ、血があたたまるだろう」

 ニコリと、首をかしげながら微笑ほほえむ女。

 顔が赤いのはきっとそのせいではない。

 匂いどうこうと言うが、鼻孔をくすぐるのはこのかみの匂いだ。

 薬のような、苦々しくも、どこか甘い香り。

「では、最後に」

 女が、またも屈みこんだ。今度はなんなんだと、どこかまたあのつぶれた胸を期待きたいして目で追うが、女はただひざちに。……かめわりがあれば、己を斬りたい。

 己の未熟みじゅくさに頭を抱えようとした、まさにその時。

「取るぞ」

「──は?」

 股間こかんかぶせていた、ぬのが取られた。

「おお……これは、すごいな。六寸ろくすん近いんじゃないか? いや、上背うわぜいがあるし、これは君にとっては定寸じょうすんか。……かたそうだな。もしやたせてしまったか?」

「立たない方がおかしい」

 ようやく出した言葉がそれか。と、心の中で己を滅多めったりにする。

 もうやめろだの、いいから出ていけだの、言うべきことはあるはずなのに。

 ……いや、理由は分かる。分かってしまう。なにも、ここまでおのれ忠実ちゅうじつでなくてようだろうと、一刀斎は生来せいらい気質きしつうらむ。

 女の方はというと、一刀斎の素直な答えに、その湿しめった睫毛をらしていた。

 この女の顔も、十分赤い。

「いや、失敬、わたしも初めて見るのでな。では」

 では。では? ……ではとはなんだ。

 女の手が、ゆっくりと近付いてくる。

 五本の指が、さっきまで己の体を撫で回した指が、いまだかつて誰にもさわらせたことのない己の──

「はーいそこまで!」

 あと八分はちぶ指先ゆびさきからねつが、じんわりと感じられるほど近くに来たとき、女の体が離れていった。

 ──ももだ。しっかり服を着こんだ桃が、女を羽交はがめにしてせていた。

「ごめんなさいねー一刀斎いっとうさいさん! この、おきゃくさまの連れなのよ! なにもなかったかしら? 私ちゃんと止められた?」

「あ、ああ」

「桃さん、わたしはあくまで……」

「言い訳はだめですよ。曲直瀬まなせ先生せんせいにもしかってもらいますからね! さあ上がりますよ!」

 自分より体格の小さいはず桃に、女はずるずると風呂から引きずり出されていく。

「ああ、そうだ。忘れるところだった」

 桃に小袖こそでけられた女は、自分が今までしたことなど忘れたように、嫣然えんぜんみ、その形のととのった切れ長な目で一刀斎を見る。

自己じこ紹介しょうかいおくれたな。わたしは月白つきしろ……天下一てんかいち医者いしゃに」

「はいそれはまたあとで!」

 言い終わる前に、桃にピシャリとめられ女──月白の姿は消える。

 なんだったのだろう。と、一人ひとりのこされた一刀斎はほうけて戸をじっと見つめる。

 月白は最後に言っていた。自分にとっても、深く馴染なじみのある言葉を────。

「天下、一」


拙僧せっそうめい大変たいへん迷惑めいわくをおかけして!!」

 柳生やぎゅうてい客間きゃくまで、一刀斎は、老人ろうじんあたまを下げられていた。老人は剃髪ていはつしており、着ている衣から僧侶そうりょと見受けられる。

 よほど健康けんこうなのか、血色けっしょくはだにもツヤがあり、思わず耳をふさぎたくなるほどこえも大きい。「矍鑠かくしゃく」という言葉が、これほど似合う老人はいないだろう。

「姪……あの月白つきしろというのは、御身おんみ姪御めいごなのか?」

 一刀斎はあのあとしばし風呂の中でぼうっとしてたが、はっとして上がってみれば、いつのまに用意よういされていたのか。身のたけ薄緑うすみどり小袖こそでがあったので袖を通した。

 すると、まるで見ていたかのように桃がやってきて、この客間きゃくままで案内された。そうしたら、これである。

「うむ……あれはかなりの発才はっさいものでしてな……あにちがって自由じゆう奔放ほんぽうで……」

「なら、兄に文句もんくを言うのだな。わたしは兄がはははらに置いてきた奔放ほんぽうさをひろってきただけだ」

 先程さきほどまで、己の耳朶じだでていた声に思わず身がねた。同時に奥のふすまが開かれる。

 出て来たのは、すずしいかおをした月白であった。一瞬、まと小袖こそでが自分の愛用あいようしていたかちかえしのものに見えたが、よく見れば濃藍こいあいであった。その上に、刺繍ししゅうのない白の打掛うちかけめずにながしていると思いきや、しかと見れば打掛ではなく羽織はおりである。

 手には黒い扇子せんすたずさええ、風呂上がりで紅潮こうちょうした顔をあおいでいる。

「さて、あらためて自己紹介だ。名前は月白。こちらの伯父おじうえ曲直瀬まなせ道三どうさん師事しじし、医学いがくまなんでいる」

師事しじなにも、拙僧や弟子でしわざぬすているだけではないか。もう二十にじゅうちかいというのによめにもかず。お前の母に顔も合わせられぬ」

「またその話ですか……。私は天下一てんかいちになる医者。医学をおさめるまではだれのものにもならないし、医学を修めてもとつぐつもりもない」

「またお前はそのような…………」

「――――たしかに、月白殿は医学の達者たっしゃとお見受けする」

 伯父娘おやこ喧嘩げんかくちはさんだのは、ほかならぬ一刀斎であった。

 おもわぬ伏兵ふくへいに道三は口をあんぐりとあけ、月白も意外な援軍えんぐんに「ほう!」と目をきらめめかせた。

「さっき風呂ふろで、おれを見て、触れただけで今までをまるはだかにされた。けた観察かんさつがんだと思う。思わずだまってしまった」

「うむ、見ると触れるは相手の症状しょうじょうを見る初歩しょほ初歩しょほ。よく分かっているじゃあないか」

「…………いや月白、このおかただまってしまったと言っていた。見ると触るだけでなく、くとたずねるも合わせてつが医術いじゅつ基本きほんなはずだが」

 半眼はんがん師匠ししょうするどく切り込まれ、月白は「ふっ……」と明後日あさって方角ほうがくを見る。……はぐらかした。

「……そろそろ、いいか? おれは外他とだ一刀斎いっとうさい景久かげひさという。天下一の剣豪けんごうを目指している」

 天下一。月白が自身も口にしたその言葉に、大きく目をひらいた。ちょうどその時。

「お待たせしましたー! 準備じゅんびが出来ましたよー!」

 縁側に出る障子しょうじひらかれ、新左衛門しんざえもんと桃がぜんいっぱいにられた料理りょうりを持ってきた。

「今日は久しい顔もあるし、初めての顔もある。いもいればわかきもいてとしはばも広い! 楽しい酒宴しゅえんになりそうだね!」

「お、飯が出来たかあ?」

 二の間のふすまが開かれて、現れたのはあくびじりの松軒しょうけん。どうやら長い昼寝ひるねをしていたらしいようで、ぼけまなこだ。

「あ、松軒さん。まだご飯があるので持ってきて下さーい」

「……客分きゃくぶんの身だから文句は言いませんわあ」

 前に運ばれた膳を見れば、御馳走ごちそうと言う他ない。

 野菜やさい味噌みそき、ししにく、煮た大ぶりのかわさかな。さらに米粉こめこげにえた山菜さんさいこめ茶碗ちゃわんやまりだ。

 これは久々ひさびさに、いい夜になりそうだ。


 一刀斎は、柳生邸の縁側えんがわで月を見ていた。

 母屋おもや縁側えんがわつながるこの離れの一室いっしつを、一刀斎はあたえられていた。そのとなりは松軒のものだが、その松軒と新左衛門は、道三といまだに酒宴しゅえんひろげている。

 一刀斎はあまりさけ興味きょうみがないので、一足ひとあしさき部屋へやもどった。

 あきそらせまたかい。山と山に挟まれた、柳生やぎゅうさとから見える月は、ぽつんとさびしげに見えた。そういえば、小次郎もあきつきが好きだったなと思い出す。今頃いまごろなにをしているだろうか。修行しゅぎょうえて、堅田かたたっているかも知れない。

「やあ」

 年下とししたあに弟子でしについて思いを馳せているところに、思わぬ客がやってきた。

 声のする方を見てみれば、夜に溶け込みそうな濃藍の小袖に、しろ無地むじの羽織を着流した異装いそうおんな

「…………月白殿か」

「月白でいいよ。さけでもどうだ? くすねてきた」

 徳利とっくり二本を指に挟み、お猪口ちょこ二つを手のうちころがしながら、清艶せいえんとしたみでってくる。

 白いほおはわずかに赤く染まっていて、酒で上気のぼせているのだろうか。

「酒か……師にまだはやいと言われていたままだったからな。飲む機会きかいいっしていた」

 京にいた頃に何度かすすめられたことはあるが、あまり興味きょうみかず、結局けっきょく今の今まで一滴いってきたりとも飲んだことはない。

「ふむ、なら一杯いっぱい

 月白がとなりすわみ、ぐいと酒をついだお猪口を差し出してくるが、一刀斎はサッと一尺いっしゃくはなれた。

 ポカンとする月白が、「どうした?」と、片手かたてをついて近付いてくる。

 目をやれば、くろひとみあおじろつきかりがうつみ、きよかがやいていた。息を飲むような、美しさ。ここまで玲瓏れいろうとした、宝玉ほうぎょくのような黒を、一刀斎は知らない。

 一刀斎が知る黒は、くらく、怖気おぞけの走る、あらゆる色がざりんだ雑多ざったな黒。

 しかしこの黒は、ふかわたる、きよらかな黒。星のまたたぞらを丸め閉じ込めたような、黒。

「……女には、良い思い出がなくてな」

「その年でもうおんな苦労くろうしているのか? ふふ、木訥ぼくとつに見えて意外いがいか?」

 からかうように笑った月白は、しかしその身を戻す。二人の距離きょりは、一尺に戻った。

つらいなら酒をめ。酒は百薬ひゃくやくちょう不安ふあんという百毒ひゃくどくおう退しりぞけるぞ」

 ことり、と、月白は酒をいだお猪口を縁側えんがわく。

 取るのを躊躇ためらったのは一瞬いっしゅんで、ればあとは一息ひといき、ぐびりと飲み込んだ。

 ……からい。うみしおからさとはまたべつの辛さだ。次にやってきたのは、果実かじつに似た甘味あまみだけがのこる。ただ、辛さによるするしびれはのこっていて、それがぎゃくに、いい刺激しげきになりあたまがスッキリする。

「…………美味うまくないな」

くすりだからな」

 月白は自身でも一杯注いだが、一気には飲まない。くちびるをわずかにとがらせて、めるようにんでいた。

 一つ一つのわずかな所作しょさが、どうしてもいろっぽく見えて仕方がない。

「……女には、良い思い出がないと言っていたな?」

さけさかなにはならん話だぞ」

「構わないさ。ただ、君に興味きょうみがあるだけだ。それに、伯父上おじうえが言っていただろう? たずねるもまた基礎きその一つ。わたしはどうもそれがおろそかにしがちでね。一つ、わたしのためにも、な?」

 月白が、一刀斎に二杯目を注ぐ。今度こんども迷いなく、直ぐさま口に運んで飲み干した。のどける――なぜこんなものを、大人おとなというのは好むのだろうか?

「……分かった。少し、長いぞ。印象深い女が、おれには四人いてな――」

 秋の夜は、長い――。

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