第七話 生きているなら目指すだろうよ

 とらこくが終わろうとしているが、あきあさはまだ来ない。

 たび支度したくをした一刀斎いっとうさいは、腰にした甕割かめわりを抜いてみる。

 ほねまでったはずだったが、その刀身とうしんには、きずのひとつもついていない。やはり甕割は世に勝るもの無き剛刀ごうとうである。

 つかを握る手に、あの感触かんしょくがよみがえる。

 かわき、にくけ、ほねち、陣三郎じんざぶろういのちいだ。──あと何かひとつ、れた気がしたが、あれはいったいなんだったのだろう。

佐奈さなたちは、泣いただろうな」

 おのれしたっていた少女たちの顔を思い浮かべる。真面目で実直だった甲四郎こうしろう健気けなげ素直すなおだった佐奈。二人の大切な、「兄」を斬り殺したのだから。

 一刀斎もまた、友と呼べるであろう男を斬った悲しみがあった。

 だがしかし、後悔こうかいはなかった。目をつぶり昨日のことを思い出す。


「佐奈たちには、手前てまえから話す。幕府ばくふには、夜が明けてから報告しよう。一刀斎殿は、おかえねがう」

「その方が、いいだろうな」

 甕割の血をぬぐい、さやへと戻す。なにせ、兄のかたきである。その姿を見るのは、幼い二人にはこくだろう。

 いくら辻斬りであろうと、罪をおかし、天狗道てんぐどうちた男であろうと、二人にとってはかけがえのない兄である。

 やっと再会さいかいできた兄だろうに。積もる話も、これからできる思い出もあったろうに。

『やるべきことを果たさせる前に、死なせた』

 ふと、遥か昔に死んだ男の言葉を思い出す。もう顔も、声の質も思い出せない。最後に思い出したのだって、あの島を出てから有っただろうか。

 剣客けんかくだろうと言われた、父の言葉。それが今になって、心にひびいた。

「泣いて、くれるのだな」

 将善しょうぜんの言葉にハッとして、頬を拭う。

 一筋ひとすじだけ、涙がしたたった。もうそれ以上こぼれることなく、ただ一筋の涙だった。

「すまない。殺しておきながら」

「良いのだ。あなたは確かに息子を斬った。しかし、息子に巣食っていたしきものも、ってくれた。だからなのだろう。このような顔なのは」

 陣三郎を抱える将善の言葉につられ、その顔を見る。

 月に照らされた陣三郎の顔は、先程さきほどまでの悪鬼あっきのようなものとまるで違う。

 こころやさしい、家族思いの青年の顔だ。

「一刀斎殿。息子を斬ってくれたのが、あなたで良かった。息子が最期さいごに受けた剣撃が、あの太刀で本当に良かった。あそこまで綺麗きれいな太刀で、本当に」

 将善は、穏やかな顔で語る。

 こちらこそ、救われた。「お前で良かった」と言われ、あしに掛かろうとしていた虫が、散々ちりぢりに去っていった。


「いくか」

 甕割が映した昨日の記憶を、刀身と共に鞘に納める。

 これは間違いなく、忘れてはいけない記憶だ。

 初めて、己の意志で人を斬った。感情にられてではなく、遠慮えんりょなくって死なせたのではなく、斬ろうと思い、斬ったこと。

 そして、「なにか」を斬ったあの斬撃ざんげき。あれは生涯しょうがいにおいて、決して忘れてはいけないだろう斬撃だった。恐らくあれは、「天下一てんかいち」に必要なものだ。

 かさかぶ小屋こやを出る。長らくこの家にも世話になった。

 思えば二年にねん以上、京で暮らした。

 毎朝まいあさ佐奈が来て、朝飯を馳走ちそうになり、甲四郎を相手に稽古けいこをして、他の武芸者とわざきそい、近くの空き地で剣を振り、夕方、またむかえに来た佐奈に連れられ、夕飯を世話になり。陣三郎という、友に成り得ただろう男と出会った。

 大野おおのだけではない。

 けがれの中で美しく咲いていた少女と出会い、その少女を、身を裂いて地獄から追い出した母と出会い、「武とは綺麗だ」と、教えてくれた雲林院うじい松軒しょうけんという男と出会った。

 気付けば、三島みしま神社じんじゃにいた時よりも長い時間を過ごしていた。

「忘れない」

 自斎の言うような、剣を高める経験けいけんは思ったよりも積めなかったかもしれない。

 だがそれよりも、「大切なもの」を、この京には貰った。

 一刀斎は、京で得た思い出すべてを胸に秘め、家をった。


「そこをいくお方、お待ちなされ」

 東寺とうじの門前で、声をかけられる。

 少し、のんびりとした口調の、袈裟けさを着て、深網笠ふかあみがさを被った虚無僧こむそう托鉢たくはつか、と思いきや。

外他とだ一刀斎いっとうさい殿どのであるな」

「武芸者か」

 名を呼ばれ、甕割に手をかける。京では多くの武芸者と戦った。その中にはうらみを持つ者もいるだろう。僧侶そうりょふんしてやみちでもしに来たか。

「安心なされよ。戦いたいわけではない。御身おんみに、客人きゃくじんがいる」

「客?」

 虚無僧は「ついてきなされ」と京の町をのぼっていく。一刀斎は、言われるまま素直に後に着いていく。

 虚無僧から、害意がいいたぐいは感じられなかった。むしろ、この虚無僧から向けられていた思いは──。

 

 あきよるは、まだけない。

 虚無僧は、一刀斎を五条ごじょうにある寺に連れてきた。まだ小坊主もいない境内けいだいを、虚無僧は迷いのない足取りで、参道さんどうをまっすぐ進む。

「こちらだ」

 本堂ほんどうを前にした虚無僧が、足を止めて腰をかがめる。一人で上がれ、という意味か。

 まだ朝ではないというのに戸がひらかれており、わずかな燭台しょくだいの火が、あか堂内どうないらしていた。一刀斎は草鞋わらじを脱ぎ、本堂に入る。

 すると、堂の中心、不遜ふそんにも、本尊ほんぞんへと背を向けて、片膝かたひざを立てている男がいた。

「来たか」

 ────足が、止まった。

 えている。二つの炎が、蝋燭ろうそくではないなにかが、二つ並んで燃えている。

 蝋燭の炎のように小さくも、蝋燭のように光を発しておらずとも、はっきりと言える。その目は、何よりも強い炎のように燃えている。

 一切いっさい合切がっさいを焼き捨てる戦火せんかか。万人ばんにんみちび燈火ともしびか。それとも、衆生しゅじょうひとしく救済きゅうさいする業火ごうかか。

 あらゆる意味いみめた炎が、その目の中で燃えていた。

 見覚えがある。あの魔眼まがんは、あの日見たものに違いない。だが、しかし。

「おれになんの用だ──織田おだ尾張守おわりのかみ

「俺を、知っているか。知っているよな。なにせあの時、目があった」

 かげになり、その相貌そうぼうくろに染まっている。口の動きすら分からない。だがその口から放たれた言葉のあつは、まるで神仏しんぶつと相対しているかのように、重い。

 気配など、読むまでもない。

 この織田尾張守が放つ気配は、「それ」以外の何にも例えようがない。

 それはただ、ただただ強い、「炎」。

「まあ、すわれ」

 見えない火の手が、両肩りょうかたを上から圧し付けてくる。

 一刀斎は歯を食いしばり、してくる炎に反発はんぱつしながら腰を下ろした。

「ほう……」と、織田尾張守は目を細める。一刀斎が己の圧にくっしたわけではないと、まるで気付いているかのように。くつくつと笑って見せた。

つじりを、ったそうだな」

 その言葉に、一刀斎は目をひらく。将善はたしか、夜が明けてから報告ほうこくするといっていなかったか。もしや。

「集められた者達の中に、自分の手先てさきひそませていたのか」

「お前に」

 そのいに、織田尾張守は答えることなく。

近江おうみをやる」

「なに?」

 目を炯々けいけいあやしくかがやかせながら、尾張守はそう言い放った。近江をやる、とはいったい。

伊豆いずでもいいぞ」

「まさか、おれを雇う気か」

三度さんどは聞かん。近江か、伊豆か。どちらが欲しい」

 まるで、炎の中にいるようにいきぐるしい。今この男は、間違いなく己を取り込もうとしている。

 織田尾張守がこの京に来てから、ひと月とっていないはず。だというのに、一刀斎にゆかりある近江と伊豆の二国にこくの名をあげた。いったいどのようなみみを持っていれば、そこまで知れるというのだろう。本当に「これ」は人なのか。

 尾張守の瞳は、強く燃えている。この天下の全てを食らい尽くさんとするおおいなる火炎。

 その炎は、世界を焼き滅ぼす地獄の魔炎まえんか。それとも天下を平らげる泰平たいへい聖火せいかか。いや、それとも、その二つ、以上のものか。

 この織田尾張守という男は、底が知れない。武将というものは、皆一様みないちようにこのような者なのか。それとも、この織田尾張守という男が特別とくべつ怪物かいぶつみているのか。

 ──だが。

「どちらもお前のものではない」

 だからなんだという。

「そもそも、どちらもらん」

 この程度に、おびえてはやらん。まとわりつく炎を、己の炎でもって払いのける。

 こころおこったこの炎は、誰にもやるつもりもない。

 炎の魔王が、再び口を開く。

兵法へいほうおさめながら仕官しかんしないというのか。なら、お前はなんのために剣を振るう」

「天下一になるために」

 なんのためかなど、悩むまでもない。剣を握って、あの三島を発ったのだ。それ以外の、何者にもなる気はない。

 一寸いっすんの間もなく返ってきた言葉に、織田尾張守は押しだまる。だが、まわりの炎はいまだ強く、燃えていて────。

「カッハッハッハッハッハッハッハ!!」

 ──そのあつさが、あたたかさに変わる。

「天下一、天下一か! よく言ったな坊主。俺もそれを目指している!」

 二つの炎が、目映まばゆ綺羅きらめいた。

 今までの気迫きはくはなんだったのか。放っていた業火の気配が、祭り囃子ばやしの中心にある祭り火に変わる。一刀斎に纏わりついていた炎が、音頭おんどに合わせて踊るように揺らめいた。

 あまりの変わりように絶句ぜっくする。

「天下一の剣豪。ああ、ますます欲しくなったぞ。俺のもとでなる気はないか? ん?」

「ない」

「カッハッハ! 一刀いっとう両断りょうだんか! ますます気に入った」

 断られたというのに、何が面白いのか大笑たいしょうする織田尾張守。

 間違いなく、この男は炎だ。炎が持つ、あらゆる意味を内包ないほうしているのがこの尾張守という男だ。

 一刀斎は、逆にいた。

「目指しているのか、天下一を」

「生きているなら目指すだろうよ、天下一ぐらい」

 相変わらず、影になってたしかな表情は読み取れない。だがしかし、その影は間違いなく笑っていた。

「俺はなるぞ。この天下にある、全てのものを飲み込んで。天まで届く炎になる」

 その言葉に偽りはない。正しく、心の底から出た言葉。織田尾張守の根幹を成す炎心から放たれた熱に一刀斎は息を飲む。

 織田尾張守は、まるで火の手が天へと伸びるように、遥か高い天にまで己の手を伸ばしている。

 なにが将軍お付きの者だろう。この男が目指しているのは、それよりもなお、先のものだ。

「天下一を目指すなら、東へ行け。東は闘争の源流げんりゅうたる場所のひとつだからな」

 俺もことが落ち着けば東へ向かうつもりだしな。と付け足して、そのまま言葉を続ける。

「お前が天下一になったら、俺のところに来い。外他一刀斎。いつまでも待つ」

「なぜ、そこまでおれを求める」

「決まっているだろう」

 祭り火を絶やさず、心のそこから愉快ゆかいそうに。

 ふところから出した、扇子せんすでもって一刀斎を指しながら。

「お前も、天下一を目指しているからだ」

 そうきっぱりと、言い放った。

「──なら、ひとつ条件じょうけんがある」

「ほう? この俺に条件を出すか。面白い、言ってみろ」

 恐らく、さっきまでの戦火にまみれた中であるならば、不遜と打ち捨てられただろう。だがしかし、織田尾張守は気にすることなく耳をかたむける。

大野おおの将善しょうぜん含む、大野おおの一門いちもん安堵あんどだ」

 祭り囃子が、唐突とうとつに終わる。かといって戦火に戻った訳でもなく、むしろ、意外な一言で火が弱まった、というのが正しいか。

「辻斬りの正体が大野陣三郎であることは承知しょうちのはずだ。大野家は辻斬りを出した家だが、取り潰しにするのは、避けてもらいたい」

かまわんぞ?」

 思わぬほど早く、答えが早く返ってきた。

 なるほど。即答されるというのは、このような気分なのか。今まで即座に返事をして、目玉めだまを飛び出させていた人たちの気持ちが少しわかった。

「良いのだな」

「家一つ残すだけで、天下一の剣豪が手に入るのだろう? なら安いものだろう。それに、大野陣三郎将良。奴のことは覚えている。うむ、いい働きをしている奴だった。それにめんじてやってもいい」

 様子をうかがうように弱まった炎が、そのままの勢いで温かなものに変わる。まるで囲炉裏いろりのように、柔らかいものに変わった。本当に、多くの意味を持つ炎だ。

「感謝する」

 一刀斎は両のこぶしを床につけ、深々と頭を下げた。

 

「終わったようだな」

 東の空が、ようやく青みを帯びてきた。しかし京の町は未だ暗い。

 寺を出ると。ここまで一刀斎を連れてきた虚無僧がいた。

「ああ、終わった。──織田の軍門にくだっていたのか。雲松くもまつ

「あいやあ。バレてたかあ」

 深網笠が取られてみれば、その下にあったのはなつかしい顔。いつか四条で肩を並べた、新当流しんとうりゅうやり巧者こうしゃ雲林院うじい松軒しょうけんであった。あの時、鹿組しかぐみと名乗る連中を倒し、神社じんじゃの人々のはかを作ったそのあとすぐに、いずこかへ消えてしまっていた。

「まあ、織田とはただのはしわたし役で、今んところどっち付かずのコウモリをやってるが……。悩みは、れたようだなあ」

「ああ、お前のお陰だ、雲林院松軒」

 槍巧者と言ったが、この男の本来ほんらい得物えものかたなだという。それなのにあの槍の腕、いかずちでもるっているかのようで、自斎とならびうるだろうものだった。

「武は綺麗だ」と言っていたのは、この男であった。この男がいたから、あの陣三郎との戦いで目指すべきものが見えたのだ。

「お前さん、これからどうすんだあ? どこか、目指すんだろ?」

「さて、どうするかな。師匠の元には戻りづらいし、まだ伊豆いずには帰れん」

 人を殺したから戻ったなど言えば師匠から笑われるだろうし、伊豆には、すぐれた剣客になってから戻るとそう決めていた。

 そういえば。

「織田尾張守からは、ひがしきをすすめられたが」

「東ねえ……東には、新当流の達者たっしゃがそりゃあごろごろいるぜ」

「お前ほどの男は?」

「はっはっは、そういねえなあ」

 あっけらかんと笑う松軒。相変わらず、夏雲なつぐものように雄大ゆうだい気持きもちのいい男である。

 軽く笑った松軒は「じゃあよお」と一刀斎の顔を見た。

「俺が世話せわになってるところに、ちょっと来てみねえか? 紹介しょうかいしたい奴がいる」

「どんなやつだ?」と、一刀斎がくと、その微笑みをたたえたまま、しかしその眼差まなざしは、いただき目指めざす武芸者となり。

おれの師匠とならびうる、もう一人の剣聖けんせい。その技をいだ男。言うなれば……」

 夏雲なつぐもせたいかずちが、気配となって漏れ出してくる。

当世とうせい無双むそう──。俺らの世代じゃあ、そう呼べる男さあ」

 入道雲にゅうどうぐもは、空を見上げて口からこぼした。

 くもは知っている。雲などそらに比べれば、遥か小さいということを──。

「名を、柳生やぎゅう新左衛門しんざえもんという」

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