第二話 斬るべきもの

  柳生やぎゅうさとだかおかに、太刀風たちかぜが吹く。

 太刀風に散らされたかのように秋空に雲は一つ無く、爽快そうかいそらが広がっている。

 このおか柳生やぎゅう新左衛門しんざえもん普段ふだん稽古けいこに使う場所らしく、理由りゆうは「風が気持ちよくて空が見えるから」だそうな。

 しかし当の新左衛門は素振すぶりをせず、けんゆうである雲林院うじい松軒しょうけんかたならべ、ひたすら切り下ろしをしている一刀斎いっとうさいを見守っていた。

おどろいた。あの年でああまで素直すなお太刀筋たちすじえがけるものなんて、今まで見たことがない」

 一刀斎の素振りを見て、新左衛門は感嘆かんたんする。松軒はその言葉に、「そうだろう?」とわらって同意どういする。

 一刀斎の振り下ろしはごく自然しぜん無理むりりきみもなく、無駄むだ意識いしきもなく、無為むいにさせるみだれすら起こらない。それが連続れんぞく数十すうじゅうつづくのだから、おどろかざるを得ない。

「あれであいつ、自分のことを酒甕さかがめそこむしだとさあ」

「いったいどれほど大きい酒甕にいる虫なんだい、それは」

「む? どうかしたか?」

 なにやらはなされていたような気がしたが、二人ふたりのオヤジはにっこりとわらってこちらを見るだけでなにも言わない。

 なんだか気味きみわるいが、さっと無心むしんになって素振すぶりを再開さいかいする。

 それから十度じゅうど振ったとき、不意ふいに松軒が聞いた。

「それほどのろしはよお、やっぱり二年……いや、もう四年か。どちらにせよ、そんなもんじゃあ身に付かねえと思うんだがなあ」

 十一じゅういちの振り下ろしを、一刀斎はピタリと止めて。

「この振り下ろしだけは、十年じゅうねんつづけていたからな」

 いまとおひがしうみ、そのただ中にある、「かめ」を見やる。

「おれにこの振り下ろしをおれに教えたのは、おれの親父おやじだった。ぽっくりってしまったが」

「名のある剣客けんかくだったのかい?」

「知らん」と、一刀斎はてて。

「人をあやめて、島にながいた流人るにんだ」

「この御時世ごじせいに、流人ねえ」

「それは、本当ほんとううでったんだろうね。あだことごとたおしたなら」

「もしかしたら、つかれて島にげてきたのかもしれんな」

 いたのか、斬るのがおそろしくなったのか。とかく、あの大島おおしまいたってからは、自分のかぎりでは人を斬っていないはずだ。

「まあ、おれが相手にしていたのは木なんだが、へんからだに力をいれずに、無心むしん地面じめんまで振り下ろせ。あとは、上手うまくいったことも、しそんじたこともわすれて、今に当たる。ただそれだけだ。十年もやっていたことだから、骨身ほねみずいみ付いた」

 今では一刀斎の必殺ひっさつけんとなっているのだから、習慣しゅうかんというのはあなどれない。一刀斎からかされた言葉に、新左衛門と松軒の顔から笑顔は消え、なにやら神妙しんみょうなものとなっている。

 かなくてもかる。あれは「立ち会ってみたい」とか「その技を見てみたい」というものだ。ただ、一刀斎ではなく父に向けられた思いだろう。

心法しんぽうさえおさめている剣客けんかくが東にもいたか──世の中、本当に広いなあ」

「──心法しんぽう? なにがだ?」

 一刀斎のその訊いに、松軒は苦笑いをして見せる。

「なにもかにも、その振り下ろし。心法の要訣ようけつが入ってるじゃねえかよお」

 心法とは、こころが発した感情かんじょううごき、意志いしはたらき、それにともなからだの動きを呼ぶ。武術においては、剣を心に応じて振るう術のことをいう。本格的な剣の師である、印牧かねまき自斎じさいによって教えられた観念であり、その心法をおさめる

 一刀斎が、印牧かねまき自斎じさいもと会得えとくした心法はよっつ。

 ひとは、相手あいてこころはな気配けはいを読むこと。

 ふたは、心髄しんずいませたけんるうこと。

 三つ目は、そのふたつをわせること。

 四つ目は、心に意識いしきとどめて相手あいてさとらせないこと。

 だが、まだまだ心法は世にまだあるらしい。

涅槃寂静ねはんじゃくじょう

 いったいなんだと松軒にこうとしたとき、くちひらいたのは新左衛門だった。

 あの穏やかな口ぶりではなく、しゃべれば止まらぬ気の良い調子ちょうしでもなく、おごそかながら落ち着き払った、「真剣しんけん」、その一言で言いあらわせるものであった。

「──ねはん、じゃくじょう?」

「一刀斎くん、すこ山道やまみちを行くけれど、着いてきて欲しい。見せたいものがあるんだ」

 新左衛門の顔はおだやかだ。だがしかし、それはけっして笑っているわけではない。悲しんでいる気配もなければ、もちろん怒気どきというのもない。

 そのじょうは、なんと言いさだめればよいだろうか。着いていけば、分かるだろうか──。


 新左衛門に言われるまま、彼の後をついてどれほどったか。日のたかさを見るに、おそらく一刻いっこくはんったろうか。

 松軒には「かえりはおくれる」ともも言伝ことづてをあずけてさきかえし、いま一刀斎と新左衛門は二人きりである。

「いったい、どこまでいくんだ?」

「そろそろくよ。このさかがったら──ほら、えた」

 そこは、山道さんどうからはずれた場所にあるはやしであった。

 まるで、絵巻物えまきもの天狗てんぐでも出てきそうな、木漏こもれ日の少ない鬱蒼うっそうとした山林さんりん

 ──その、木ばかりの山林のなか、鎮座ちんざしていた。

 たかさは一刀斎とさほど変わらないが、そのはば奥行おくゆきは、しゃくはかるにはりない巨大きょだいいわ

 おそろしく不自然ふしぜんだ。

 あたりには似た大岩おおいわどころか小さな石すら見つからない。そもそも、崖からこぼれ落ちたならともかく、岩場もなにもないこの場所に、この巨大な岩があること自体に違和感いわかんがある。

 そしてなにより異質いしつであったのは、それほど巨大な岩が、ぷたつに、れていたことだ。

「新左衛門殿、これは──」

「僕が、これでやった」

 そういって新左衛門が抜いて見せたのは、わた二尺にしゃく五寸ごすん太刀たち。白く目映まばゆいそのけんは、かさねはうすいがそれだけにするどく、したた朝露あさつゆすらスパリとくだろう切れ味を持っているのがうかがい知れる。だが、しかし。

「その剣で、か──?」

 うたがうわけではない。新左衛門が、とうていうそを言っているとは思えなかった。その言葉には、一切いっさいうそいつわりがっていない。真実しんじつかれ体験たいけん物語ものがたっていた。

 新左衛門はあの薄刃うすばの太刀で、この巨岩きょがんった。

「少し、ながくなるんだけどね」

 いわく。

 この山でひるよるあさもなく、ひたすら心身しんしんけずりきらんばかりに、けん鍛練たんれんかさねていたときのこと。

 おのれ生死せいしさだかならず、ただ、けんるだけのてた新左衛門の目の前に、異様いようななにかが現れた。背は七尺ななしゃくしかけ、広げれば、四間よんけんなかばはあるだろうつばさった、巨大きょだい天狗てんぐ

 しかし、いまおもかえせばおそれも気負けおいもなにもなく、ただ無心むしんに、こしかたなえた。

 天狗てんぐは、その巨体きょたい見合みあわぬほど縦横じゅうおう自在じざいまわる。拍子ひょうしを合わせることができず、ただ刀を構えるだけですでれた体力をついややしていた。

 思考さえも出来なくなった、その瞬間に一筋ひとすじひかりかがやく線が見えた。無心に、そのせんとおりにけんせた。するとそこに、まわっていた天狗があらわれ、一刀の元に、幹竹からたけりに切り裂いた。

 ――そして、気付けば朝になっていて、目の前には、この二つに両断りょうだんされた岩があった──。

「もしかしたら、天狗はただの夢幻ゆめまぼろしだったのかもしれない。でもね、この手には確かに、なにかをった感触かんしょくが残っていた」

 一息ひといきはなえたあと、新左衛門は一度いちど「ふう」と息をき、言葉ことばを続ける。

「──ぼくがね、斬らないことをもとめたのは、それからなんだ。斬るということに、興味きょうみがなくなった。だからたぶん、あの天狗は、だったんじゃないかと思うんだよ」

「本当に斬るべき、だったもの?」

 おうむ返しに相槌あいづちに、新左衛門は目をほそめてああ、と答える。

「きっとその天狗てんぐは、すべての人間の中にあるものだと思う。すべての人間がそれぞれ持つ、えるべきなにか。それが、僕にとっては天狗だった。きっと、それを斬った時に残ったもの──それこそが、その人間の本質なんだろう」

 すべての人間がそれぞれ持つ、斬り越えるべきなにか。

 斬った時に残る、その人間の本質。

「あらゆるえた純然じゅんぜん境地きょうち。あらゆる煩悩がぎ落ちた、自然しぜん擊剣げっけん。この世のあらゆるものを斬り落とす利剣りけん。それが心法の究竟くっきょう、涅槃寂静の剣さ」

 この世の、あらゆるものを斬り落とす利剣。それは、つまり。

「先程言っていた、理想の剣」

「ああ、遥か遠く、そして限りなく近い、理想の剣さ」

 ただし、と新左衛門は言葉を続ける。

「むやみやたらとこれを目指すのも違うと思うんだよ。これは理想にするものじゃあない。理想を見つける過程で、理想を追い求める道程で至る場所。だから」

「──その内、見つけるさ」

 新左衛門が言わんとしていることに、さきんじる。

「剣の道なんて、遥か遠い道を行くものなのだから。明日起きたら天下一てんかいち、など、それはつまらん。新左衛門殿の言葉ことばりるならば、難しい方が、楽しい」

 一刀斎の言葉をいて、新左衛門はにこりと笑う。

 ──ああ、良かった。この少年は、僕のように、いそがない。

「──そろそろ、戻ろうか。秋は日が暮れるのが早いからね。しかもここは山の中だし! 急がないと本当にくらになってしまうからね! 熊も出るし!」

「ふむ、くまは斬ったこと無いな」

「僕はあるけど二度とは御免ごめんだね! 三回さんかいぐらいあるけど」


二人ふたりともおかえりなさい!」

 柳生の郷、新左衛門の屋敷に戻れば、桃の花がパッと咲いた。

 気に入っているこうなのか、新左衛門のつまであるももからは、名前通り果実や花のような香りがする。

 帰ってきた頃、夕日はまだ半分はんぶん顔を残していた。ひがしの山からはまだ月はのぼっていない。時間じかんとの勝負しょうぶにはどうにか勝てたが、代わりにくまと勝負することは出来なかった。

「あらあら二人ふたりともそんなに真っ黒になってあせをそんなにかいて……そうだ一刀斎様、お風呂でも入ったらどうかしら?」

 桃の、思わぬ提案に一刀斎は瞠目どうもくした。

 風呂など、今まで入ったことがない。いつも水をサッと被るぐらいであったし、そもそも風呂など、そんな高級なもてなしを受けるような立場にはなかった。

「風呂があるのか、この屋敷には」

「まあ一応、大名に仕えてる身だからね。もてなすために必要だからあるよ。」

「しかし、入ってもいいのか」

「いいのさ。実は今日明日、大事なお客が来る予定が有ってね。それも国外からの旅で、僕にとっても大切な人たちでもあるんだよ」

 それこそ一番をもらって良いものかと思うのだが……と一刀斎はうむと悩む。

「じゃあ、加減を見てもらうってことで入ってくれないかな。僕はそのお客と一緒に入って話をしたいからあとで良いよ」

「ぜひぜひ、その様子なら入ったことはないのでしょう? 人生で一度くらいは経験しておくべきですよ、一刀斎さん!」

 やわらかそうに見えて、押しが強い夫婦である。

 まあ確かに、風呂は魅力的である。入りたくないと言えば、嘘になる。

 うそになる、と思った瞬間に。

「わかった、甘えさせて貰う」

 否定する、理由がなくなった。自分はつくづく、良縁りょうえんめぐまれている。


「──これが、風呂ふろか」

 全面ぜんめんしろいたりで、そのいたよりも白い蒸気じょうき部屋へや一杯いっぱいまっている。

 ヒノキだろうか。ねっされたあまったるい芳香ほうこうはなっており、気が休まる。

 一歩いっぽ踏み出せば、足のうらからねつつたわり、あたたまった足腰あしこしとおしてのぼってくる。

 入り口の真向まむかいにある、一段いちだんたかくなったこしけにしてみる。これまたしりからねつが広がり、より、体が心地よいあつさに満たされていく。

「……ぁぁ……これが極楽ごくらくか……」

 今まで、これほど気の抜けた声を出したことなどあっただろうか。

 汗によって浮き出たあかを、ぬのでもってぬぐいとる。わずかばかりの垢だったが、なんだかこころからだかるくなる。

 なるほど、これは最大さいだいきゅう贅沢ぜいたくちがいない。師匠ししょうさけおんなけん以外いがい至上しじょうたのしみといっていたが、風呂ふろの方がはるかにいいと断言だんげんしよう。──いや、さけおんならぬではあるのだが。

 とりあえず、新左衛門や桃、そしてそのきゃくとやらには感謝かんしゃせねばならないだろう。

 一刀斎はじて、この慮外りょがい法悦ほうえつに全身を浸した。


 ──一方いっぽうそのころ

「おたせしました。ひさしぶりですね、曲直瀬まなせ殿どの!」

「おお柳生やぎゅう殿どの、しばらくぶりで!」

 ふく着替きがえた新左衛門が、客間きゃくまおもむく。その場にいたのは、僧衣そういに身を包んだ、菩薩ぼさつのように優しげな顔をした老年ろうねんおとこおだやかに見えるが、地声じごうであろうにかなりの声量せいりょうだ。いわく、過去に喝食かつじきとしててら全体ぜんたいこえひびかせたときたまものだという。

 男の名を、曲直瀬まなせ道三どうさんという。この天下てんかにおいて、ならぶものなき医者いしゃひじりである。

「いやはや、到着とうちゃくおくれてもうわけない。なにぶん、れが少々しょうしょうあしおそくてな……」

「お弟子でしさまれていらしたのですか。風呂ふろいておいたので、存分ぞんぶんいやしましょう。風呂でひとつ、もるはなしでも」

 風呂、と聞いた道三は、「おお」とにんまり笑う。

「いつもいつも、柳生殿には湯をもてなしてもらいありがたい……実は、今回もあるかと思い、湯に入れるとつかれにく良い薬草やくそうを持って来てましてな。いま連れに支度したくさせにいったのだ。もしかしたら、あれも湯が好きなので、加減かげんを見るといって勝手かってに入ってしまったかもしれんな」

「はっはっは、元気なお弟子でしのようで……なら、はち会わせてしまうかな?」

「……はち、会わせる?」

 新左衛門の言葉に、道三は笑顔えがおのままに聞き返す。しかしその笑顔は、どこかひきつっているように見える。だが新左衛門は、気付かぬようで。

「ああ、実は今朝けさがた一人ひとり客が来ましてね、道三殿をもてなす前に、湯加減ゆかげんをみてほしいと先に入れてしまったのです。無礼ぶれいかもしれませんが、そこは何卒なにとぞかれもまだわかく、湯に入ったことはない身で……」

「彼。なるほど、若い男……」

 道三は笑顔のまま。しかし、冷や汗をだらだらとあふながしている。まるで風呂に入っているようだ。

 そこで初めて、新左衛門は道三の心をみだす「焦り」に気付いた。

「……曲直瀬殿? いかがなされた?」

「……いけません、いけませんぞ柳生殿ぉ!!」

 勢いよく、まるで獅子ししのようにえながら立ち上がる道三。新左衛門は体をふるわせ、目を見開く。

「ど、どうしたのですか?」

「今日連れてきた者は……ここまで勝手に着いてきたのは……っ。月白つきしろなのだ!!」

 道三のその音声おんじょうおどろいたのか。それとももう帰る時間だからなのか。そとではカラスがきながら山へと帰っていく。東には、秋の青白い月が上っていた。


 風呂に、もどってみる。

 極上ごくじょう法悦ほうえつひたしていた、一刀斎の前に現れたのは。

「おや──先客せんきゃくがいたのか」

 天上てんじょう楽土らくどに住まうような、あおびかりする月が落とした影が、そのまま人の形を取ったような。

 ──一糸いっしまとわぬ、美女びじょであった。

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