第三話 初めての決闘・前
何匹もの蝉が
弥五郎は
それは、
「けんかく、とは?」
お前の父は
「剣客とは、剣の技を振るう者だ。
いつもにこやかな織部は、珍しく口を結びながら語る。
ヘイホウ、とは聞いたことがある。今日、とじに
「お前の父は、人を
「ああ」
「であれば、お前の父はなかなかの剣の腕をしていたのだろう。今の世で
驚いた。自分の父は、そのような男だったのかと、弥五郎は唾を飲む。
そこでふと、弥五郎は首をかしげた。
「剣に
弥五郎の問いに目を伏せる織部。沈黙が続くと思いきや、その
「まあ、私は剣を
織部が左の肩を押さえる。時折、織部が肩を押さえる姿を見たことがあったが、あれは
「弥五郎」
織部は、真っ直ぐ弥五郎を見やる。いつになく真剣な眼差しであり、弥五郎は
「その
織部は
「どうだ、剣を覚えてみるか」
風と共に、弥五郎にその言葉を告げた。
「今のはどうだ、織部」
「やはり振り下ろしは大したものだ。しかしから横となるとぶれる。胸だけでなく腰と股間を
「ふむ……」
織部は剣を教えると言ったがどう振ればよいのか。どう足を運べばよいのかということばかりであり、剣を打ち合ったり、技を教えるということがなかった。
とはいえ織部も肩を壊しているらしいし、何より流派の技を教えるには
弥五郎も、こだわりはなかった。先に先にと
ただひとつが出来るまでを、反復して繰り返す。そして、この暑さのなか100ぺん200ぺん振っても耐える体力。
織部が
この一年で、メキメキと実力を付けている。
だが、それだけではない。
弥五郎が、剣をピタリと止める。
織部が「なぜ止める」と再開を
「織部さま。最近この近くで出る
とじが、拝殿の影から現れた。
織部は「またこれか」と
前々からそうだったが、剣を覚えはじめてから、弥五郎の気配を読む感覚がより
気配を読む。それは剣術だけでない、広い分野において役立つ力である。
だがしかし、それを活かす
それが生きるときというのは即ち、命を取り合う「
「わかった、今行きましょう。弥五郎。水を飲みゆっくりと休め」
織部の指示に、弥五郎は「わかった」と短く答えて、
夏の暑さを和らげる、涼しげな香りを纏わせてとじが弥五郎に近付いてくる。
「では弥五郎、水を飲んだら私の部屋に来なさい。今日は私の読み上げた言葉を書いて貰います。覚えた漢字は必ず、しかし正しく使いなさい」
「
「せいぜい小枝の葉ですが、生きていくにはなんとかなる数でしょう」
げんなりする。この世に字、多すぎないか。
「字が多いとは
ならば。
「字を全て知れば世の全てを知れるのか?」
「いいえ」
とじはすぱりと言い切った。
「字だけ見ても知ったとは言えません。わかるのはそれがあることだけ。それで知ったと誇るのは己を
「見れば知ったと言えるのか?」
「いいえ」
とじはすぱりと言い切った。
「見ただけでなく、体の内に
「なら、全て知る人間なんて、いないのだな」
「はい」
とじは、すぱりと言い切った。
「私とて、何も分かりせんから」
夕刻。長かった勉学の時間が終わる。未だ鼻の奥に残る、とじの部屋の香の匂いに鼻をムズムズさせながら、弥五郎はまだ暑い
勉学前にとじが言っていた意味がなんとなくわかった。
見れば知ったとは、字を知っているということ。
どういうものか理解するというのは、字を文として書くということに等しい。
人生は短い。母も父も、そう長生きはしなかった。
あの島の者達のように年はとりたくない。
「人生」という限られた時間で、おれはなにを「知る」ことが出来るだろうと、弥五郎は木刀を拾いに拝殿に向かう。
と、その時、
ぬめっていて、それでいてひりつくような、
参道だ。弥五郎は刀を持って、拝殿の裏より出る。
そこには織部と、見たことのない男がいた。
背は
「久しぶりだな、織部殿」
「これは……珍しい
織部が、左肩を押さえながら男と話をしている。どうやら一放というらしい男は織部の知り合いのようだ。どことなく、親しげな雰囲気をまとっている。
だがしかし、弥五郎は感じていた。親しみのなかに秘められた、煮え立つような
「なぜ、
「よくないうわさを聞いた」
一放は、鋭い突きでも放つように
「得たいの知れぬ者に、「
「トダ」。それが織部の剣の名前なのか? 弥五郎は拝殿の裏でじっとして、二人の声に耳を傾ける。
「私は富田の剣を修めていない。教えるなど
ただ、と、織部は言葉を続ける。
「火のないところに
「それが問題だと言っている!」
一放は、その
「
一放は一息に責め立てる。その言葉の
だが。
「弥五郎には、剣の才がある」
「なに?」
「体格、素直さ、気配を読む力。どれも剣客に
「一つの太刀?」
聞きなれない様子で、一放が聞き返した。織部は「
織部は「ふう」と、調子を
「あれは剣の達人となる
「ともかく、剣を教えるな。貴様に剣など、教える資格は」
「先生」
思わず、割り込んだ。一度も呼んだことないその単語で、とじに使うよう
織部は振り向き、一放は声の主を
「夕方の、素振りは、どうすれば、よいのか」
どもりながら、織部に聞く。弟子らしい振る舞いとはどのようなものか。礼儀を
「……弥五郎?」
「弥五郎? そうか、そいつがお前が剣を教えているという」
一放は、織部の横を通り抜けて弥五郎の眼前に立つ。弥五郎の方が
これが剣客か。と息を飲む。背中に、
「確かに、体格はある。目も鋭い。だがしかし、若いな。未熟だ。織部の剣では、このようなものか」
一放は
木刀を握る手に、力が入る。身体中の、血が
「……どのような剣だと?」
「なに?」
わざと尖った犬歯を
「知っているか。見ただけでは、人はなにも知れないのだそうだ。お前は、おれを見ただけで知った気になった。それを、未熟という」
いつだか聞いた言葉を、思い返しながら言ってみた。
織部も一放も目を見開いて、弥五郎を見遣る。
一拍おいて、織部はそれを聞いて顔を伏せ、逆に一放は、大笑した。
「なるほどお前の言葉も一理ある。だがしかし、子どもの剣など見ればわかる。見ずともわかる。大方、その体躯に任せるだけだろう。織部の教えも、どのようなものか察しがつく。考えて出した結果が、大したことのない剣だ、というのだ、小僧」
「──試してみるか?」
「なに?」
織部は、肩を震わせる。一放は、目が飛び出さんほどに
「俺の剣がどのようなものか、試してみるかと聞いている。お前の脳天をカチ割るか、逆にお前が俺を打つか」
「──面白い」
面白いというわりに、一放の顔は笑っていない。
「織部、参道の前を借りるぞ。小僧に
一方的な提案に、織部は言葉もなく
「いいか小僧、貴様に剣のなんたるかを、教えてやる」
そう吐き捨てた一放は、
一放の姿がなくなって、弥五郎は黙りこくった織部に声をかけようとする。勝手な真似をして、怒らせてしまっただろうか?
「織──」
「ぶ、くははははははははははは! あーはっはっはっはっはっはっはっは!」
「怒って、いないのか?」
その問いかけを「なぜ怒る」と一笑に
「言葉が上手くなったな、弥五郎! お前は今、喧嘩を売ったぞ。それでいい。男なら、一度は喧嘩を売るべきだ」
いつもの穏やかな表情とは違う、
なるほど、これが織部の「素」かと、弥五郎は察した。
「さて弥五郎。どんな気分だ」
「どんな?」
「お前は今、どんな気分をしている?」
織部に
今まで、感じたことのない感覚だ。例えるならば何が近い。この感覚は、いったいどう言い表せる?
「──明日が、楽しみだ」
弥五郎が、口の端を大きく
「剣を振るのが、楽しみだ」
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