近江編

第一話 近江堅田の金剛刀

 波の音がするのにしおのにおいがしない。

 島で育った弥五郎やごろうにとって、このまちの景色は違和感いわかんしかなかった。

 うみ沿いを歩いてきたからなおさらのことだ。

 伊豆いずから東海道とうかいどうのぼっていった弥五郎は、伊賀いがから海に背を向けて北上した。

 伊東いとう三島みしま神社じんじゃってから半月と少し。蝉時雨せみしぐれは薄れ始め、ヒグラシが残り始めた頃。

 やっとこの地、近江おうみ堅田かたたへとやってきた。

「海から逃げたのに、海がまた見えた」と弥五郎は広大なうみ呆然ぼうぜんと見る。

 湖の上ではいくつもの船が往来おうらいしており、浜にはむしろかれ、その上には捕れたばかりであろう魚が並んでいる。行き交う人々は魚を買ったり話したりと、まるで城下のような賑わいだ。

 さながらみなとのようで、これが内海うちうみの景色だとは、とうてい信じられなかった。

 湖に近寄り指に水を付け舐めてみるが、全く潮の味がしない。普通の淡水だ。

わけえの、旅の人かい? 淡海あわうみを初めて見た野郎は、みんなそんな顔をするぜ」

 昼間ぴるまから酒甕さかがめ片手に、干し魚をしゃぶる男がやってきた。

 年は織部おりべより少し上だろうか。白の混じった顎髭あごひげたくわえている。背丈せたけ五尺五寸ごしゃくごすんほどだろうか。腕が太く、体つきがたくましい。ここの漁師りょうしだろうか。

「近江は街道かいどうがいくつもかさなってんだろ? だから、いろんな連中がんのよ。かくいう俺も、越前えちぜんからのながもんだ」

「なるほどな」

 東海道とうかいどう東山道とうさんどう北陸道ほくりくどう。三つの街道と畿内きないの中心にあるのがこの近江である。耳をすませば聞こえる言葉にも差異がある。人が集まってできたのが、この近江なのか。

「で、お前さんは、ここに何をしに?」

「人をたずねにな。ここは堅田で合っているか?」

 そのいに「おう」と答えるオヤジ。すると弥五郎が腰に差した甕割かめわりを見て、はたとなにかに気づいたように頷いた。

「まさか若えの、自斎じさい先生に用か?」

印牧かねまき自斎じさいを知っているのか?」

「もちろんよ。自斎先生はここいらの用心棒ようじんぼうでよ、うわちんを巻き上げようとする横柄おうへい水賊すいぞく相手に丁々発止ちょうちょうはっしと立ち回り、ばったばったとぎ倒す。お前さん見たところ達者なようだが、まさか、腕試しかい? ならやめときな。自斎の腕は天下てんか一品いっぴん近江おうみ堅田かただ金剛刀こんごうとう一刀いっとう自斎じさいといやあこの辺で知らねえ奴はいねえ」

 滔々とうとうと舌を動かすオヤジの言葉に、「それほどまでにか」とうなる弥五郎。織部に聞いた通りの達者たっしゃらしい。

「おれには、腕試しするほどの腕はない。その腕を、やしないにきた」

「なるほど、弟子入りかい。見たところ立派な刀を持ってるようだが……少し、気が抜けてるなあ」

「なに?」

 オヤジのふくみある物言いに、真意をこうとしたまさにその時、後頭部から足の先まで衝撃が走る。

 目の前が揺れて音もどこかぐらついている。同時に、左腰が軽くなった。

「ほうほう、こいつぁ名刀だ。お前さんみたいな若造わかぞうにゃあ惜しい」

「返せ────!」

 このオヤジが、酒甕で殴ったのだと気づいたのは今しがた。甕割をられたよりもあとだった。

 気配が読めなかった。攻撃しようという、意識のこりが全く感じられなかった。気配を読むのをひとつの長所と数えられていた弥五郎にとって、初めてのことである。

 オヤジはのらりくらりと弥五郎の手を避ける。まるで弥五郎がどう動くか分かっているかのように。いや、当然分かるのだろう。

 弥五郎は、刀を取りかえそうとしているのだ。

 刀を右に動かせば右に動くし、左に寄せれば左に寄る。気が急いて、あまりにも釣られ過ぎてた。

「なるほどわかった」

 オヤジが、甕割を上にぽいと投げる。一瞬呆気あっけにとられた弥五郎だが、即座そくざちゅうを舞う己の刀に手を伸ばす。が────

「お前さんはいささか、素直すぎるな」

「え──」

 気付いたときには、衝撃とともに頭が地面にくっついていた。

 足を払われ、腕をとられ、顔面を捕まれ地面に叩きつけられる。甕割に気をとられたきょを突かれたとはいえ、指を弾くより早かった。

 そして眼前に甕割が落ちてきて……額に、柄頭つかがしらがめり込んだ。


 なにかを叩く音に目を覚ませば、見たことのない屋根があった。

 すぐ側には囲炉裏いろりがあり、体を起こせば目の前には、座敷ざしきに繋がってるだろうふすまがあった。

 頭がズキンと痛む。額には、麻布あさぬのが巻かれていた。

 そういえば甕割が頭に落ちてきた。あれで気絶したのか。

「おや、起きましたか」

 後ろから声をかけられて、ハッとして、振り向く弥五郎。

 そこにいたのは、土間どまきざ小僧こぞう。歳は弥五郎よりもいくぶんか若く見え、背丈は五尺ごしゃくもないだろう。だがその背には三尺さんしゃく近い木刀が背負せおわれていた。

「お前は」

ぼくは小次郎といいます。お師様しさまの身の回りの世話をやっていて……お師様! お客人が目を覚まされましたよ!」

「おうまじか、はええな」

 座敷の襖が止まり止まりひらく。立て付けが悪いようで、ガタリガタリときしんでいた。

 そこから現れたのは、先ほどのオヤジ。

 弥五郎はハッとして、囲炉裏からまきを取り出して、オヤジに向ける。しかしオヤジは「いさましいな」と呵々かかと笑った。

「さて若えの。こいつは読ませてもらったぞ」

 オヤジが右手をかかげる。その手には、織部からたくされた文があった。

 ごくり、と息をのむ。

 意識の起こりがない奇襲きしゅう単調たんちょうとはいえ、弥五郎の動きに対応した足捌きに虚を突いてからの制圧の早さ。

 まさか、この男が。

「俺がこの手紙にある、印牧自斎その人だ。驚け若えの」

「お前が……印牧自斎」

 傲岸不遜ごうがんふそんに笑うオヤジ。後ろからは小次郎の嘆息たんそくが聞こえてくる。

 つまりだ。さっきこの男は……。

「自分で自分をたたえていたのか」

「全部本当のことだからよ」

 悪びれる様子もなく、口の端をつり上げて笑う自斎。

 実力は申し分ない。しかし、なんと豪放ごうほうとしているのだろう。

 弥五郎が感じた気配は、岩。全身が岩で出来た自由な大鳥おおとり屈強くっきょうながら自由じゆう。己の力量に自信を持ち、誇るもの。

 この自由奔放じゆうほんぽうさは、己の実力さえあれば、どんなものでも怖くないという意識の現れか。

 ふと、弥五郎が気づく。傍らにも、自斎の腰にも、「あれ」がない。

「甕割は……甕割はどこだ!?」

「うん? あの刀か。安心しろ別に取っちゃいねえ。あれは間違いなくお前のものだ」

 だが、と自斎が言葉を続ける。

「あの刀は今のお前にはちと早い。あの刀じゃ、斬り方を覚えられねえ。あれじゃ斬るのを覚える前に、断つこと割ることしか身に付かねえ」

 自斎のその言葉に、弥五郎ははてと首をかしげた。

 そんな弥五郎を見て、「はぁああ~~」と自斎はわざとらしく溜め息をついた。

「お前、やはりってもんがなにか分からねえんだな。いいか、つ、る、ぐ、ける、く。全部「る」に似た言葉だが、全然違う。それは「武器」を使った結果なるもんだ。だが、斬るっていうのは違う」

 弥五郎は、いつかとじに教えられたことを思い出していた。字が多いのは、字の数だけものがあることに通じる。意味の数だけ、言葉があるのだと。

 自斎がふところから短刀を出す。一尺数寸いっしゃくすうすんのごく短い刀だ。

 短刀を鞘から抜き立てて、手に持つ手紙をひょいと上にほうり上げる。

 そして────。

フンッ!」

 呼気と共に、銀の刃を一閃する。すると宙をただただ舞っていた手紙が、真っ二つに綺麗きれいに斬れた。不規則ふきそくに揺らめいていた紙切れが、太刀風たちかぜにその身を流されることもなく。

 その技のえに、弥五郎は絶句ぜっくする。

「いいか、これが斬るってことだ。斬るって言うのはな、使い手の実力でしか出せねえもんだ。これは紙だからだったが、剣客ってのは、これを人様相手にやるもんだぜ?」

 宙を舞う紙を斬るのが、楽と。この男はそうのたまった。

「いいか若えの。剣の鍛練たんれんはたった1つ、「斬る」を極めるためのもんだ。あの刀をお前に返すのは、お前が「斬る」ことが出来るようになってからだ」

「わかった」

 正直、うたがっていた。あなどっていた。

 あまりにも飄々ひょうひょうとしていたものだから、口だけなのだとどこかで思っていた。

 しかし違う、この男は、印牧自斎という男は本物だ。

 この男なら、俺に「剣がなにか」を教えてくれる。

「さて、若えの。刀は人質にとった。次にお前がすべきはなんだ?」

 弥五郎は、さっといずまいを正し、薪を囲炉裏に戻して両拳りょうこぶしを床につく。

 そしてまっすぐ、自斎を見つめ、

「おれの名前は弥五郎、前原まえはら弥五郎やごろう矢田やた織部おりべに名付けられた。印牧自斎殿。どうかおれを、弟子にしてくれ」

 深々と、頭を下げる。全く同時に、パン! と、自斎が己の膝を叩いた。

「かっはっはっはっは! 久々に叩き上げ甲斐がいのある若えのが入ってきた! 大人の弟子ってのは知恵がついて文句ばかりいってくるからいやだったんだ。やはり弟子するならガキがいい。いいぜ、弥五郎。お前に、斬るってのがなんなのかを教えてやる」

 体の真芯ましんが、熱くなる。ふと、織部の言葉を思い出す。

 こころほのお。この胸におこったのが、それなのか?

「話は決まったようなので」と、黙って菜を切っていた小次郎が二人の会話にはいる。

「とりあえず、ご飯にしましょう。今日はフナと菜粥ながゆです」

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