第五話 心法

「俺の師の一人、冨田とだ五郎左衛門ごろうざえもんは目が見えないが、仕合しあいにはつよかった」

「目が見えないのにか?」

 朝稽古あさげいこが始まる前、弥五郎は縁側えんがわにて、自斎から座学を受けていた。

 昨晩さくばん小次郎と話をし、いつもよりねむった時間は少ないはずだが、みょうに頭がえている。

「弥五郎、お前も、目だけで相手を感じてるかよ?」

 師に問われ、思い当たったのが「お前の長所だ」と度々言われた「あれ」のこと。

「気配を読んだのか」

「おうよ、五郎左衛門の目が見えなくなったのは三十を過ぎた頃だ。だから、中条流をきわめるまでおさめることができなかった。だけどな、その分それまでに手習てならいした剣技わざきたえ上げ、仕合においては無双むそうの域にまでり上げて、そして、心法しんぽう駆使くししたのよ」

 心法。昨日自斎が口にしたものだ。

 心が意識いしき感情かんじょうするように、心で剣を発するすべ、だったか。

 自斎が、人差し指を立てる。

「心法の一つ、相手の気配を読むこと。大抵たいていやからは、すべての行動にを込める。その込められた意識を察して動く。五郎左衛門は目が見えずとも、相手の気配や呼吸で対応できた。気配は、目や手癖てくせよりも正直だ。それは分かるな?」

 弥五郎はうなずく。いくら相手がつくろうとも、言葉には出さずとも、纏う気配は真実しんじつ、その者が思うことをありありと伝える。

 自斎が続いて中指も立てる。

「二つ目、心の通りに技を振ること。五郎左衛門は目が見えずとも、心身に動きを染み込ませ、己の心に剣を振るわらせた。相手の剣やハッタリに惑わされず、素直すなおに己の剣を振るえたのよ。これも、分かるな?」

 弥五郎は一瞬なんのことかと思ったが、はたと思い付き再び頷いた。

 自斎が言っているのは、のことだろう。

 幼い頃から日がな一日、十年近く、一日欠かさず行い続けた薪割りによって会得えとくした、ただ真っ直ぐ剣を振り下ろすだけのもの。

 昨日、長巻ながまきの大男に対して振るった時は、「振るおう」とは思わず自然しぜんに出た。

 自斎が、今度は親指を立てた。

「そして三つ目だが──、」

「……」

 よほどの要訣ようけつなのか、自斎は声をひそめ、顔をずいと前に出す。弥五郎も、その三つ目を聞き逃さんと、顔を師に近づけた。

 自斎が、ニタリと笑う。

「──おしえてやらん」

「ぐっ!?」

 真剣しんけん眼差まなざしを向ける弥五郎の両目に、自斎の指が飛んできた。

 咄嗟とっさに体を反らして事なきを得るも、自斎の手は眼球がんきゅうどころかのうみそにまで届くほどの位置にある。さすがに貫きはしないだろうが。

「何をするんだ……」

「なーに全部教えてもらおうってつらぁしてんだ。三つ目はお前自身で身に付けな。さて、稽古けいこを始めるぞ」

 相変あいかわらず、豪放ごうほう自由じゆうな行動に、思わずため息をつく。

 心の思うがままに、奔放ほんぽうとして生きている自斎。

「剣とは心、か」

 不意に、その言葉を思い出した。自斎が度々たびたび口にする言葉である。

 先の目潰し、まさに突拍子とっぴょうしもなく、自由気ままに生きる自斎のように、唐突とうとつに飛んできた。

 心と直結ちょっけつした動きとは、ああいうことを言うのだろうか。

 弥五郎は師に遅れて縁側から出て、稽古場に放られた木刀を拾う。

 その日も弥五郎は、自斎に太刀の一本も決めることはできなかった。


「今日は適当にしとけ」と、自斎は小次郎こじろうを連れてどこかにフラッと消えていった。

 弥五郎は木刀をたずえて山中さんちゅうに入り、手頃な木を見つけてはひたすら木刀で打った。

 切り下ろしと同じように他の剣撃けんげきを体に染み込ませてみようと思ってのことだが、あれは十年近くやってたものだ、そう簡単に身に付くとは思えない。

 ただそれでも、やらないよりはましである。

 師の防御ぼうぎょを思いながら、木を師と思い、木刀を振るう。

 どうぎ、切り上げ、袈裟けさり、のどき。

 ──すべて防がれた。

 ぎゃく袈裟けさぎゃくぎ、ゆびり、すねり。

 ──すべて打ち返された。

 渾身こんしんの振り下ろし。

 ──避けられて、あごを打たれた。

 どう打つか考えても、防がれるし打ち返される。それでも、ひたすら剣を振るう。

 半刻後はんこくご

 弥五郎はまだ剣を振っていた。試打しだやくの木も振るう木刀もすでにボロボロになっている。弥五郎は頭の中の師を相手に振るっていたが、全て返されるのが面白くなくなってきた。

 一刻後いっこくご

 弥五郎は新しい木に向かって新しい木刀を振るっていた。

 木刀といっても、そこらに転がっていたちょうど良い長さの枝から、小枝を削そいだ簡素かんそなもの。しかし、元々もともと稽古で使っているものもそんなものだ。大して変わらない。

 あまりにも頭の中の師に打ち返されるので、師のことは忘れ、剣を振るだけにしていた。

 その剣は、烈火れっかのようにあらぶっている。

 それから更に一刻後いっこくご

 弥五郎は四本目の木を相手にしていた。木刀はすでに六本目だ。頭の中から振る剣を選ぶのも面倒になったので、適当に、思うがままに剣を振るっていた。

 すでに二刻半にこくはんも剣を振るっているが、弥五郎の剣はするどさがおとろえていない。逆に、頭の中の師からはなれ、のびのびとしてるようにさえ思う。

 だがしかしその振りはちからまかせで、ただただあらいものだった。その振るさまを子どもが見れば、「鬼が山であばれている」とさえ思うほど、鬼気ききせまるものであった。

 四本目の木の幹が、打撃によってげてきた。

 弥五郎は剣を止め、「さて」と、近くに水がないかと耳をすましてあたりをさぐる。さすがに喉がかわいたし、一刻ほど前から体が重い。

 水はすぐに見つかった。こけむした岩の合間あいまから、ちょろりちょろりと、こぼれるように落ちていた。山にある湧き水の一つで、淡海に流れるものと同源かもしれない。弥五郎は手に水をめ、一息ひといきにあおった。喉をうるおすにはまだ足りない。

 どれもういっぱい、と手を伸ばそうとした、その時、ふっと気づいた。

「……川か?」

 水が落ちる先、ごく小さな、まるで撚糸よりいとのようにかぼそい、水の流れが出来ている。一筋ひとすじにまっすぐ、どこか行き場があるように。

 もしかしたら、みず溜まりぐらいはできているかもしれない。そんなほのかな期待を抱いてみる。だが、すぐに「そんなわけないか」と鼻で笑った。流れは今にも消えそうだ。きっとどこかで途絶えるだろう。

 そう思いつつ、休憩きゅうけいがてら流れに沿って、歩みを進めた。


 弥五郎は、目を見開いた。

 カワセミが、をつついている。木漏れ日を反射し、がキラキラとかがやいている。

 消えると思っていた水が、大きな池に流れていた。

 流れは進むに連れて、そのふかさとはやさを増して、しまいには小さな飛沫しぶきさえあげていた。

 するどくなった水流は、この池へとつながっていた。

 岸辺きしべに膝を着き、両手で水をすくってみる。やたらとつめたく、んだ水だ。

 次の瞬間、思わずあおった。喉をらして流し込む。ほおしたたる水が、顔の火照ほてりをわずかにます。

 飲み終えれば、直ぐさま手を使わずそのまま水の中に顔を突っ込み、池を飲み干さんほどにすすった。

 火照った体が、元の体温へと戻っていく。ただそれだけなのに、極楽ごくらくにいるがごとき心地ここちよさだった。

 顔をあげ、頭を振って水気みずけはらう。再び両手いっぱい水を掬うと、体に浴びせた。

 掬い、浴びせ、掬い、浴びせ。どうせ汗で濡れていると、服が濡れることすらお構いなしに浴びまくった。

 体の隅々すみずみに水を浴びると、頭が冴え、心が落ち着いた。

 腰を下ろし、天をあおぐ。枝のしげった森の空は、葉の合間あいま合間あいまから木漏こもし、まるで太陽が分身ぶんしんしたかのように思えた。

「……おれは、なにをしていたのか」

 荒ぶっていた己を笑う。

 苛立いらだち、いかりのままけんを振るった。それでは決別けつべつしたまいだ。

 夢中むちゅうで振るったが、無我むがではなかった。我欲がよくにまみれた太刀筋たちすじだった。

 一心いっしんに振るったが、不乱ふらんではなかった。意識にはやったけんさばきだった。

 あんな剣は、おれにとって理想ではない。目を閉じて、しばしぼうっとする。


 べしん!


 ──うでを、叩いた。

 己が叩いたその腕を見てみると、ほそったつぶれていた。まだ血をう前だったのか、蚊の黒い死骸なきがらしかない。

 水で蚊を洗い落とそうとしたその時。ふっと手が止まる。

「おれは今、打とうと思ったか?」

 いや、まず蚊がいるなどと思わなかったのではないか?

 少し、なにかがぴたりと張り付いたと感じたが、感じたから叩こうなどとは考えなかった。

 ただ、冴えた体にきた違和感いわかんに、無意識に腕を叩いていた。

「──ああ、そうか」

 頭で考えることなどないのだ。

「心におうじて、体は動く」

 蚊が腕に止まっているのに、どこか別の場所を叩く道理どうりはない。

自然しぜんでいればいいのだ。思うがままにいればいいのだ」

 何をすべきかは、心がわかっている。

 目を閉じる。浮かんだのは、ほのおぞうだ。

 昨日、長巻の男と相対あいたいした時に浮かんだ、こころほのお

 炎は、風で揺れるがしんまでは揺れない。手ではらっても、わずかばかり揺らめくだけで、元の姿にたちまち戻る。

 これだ。と弥五郎は立ち上がる。

 おうじるもみだれない。炎は、己からは動かない。

 相手の意識に応じてかわし、即座に戻って相手をく。

 気配を感じ、どう動けばいいかは、心が知っている。

 気配を読む。心でもって剣を振る。

 この二つは別ではない。合一してこそ、意味が現れる。

 いつかの師の言葉を思い出す。

「防御と攻撃は表裏一体ひょうりいったい

 気配を読むという受けの心法。心で振るという攻めの心法。

 防御と攻撃が表裏一体というならば、二つ合わせたものにこそ意味がある。

 弥五郎は立ち上がり、木刀に使っていた枝も放っておいて、に戻る。だいぶ離れてしまったが、まあ、そのうち辿たどり着くだろう。

 弥五郎の足は行くべき場所が分かっているかのように、かろやかだった。


「帰ったぞ! 喜べ弥五郎、今日はフナに菜粥だぞ!」

「今日もですよね」

 夕方、日暮れ前に自斎は帰ってきた。

 なんのことはない。いつも通り堅田かたた面々めんめんと酒を呑みながら博打ばくちをうち、小次郎は女どもに可愛がられながら料理を教えてもらっていた。いつものことだ。だが。

「いませんね、弥五郎さん」

「稽古場かぁ? こんなあついってのに、あいつは剣ばっか振りやがるな。あそびぐらい覚えろってんだ」

 自斎は小次郎を連れ、裏手うらてにある稽古場に向かう。

 あんじょうそこには弥五郎がいたが、休憩しているのか、白砂しろすないた稽古場のど真ん中で、こちらに背を向けてしている。

 すると自斎。

「小次郎。お前それであいつの頭を小突こづいてこい」

「ええ……」

「またこの人は唐突とうとつに」と小次郎は辟易へきえきする。長いこと小間使いをしているが、自斎は自由奔放じゆうほんぽう豪放磊落ごうほうらいらく。心の思うがままに生きている。それゆえ、このような思い付きのまま行動することが多いのだ。

「弥五郎さん気配を読むのがうまいから、気づきますよきっと」

「なに、どうせ日がな一日振ってて疲れてんだから、意外といけるかもしれねえぞ」

 それに、と自斎は言葉を続ける。

「お前は長太刀ながだちひいでてんだ。お前のは俺の同門、印牧かねまき弥二郎やじろうから取ったって意味だぜ」

 その印牧弥二郎とやらは、たしかあるじうらられて死んだのではなかったか。と避難ひなんがましく見つめてみるが一刀自斎いっとうじさいは意にかいさず。それがどうしたとどこかぜ

 小次郎は仕方しかたなく、小さい背に三尺三寸さんしゃくさんずん長木刀ながだち寸の木刀を抜き、忍び足で弥五郎に近づく。

 気配をころし、息をひそめて。弥五郎は気づいていないのか、振り向く様子はない。

 一歩一歩、警戒けいかいしながら。もし気付かれたなら止まればよい。そう、思っていたのだが。

 面白いように、歩みは進んだ。そして気づけば刃圏はけんの中に、座する弥五郎を収めていた。

 驚いた。あんなにも気配が読むのがうまい弥五郎に、ここまでたやすく近づけるとは。

 もしや、眠っているのではないだろうか。そうとしか思えない。

 師匠の方を振り向いている。「叩いてしまえ」と言わんばかりに、満面まんめんみで手を上下に振っていた。

 どうにでもなれ、あととなれなんとやら。意を決して木刀を振り上げて、「すみません!」と心でとなえて振り落とす。──が。

 カシンッ!

「え───」

 木刀が、弥五郎の身を大きくれている。同時に首に、弥五郎の木刀の切っ先が、向けられていた。

「──ああ、帰ってきたのか。小次郎」

 弥五郎が、ほのかに笑う。

 小次郎が腰を抜かして地べたにころぶ。この人は、気づいたのか。


 最初に切っていたのは、風だった。風が吹く度に、風上に向かって剣を振っていた。

 それを十度じゅうどは繰り返したころ、木刀を振ったあとに、風が吹いてきた。それを最後に、ぴたりと風はやんでしまった。

 座り込み、次の風をひたすら待っていたときに、ようやく来たと思ったら小次郎だった。

 弥五郎はそれに対応したにすぎないが、驚かせてしまったようだと反省はんせいする。

「立てるか、小次郎」

「ちょっと無理ですね、びっくりしました」

「弥五郎」

 小次郎に手を貸そうとした時、潜んでいた自斎が現れた。

 その見開かれた目には、小次郎以上に驚嘆きょうたんの色が浮かんでいる。

「気づいたのか、第三だいさんの心法に」

第四だいよんの心法は、心をただして意をとどめ、気配を読ませないことだと思うが、違うか?」

 弥五郎の答えに、自斎はあせを浮かべる。同時に口角こうかくをつり上げて、犬歯を剥き出しにて獰猛どうもうに笑う。

 こいつ、一足いっそく飛び越えやがった。

「そして第三の心法は、第一と第二を合わせること。だな?」

「その通りだ!!」

 自斎が、えた。

「相手の気配を読み、応じ、てきした剣を振るうこと。見聞みききして反応するのではなく、動きの「う」をせいする剣を振るうことだ!」

 弥五郎の両肩りょうかたつかみ、顔面がんめん酒臭さけくさつばを飛ばすこともいとわず吼え続ける。

「頭ってのは知識ってもんを使ってなんとかしようと考える。だがな、戦いの中じゃ「考える」なんてのは無駄むだなことよ! その逡巡いねむりいのちりになるなんてざらにある! 気配は目や耳より早く状況じょうきょうつたえる。心は頭より速く行動をうながす。第一と第二は、共に扱ってこそ効果を発揮はっきする!!」

 肩から手を離し、縁側から奥座敷おくざしきに上がり込む自斎。その姿は羽を広げて暴れ回る鳥のようで、本当に自由な人間だと、弥五郎と小次郎はあきれる。

 が、それも束の間の出来事で。奥座敷から出てきた自斎の手には、木刀が大小だいしょうひとりずつ。

「受けとれ弥五郎!」

 自斎は大刀、定寸じょうすん中太刀なかだちを投げつけてきた。

 そして、自身は、小太刀寸の木刀を構える。

「お前がどこまで気づいたか、今すぐためしてやる!」

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