大和編

第一話 今世無双

いたぞお。ここが柳生やぎゅうだ」

 きょうち、みなみくだって二日ふつかきょうのある山城やましろさえて、大和やまと山道やまみち辿たどいたのは、山と山の間にある小さな村だった。まだ辰の初刻に入ったころで、朝日あさひ山影やまかげの落ちる村は、なにやら草紙そうし絵巻えまき一編いっぺんでも見ているかのようだった。

 人々ひとびとはまだ暗い中、いもわかきもはたけ仕事しごとにいそしんで、少年しょうねん少女しょうじょくらべなどして遊んでいる。なんとなごやかな雰囲気ふんいきだろうと、伊東いとうにいた時のことを思い出す。

「おや、雲林院うじい殿どのお帰りですかー?」

「おお、お帰りなさい雲林院殿ー!」

 村人むらびとたちがこちらに気づくと、松軒に親しげに声をかける。松軒はのんびりとした笑みを浮かべながら、「おーう帰ったー」とのんびり手を振った。

「そちらは、どなたさんで?」

「俺の知り合いの武芸者ぶげいしゃでよお、ちょっと、新左衛門しんざえもんに会わせたくてなあ」

「なるほど、柳生やぎゅうさまに! ではこのカブを持っていってくだされ。今朝けさいち出来できです」

「ならこのニンジンもたのむ!」

「そういえば昨日きのうれたキノコがあった、ちょっとってくる!」

 松軒が会わせたい男というのはよほど人望じんぼうがあるものなのか、作業さぎょうをしていた者たちが自慢じまん野菜やさいを渡してくる。

 子ども達さえ、大きな稲穂いなほだとエノコログサを引き抜いてきた。

「そういえば、このむらも「やぎゅう」と言うのではなかったか」

「おう、新左衛門は代々だいだいこのむらおさめてる土豪でもあんのさあ。松永まつなが使つかぱしりにされてるが……」

腕前うでまえは、今世こんせい無双むそうか」

 松永と言えばこの大和やまと大名だいみょうである。この村のにぎわいをれば、そなえるうつわが見てとれる。うえにもしたにもたよられる男なのだろう。

 さらに、おの師匠ししょう印牧かねまき自斎じさい匹敵ひってきしうるこの武芸者が、「今の世で一番強い」と言うのだからかなりの実力を持っていると分かる。

「それにしても、多いな」

 村人むらびとたちからたくされた、大量たいりょうの野菜を抱えて一言。どれもこれも水気みずけまとい、口の中に涎があふれる。まだ朝飯は、食べていない。

「あの一番いちばんおく屋敷やしきか?」

「おうさあ」

 同じく野菜を抱える松軒に、おくれぬように着いていく一刀斎。

 山の斜面しゃめんに作られた、村より一段高いやかたが柳生新左衛門が住む場所だそうだ。

 いったい、どれ程の男なのだろうか。……この野菜やさい馳走ちそうしてくれるうつわの持ち主だと有り難い。

「おーい! 新左衛門ー!! 松軒が帰ったぞー!」

「はーいただいまー……お帰りなさいませ、松軒様! あらまあ立派なお野菜がたくさん!」

 屋敷やしき炊事場すいじばから出てきたのは、小豆あずきいろ小袖こそでの女。年は三十そこそこといった具合だが、はつらつとした色気は十代の娘とも変わらない。たもとをタスキでまくり上げているのを見るに、朝食を用意していた女中だろうか?

「お桃さん……あなたあねえ、いちおう領主りょうしゅよめさんなんだから、めし準備じゅんびぐらい女中じょちゅうまかせなよお?」

大丈夫だいじょうぶ、新左衛門さんは私の料理が好きといってくれる人だから!」

「……なに?」

 今、領主の嫁と言ったか。

「紹介しよう。一刀斎。こちら新左衛門の奥方おくがたももさんだ」

「あらあら、旅の武芸者のお方? ようこそいらっしゃいました!」

 桃。その名に違わぬ、瑞々みずみずしい笑顔えがおを向けてくる。まるで童女どうじょのような笑顔である。

 春の陽気ようきはなつ人だ。まと雰囲気ふんいきは日のかがやはる野原のはらそのもので、はだざむい秋の山が、小春こはる日和びよりになったよう。思わずこちらも、頬が緩んでしまう。……のだが。

「で、その新左衛門は?」

「……えーっと……そのお」

 眉を八の字に下げて、浮かべていた微笑ほほえみが苦笑くしょうに変わる。はて、と一刀斎と松軒が首をかしげて、そのままじっと桃を見つめる。

 すると。

「お桃さぁ~ん……おはよー……いやあ、今日も良い天気だなあ……ふわぁああ……」

 アクビ混じりの、眠たげな声。

 縁側えんがわ障子しょうじがさらりと開いて、中から出てきたのは、結ってない髪を寝癖ねぐせでそこかしこに跳ねさせた男。

 深緑ふかみどり寝間着ねまきは、見ていて寒々さむざむしいほどにくずれていて、ふんどしも太腿ふとももも丸見えである。

 松軒はひたいを押さえて天をあおぎ、桃にいたっては、顔を手でかくし、耳まで赤くして「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぶやいている。

 ……まさか。いや、たぶん、おそらく、この二人の様子を見るに。

「……おや、松軒くん? ……お客さん?」

「……紹介しょうかいするぞお、一刀斎。あちらの寝惚ねぼけてるおっさんが、柳生やぎゅう新左衛門しんざえもん宗厳むねとし今世こんせい無双むそう大剣豪だいけんごうさまだあ」

 松軒が自棄やけっぱちに、寝惚けた男を指差した。


「そうか! 君が松軒くんが言ってた外他とだ一刀斎いっとうさいくんかー! 相当そうとううでが立つんだってね! いやあ、しかし、きしにまさ体格たいかくだ。それなのにまだウチの新次郎しんじろうと年がさほど変わらないって? ああ、新次郎っていうのは僕のせがれでね、今は松永殿のところに」

「新左衛門さん、食べてる時はあまりおしゃべりにならないの! 口からご飯が出ていますよ! ああもうお口にお弁当べんとうをつけて……」

 はしを持つ手が、止まっていた。用意よういされた朝食ちょうしょくを入れるはずの口は、空っぽのままポカンとあいて、喋りをやめないくだんの今世無双をただ呆然ぼうぜんと見つめている。

 松軒は慣れたことなのか、気にせず黙り込み、たまに「このあさけ美味いなあ」とつぶやきながら食事をしている。

「聞けば、印牧かねまきりゅうならっていたんだって?」

「ああ、おさめはしていないのだが。勝手かってに伸ばせと、言われたな」

 一刀斎の─引き気味の─答えに、「そうかあ」とうんうん頷く柳生新左衛門。あいわらず寝惚けたようなタレ目でもって、一刀斎を見つめる。

近江おうみ堅田かたた金剛刀こんごうとう一刀いっとう自斎じさい息災そくさいだったかい?」

「師匠を知っているのか?」

 ようやく箸に乗せた飯を、新左衛門の言葉で落としてしまった。

 そのいに「ああ、もちろん」と新左衛門は頷いた。

十年じゅうねんちょっと前かなあ。僕はあの人にけんならいにいってね。まあ三日みっかで追い出されたんだけどね。質問しつもん攻めにしたのが気にくわなかったみたいで。いやあ、僕は気になったらなんでもいてしまうタチだからさあ。だから、兄弟子とは呼ばなくて良いからね! 印牧流は君より修めていないから!」

 相変わらず、一度喋ると止まらない男だ。なのに箸を止めることがないのだから、となりについた桃は口から飛び出る飯を拾ってはうつわに戻し皿に戻しを繰り返し、自分じぶん食事しょうじもままならない。一刀斎もそのせわしなさに腹が減ってるのに食事を忘れていた。

 一人ひとり黙々もくもく食べていた松軒がさきに食べ終え、ため息をつく。

「すまないなあ一刀斎。本当に腕は立つ男なんだがあ……期待が外れたかあ?」

「なぜだ?」

 松軒の訊いに、一刀斎は首をかしげる。

「人の気質きしつと、剣の腕は別物べつものだろう。少し驚きはしたが、俺は人は見かけによらないと、誰かに教わったぞ、雲松くもまつ

「雲松?」

 聞きなれぬ名が出てきて、今度は新左衛門が首をかしげる。そして当の松軒は、こりゃあしてやられたと頭をかいた。

 桃は「はふう」と一息ついて。

「私からしてみれば、武芸者ぶげいしゃはみんな変な人ですよー……」

「「「一理いちりある」」」

 一刀斎も、松軒も、そして新左衛門でさえ、全く同時にうなずいた。


「僕は、印牧……富田とだりゅうにも新当しんとうりゅうにも手を出したけど、なかなかおさめきれなくてね、ただ、新陰しんかげりゅうはよくからだに合ったんだ。いや、、というのがいいのかな」

 散歩さんぽに行こうか。と新左衛門にさそわれた一刀斎は快諾かいだくした。松軒も連れ立って、柳生屋敷を出る。

 裏手うらてもんから出ると、そのまま裏山うらやまに続く一本道があった。

 なだらかな道がくねがりながらひらたいおかへとつながっているらしい。

 どうやら、普段ふだんはそこで剣を振るっているそうだ。

「新陰流は、かげりゅう含めた神道しんとうりゅうねんりゅう、三つを修めた上泉かみいずみって剣豪が練り上げた太刀たちでよお。そりゃあもう、恐ろしく理合りあいが組み立てられたもんでなあ」

「そういうところが気に入ったのかもしれないなあ。僕も理屈りくつっぽいところがあるからね。なにせ僕は、剣才けんさいがない」

 あっけらかんとそうのたまった新左衛門に、一刀斎は瞠目どうもくする。

「今世無双なのにか」

「はっはっは。そう呼んでるのだって、松軒くん含めて少数しょうすうだよ。師匠の弟子の中には僕ぐらいはざらにいる。でも僕は才能が無いなりに、だいぶ鍛練たんれんを積んだからね。剣を振った数と、理を学んだ時間だけは、ゆずりたくないな」

「新左衛門は鹿だからなあ」

 腰を後ろ手に回し、相変わらずほうけたタレ目でもって空を見上げている新左衛門。

 その言葉を訊くに、きっと「今世無双」となるまでには、相当な努力どりょくを積んだのだろう。今彼が纏う、遥か広い大空のような気風きふうとは裏腹うらはらに、ひたすらつるぎ地平ちへいを駆け抜けたのだ。

「なぜ、そんなに苦労くろうをしてまで剣を?」

「そりゃあ当然、むずかしい道だったからだよ」

 あっけらかんとして、新左衛門が笑いながら言い放つ。

「僕は昔からね、むずかしいことに挑戦ちょうせんしたがる性質たちだったんだ。難しいことを成すために、頑張がんばるのがきらいじゃなかった。むしろ頑張がんばるのは好きだ。出来ないことが出来るようになる。それは、他の何よりも幸福こうふくがある。果てしない道を進むことが、たまらなく楽しい。だから僕は、非才ひさいの身で剣を選んだんだ」

 剣を語る新左衛門の言葉には、剣に対する情熱じょうねつと、深い愛がせられている。おそらくこの男は、剣というものを誰よりも愛し、誰よりも剣を強くもとめている。だからこそこの男は、柳生新左衛門宗厳という男は、今世無双となったのだろう。

 思わず、甕割かめわりに手を伸ばしたくなる。この男の実力を、見てみたい──。

「ダメだよ? まだ抜いては」

 振り返りもせず、歩みを止めることもせず、まるで戯れに口笛くちぶえでも吹くかのように、新左衛門は一刀斎をたしなめる。

 しまった。心のままに動くところだった。

「すまん、はやった」

「心のままに剣を振る。まさに自斎先生の教えのままだ。それをその若さでおさめているなんてさすがとしか言いようがない」

 でも、と新左衛門は言葉を続ける。

心王しんおう自由じゆうにしすぎると、てきばかりが増えてしまう。死んだら最後、武を高められなくなるのが難点なんてんだ。すべてに勝てる力をやしなえればいいんだけど、天の運というのも世の中にはある。武を窮めるっていうのは、つくづく大変な道だよ。僕の師も「兵法へいほうを全力で振るうのは、人生に一度で充分だ」と言っていたしね」

 大変たいへんだと言いつつも、その口調くちょうはとてもかろやかで。

 つるぎみち。それがはがね剣山けんざん出来できていようとも、熱風ねっぷうすさすな荒野こうやであろうとも、この男は笑って進む。

心法しんぽうを身に付けたなら、心をきたえないとね。剣とは心で振るうもの。ならさ、心を極限きょくげんまできたえれば、きっとその剣は、無敵むてきの剣だよ」

「心を鍛える、か……」

 剣は心で振るうもの。自斎が常日頃つねひごろからかたっていた言葉である。

 すっかり身に付けたつもりであったが、初歩の初歩を忘れていた。

 技ばかりを鍛えていたが、心もまた鍛えなければいけない。……しかし。

「どうすればいいんだろうな。心を鍛えるとは」

「君の理想りそうけんは、どんなだい?」

「理想の剣?」

 一刀斎が訊き返すと、新左衛門は「うん」と相槌あいづちを打つ。

「自身の中にあるものを、全てを削ぎ落とす。そして最後に残るもの。それがその者にとっての理想となる。君も目指しているんだろう? 天下一てんかいち剣豪けんごうを。ならば君の中にも、天下一にいたりえる、理想の剣があるはずだ」

 新左衛門が、振り向いた。

 相変わらずの、気の抜けそうなタレ目である。

 だがしかし、その眼にうつっているのは、遥か高い天の先。

 天下一てんかいちという、唯一ゆいいつ無二むに究極きゅうきょく称号しょうごう

 理想りそうけん。そう訊われて、一刀斎にしてはめずらしく即答そくとうせず。

 目を閉じて、心をさぐる。そこに流れたのは、つい先日、陣三郎じんざぶろうったあの一太刀ひとたち

 を斬ったあの一太刀。 

「──それがなにかは、わからない。だが、確かにある。見えないものを、斬れた剣。たぶん、松軒が言う、綺麗なものだ」

「俺の言葉がそこまでひびいたかあ? 言ってみるもんだなあ」

 おぼつかない答えを聞いても、新左衛門は笑わない。ただ、穏やかに一刀斎を見つめていた。

 さっきまでの忙しない様子と打って変わって、落ち着き払った雰囲気。広大こうだいてのない、まさに天空の気配。

「素晴らしい。その若さで目指すべきものがあると感じている。それは稀有けう幸運こううんだよ。君は僕と違って剣にあいされている」

「新左衛門殿にはあるのか。理想の剣は」

「もちろん」

 にっこりと、わた秋空あきぞらのようにわらう新左衛門。その笑顔は老成ろうせいした達人たつじんのようであり、夢は必ず叶うと信じ、ひたすら突き進む少年のようであり。

「僕の理想の剣はね────、だよ」

「……なに?」

 新左衛門のその答えに、思わず目を丸くする。

 武術とは畢竟ひっきょう、相手を打ち倒す技である。どう相手をあやめるかを思考し、突き詰めるものである。陣三郎がちた天狗道てんぐどう理論りろんではあるが、武術の持つ要素ようその大半はそれだ。一刀斎とて、人を死なせたことは幾度いくどとなくある。

「人を死なせるのは、けがれるからか?」

「神道的なことをいうね。うん、こころにごると剣も切れ味を落とすからね。でも、そうじゃないよ」

 新左衛門は笑顔のまま、一拍おいて。

「だって、

 朗らかに笑いながら放たれたその一言に、一刀斎は脳天から斬り下ろされた。

 つらくような衝撃しょうげきが、六尺ろくしゃく五寸ごすん肉体にくたいを駆け抜ける。

ざんきわめることがけんまな意義いぎならさ、を窮めるのもまた剣だと僕は思うよ。剣は道具どうぐなんだから、斬らないことに使ったっていいじゃあないか」

 かなわない──。一刀斎は、膝から崩れ落ちそうになり、足が止まる。今まで、知り得なかった理想だ。しかもそれは、倫理りんり道徳どうとくだからという観念かんねんてきな理由でなく、「難しいから」という挑戦ちょうせんてきな理由である。

 この男は、なんと強い存在なんだろう。この男は、次元が違う。

 ――だが、心に浮かんだのは。

「斬らないを窮める、か。すごいな。真似できそうにない」

「ははは、確かに、けわしい道だよ」

「なら俺は」

 新左衛門のそれは、とても美しい理想の剣だ。だがしかし、自分がそれを目指すのは、なにか違う。そう、自分が目指すべき剣は。

「見えないものさえ、斬れる剣を手に入れる」

 一刀斎の言葉に、新左衛門と松軒は足を止める。二人は振り向いて、一刀斎をしかと見つめ。

「立ちはだかることごとくを、斬り越えられる剣士になる」

 一刀斎のその決意けついを聞き、新左衛門は優しく笑う。松軒もまた、にっかりと。

「ああそれも、てしなくむずかしい道だ──」

 僕の斬らない道よりも、遥かに険しい道程みちのりになる――。

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