第三話 初めての決闘・前

 何匹もの蝉がわめき立て、陽射ひざしが夏の日が烈火れっかの如く肌をく。

 篠突しのつくほどの蝉時雨せみしぐれを切り裂いて、するど風音かざおとが割って入る。弥五郎やごろうだ。

 弥五郎は三島みしま神社じんじゃ境内けいだい拝殿はいでんの後ろで、二尺にしゃく三寸さんずんカシ木刀ぼくとうを振っていた。

 織部おりべはそれを、ひたいの汗も拭かずじっと見ている。


 それは、まきりを織部に見られたあの日の事。遡ること、一年前である。

「けんかく、とは?」

 お前の父は剣客けんかくでは。織部のそのいに、首をかしげる。

「剣客とは、剣の技を振るう者だ。平法へいほうを学び、それで生きる。兵法家ひょうほうか武芸者ぶげいしゃとも言う」

 いつもにこやかな織部は、珍しく口を結びながら語る。

 ヘイホウ、とは聞いたことがある。今日、とじに勉学べんがくとして、源平合戦げんぺいがっせんを聞かされた時に出てきた言葉で、字も覚えさせられた。

「お前の父は、人をあやめたと言っていたな」

「ああ」

「であれば、お前の父はなかなかの剣の腕をしていたのだろう。今の世で流罪るざいが珍しいのはな、弥五郎。流れる前に、死ぬからなのだ。この戦乱せんらん、戦の外で人を斬れば必ずあだちが現れる。だが、その仇をも退しりぞけて、更にその仇さえ斬り伏せたならば、その者は流罪となるだろう」

 驚いた。自分の父は、そのような男だったのかと、弥五郎は唾を飲む。

 そこでふと、弥五郎は首をかしげた。

「剣にくわしいのか、織部は」

 弥五郎の問いに目を伏せる織部。沈黙が続くと思いきや、その静寂せいじゃく一寸いっすんで。

「まあ、私は剣をならっていたことがあったからな。おさめきる前に、肩を打たれて稽古が出来ない体になったが」

 織部が左の肩を押さえる。時折、織部が肩を押さえる姿を見たことがあったが、あれは肩凝かたこりではなく古傷ふるきずだったのか。

「弥五郎」

 織部は、真っ直ぐ弥五郎を見やる。いつになく真剣な眼差しであり、弥五郎は身動みじろぎひとつすることが出来ない。気を、呑まれた。

「その体躯たいく、その振りその剣捌けんさばき、お前は、剣をするために生まれたのかもしれないな」

 織部は一拍いっぱく置き、

「どうだ、剣を覚えてみるか」

 風と共に、弥五郎にその言葉を告げた。


「今のはどうだ、織部」

「やはり振り下ろしは大したものだ。しかしから横となるとぶれる。胸だけでなく腰と股間をく使いなさい」

「ふむ……」

 織部は剣を教えると言ったがどう振ればよいのか。どう足を運べばよいのかということばかりであり、剣を打ち合ったり、技を教えるということがなかった。

 とはいえ織部も肩を壊しているらしいし、何より流派の技を教えるには免状めんじょうが必要で、自分にはその資格がないから出来ないのだと、律儀りちぎなことを言っていた。

 弥五郎も、こだわりはなかった。先に先にとはやる意思はなく、かといって機械的にこなすわけでもない。

 ただひとつが出来るまでを、反復して繰り返す。そして、この暑さのなか100ぺん200ぺん振っても耐える体力。

 織部が剛毅ごうき木訥ぼくとつと例えたその素直な気質とあふれんばかりの体力が、剣をおさめるのに一役も二役も買っていた。

 この一年で、メキメキと実力を付けている。

 だが、それだけではない。

 弥五郎が、剣をピタリと止める。

 織部が「なぜ止める」と再開をうながそうとした時、

「織部さま。最近この近くで出る野盗やとうについて話がしたいと、近隣きんりん村長むらおさ達が集まっています」

 とじが、拝殿の影から現れた。

 織部は「またこれか」と愉快ゆかいそうに喉をならす。

 前々からそうだったが、剣を覚えはじめてから、弥五郎の気配を読む感覚がよりまされている。

 気配を読む。それは剣術だけでない、広い分野において役立つ力である。

 だがしかし、を活かす機会きかいは、弥五郎には当分ないだろう。

 それが生きるときというのは即ち、命を取り合う「真剣しんけん」の場なのだから。

「わかった、今行きましょう。弥五郎。水を飲みゆっくりと休め」

 織部の指示に、弥五郎は「わかった」と短く答えて、そでで顎に垂れる汗をぬぐい、織部の背中を見送った。

 夏の暑さを和らげる、涼しげな香りを纏わせてとじが弥五郎に近付いてくる。

「では弥五郎、水を飲んだら私の部屋に来なさい。今日は私の読み上げた言葉を書いて貰います。覚えた漢字は必ず、しかし正しく使いなさい」

松葉まつば一房ひとふさは覚えただろうか」

「せいぜい小枝の葉ですが、生きていくにはなんとかなる数でしょう」

 げんなりする。この世に字、多すぎないか。

「字が多いとはすなわち、あらわすものが多いということ。字と字が組んで言葉となり、言葉となれば意味も変わります。よいですか弥五郎。字の多さは、世の広さを表します」

 ならば。

「字を全て知れば世の全てを知れるのか?」

「いいえ」

 とじはすぱりと言い切った。

「字だけ見ても知ったとは言えません。わかるのはそれがあることだけ。それで知ったと誇るのは己を未熟みじゅくと言っているようなもの。知ったというのは、目で見る必要があります」

「見れば知ったと言えるのか?」

「いいえ」

 とじはすぱりと言い切った。

「見ただけでなく、体の内におさめ、どういうものか理解できなければ、知ったとは言えないのです。それで知ったというのなら、より未熟と言えましょうや」

「なら、全て知る人間なんて、いないのだな」

「はい」

 とじは、すぱりと言い切った。

「私とて、何も分かりせんから」


 夕刻。長かった勉学の時間が終わる。未だ鼻の奥に残る、とじの部屋の香の匂いに鼻をムズムズさせながら、弥五郎はまだ暑い境内けいだいを歩いていた。

 勉学前にとじが言っていた意味がなんとなくわかった。

 見れば知ったとは、字を知っているということ。

 どういうものか理解するというのは、字を文として書くということに等しい。

 人生は短い。母も父も、そう長生きはしなかった。

 あの島の者達のように年はとりたくない。

 「人生」という限られた時間で、おれはなにを「知る」ことが出来るだろうと、弥五郎は木刀を拾いに拝殿に向かう。

 と、その時、得体えたいの知れない気配を感じた。

 ぬめっていて、それでいてひりつくような、日灼ひやけに汗がしたたり、みた痛みを、より鈍くしたような気配だ。

 参道だ。弥五郎は刀を持って、拝殿の裏より出る。

 そこには織部と、見たことのない男がいた。

 背は五尺ごしゃく六寸ろくすんほど。顔はいかつく、まと装束しょうぞく萌葱もえぎ小袖こそではかま姿。古着ではないようで、腰には大小だいしょうしている。

 現物げんぶつは初めてみる。あれが、武士ぶしというものか。

「久しぶりだな、織部殿」

「これは……珍しい客人きゃくじんですな。一放いっぽう殿ではないか」

 織部が、左肩を押さえながら男と話をしている。どうやら一放というらしい男は織部の知り合いのようだ。どことなく、親しげな雰囲気をまとっている。

 だがしかし、弥五郎は感じていた。親しみのなかに秘められた、煮え立つような剣呑けんのんな気配を。

「なぜ、伊東いとうくんだりまで?」

「よくないを聞いた」

 一放は、鋭い突きでも放つように直截ちょくさい的に言う。

「得たいの知れぬ者に、「富田とだ」の剣を教えていると」

「トダ」。それが織部の剣の名前なのか? 弥五郎は拝殿の裏でじっとして、二人の声に耳を傾ける。

「私は富田の剣を修めていない。教えるなど土台どだい無理むりな話だ。」

 ただ、と、織部は言葉を続ける。

「火のないところにけむりは立たぬ、という。富田の剣は教えていないが、剣の振り方についてなら、一年ほど教えてはいる」

「それが問題だと言っている!」

 一放は、その野太のぶとい声をあららげた。鎮守ちんじゅの森から、鳥が飛び立つほどの大音声だいおんじょうだ。

矢田やた織部おりべの名は一度は富田とだ一門いちもんに連なった。その者が教えたというのだから、なにも知らぬ市世しせいの者共はそれを富田の剣と呼ぶだろう。血の通わぬ、粗末そまつ太刀たちをだ! そんなことが、許されるはずがないのだ」

 一放は一息に責め立てる。その言葉の暴風あらしまかぜを、織部は「然り」と一言で受けきった。

 だが。

「弥五郎には、剣の才がある」

「なに?」

「体格、素直さ、気配を読む力。どれも剣客に必須ひっすである力だ。それを弥五郎は持っている。何よりも、「ひとつ太刀たち」を持っている」

「一つの太刀?」

 聞きなれない様子で、一放が聞き返した。織部は「ここの言葉だ」と簡単に補足した。

 織部は「ふう」と、調子をととのえる。

「あれは剣の達人となる大器たいきを持つ。それに対して、私も目がくらんだのだろう。つい、教えたくなった」

「ともかく、剣を教えるな。貴様に剣など、教える資格は」

 思わず、割り込んだ。一度も呼んだことないその単語で、とじに使うよう再三さいさん言われて使わなかった言葉で、誰でもない、自身に剣を教えた男をそう呼んだ。

 織部は振り向き、一放は声の主をめ付ける。

「夕方の、素振りは、どうすれば、よいのか」

 どもりながら、織部に聞く。弟子らしい振る舞いとはどのようなものか。礼儀をわきまえるとはどのようなことか、考え、言葉を選びながら喋るのは、難しい。

「……弥五郎?」

「弥五郎? そうか、そいつがお前が剣を教えているという」

 一放は、織部の横を通り抜けて弥五郎の眼前に立つ。弥五郎の方が上背うわぜいがある。だがしかし、一放のまと気迫きはく尋常じんじょうならざるものであり、吹かす威風いふうは弥五郎さえも飛ばさんとするほどだ。

 これが剣客か。と息を飲む。背中に、脂汗あぶらあせき出した。

「確かに、体格はある。目も鋭い。だがしかし、若いな。未熟だ。織部の剣では、このようなものか」

 一放ははなじらみながら吐き捨てた。

 木刀を握る手に、力が入る。身体中の、血がえた。

「……どのような剣だと?」

「なに?」

 わざと尖った犬歯をきながら、眼下の男を横柄おうへいに見下す。

「知っているか。見ただけでは、人はなにも知れないのだそうだ。お前は、おれを見ただけで知った気になった。それを、未熟という」

 いつだか聞いた言葉を、思い返しながら言ってみた。

 織部も一放も目を見開いて、弥五郎を見遣る。

 一拍おいて、織部はそれを聞いて顔を伏せ、逆に一放は、大笑した。

「なるほどお前の言葉も一理ある。だがしかし、子どもの剣など見ればわかる。見ずともわかる。大方、その体躯に任せるだけだろう。織部の教えも、どのようなものか察しがつく。考えて出した結果が、大したことのない剣だ、というのだ、小僧」

「──試してみるか?」

「なに?」

 織部は、肩を震わせる。一放は、目が飛び出さんほどに瞠目どうもくした。

「俺の剣がどのようなものか、試してみるかと聞いている。お前の脳天をカチ割るか、逆にお前が俺を打つか」

「──面白い」

 面白いというわりに、一放の顔は笑っていない。

「織部、参道の前を借りるぞ。小僧にきゅうを据えてやる。明日、ときたつ初刻しょこくちょうどだ! この「富田の一放」、受けて立つ!!」

 一方的な提案に、織部は言葉もなくうなずいた。それを認可にんかと受け取った一放は、弥五郎を今一度強くにらみ付ける。

「いいか小僧、貴様に剣のなんたるかを、教えてやる」

 そう吐き捨てた一放は、きびすを返して参道を帰っていった。鳥居に、礼をすることもなく。

 一放の姿がなくなって、弥五郎は黙りこくった織部に声をかけようとする。勝手な真似をして、怒らせてしまっただろうか?

「織──」

「ぶ、くははははははははははは! あーはっはっはっはっはっはっはっは!」

 せきを切ったように、織部が天をあおいで哄笑こうしょうした。弥五郎は面をくらって、目を丸くする。

「怒って、いないのか?」

 その問いかけを「なぜ怒る」と一笑にす。

「言葉が上手くなったな、弥五郎! お前は今、喧嘩を売ったぞ。それでいい。男なら、一度は喧嘩を売るべきだ」

 いつもの穏やかな表情とは違う、豪放ごうほうとした顔だ。

 なるほど、これが織部の「素」かと、弥五郎は察した。

「さて弥五郎。どんな気分だ」

「どんな?」

「お前は今、どんな気分をしている?」

 織部にわれ、弥五郎は自身の内側に意識を向ける。体がふるえる。鼓動こどうが早く、血が沸々ふつふつと泡立っていて、火照ほてっているようなのに、やたらと寒気さむけがする。

 今まで、感じたことのない感覚だ。例えるならば何が近い。この感覚は、いったいどう言い表せる?

「──明日が、楽しみだ」

 弥五郎が、口の端を大きくゆがませる。短い人生のなか、楽しみなどいつ感じたかなどはわからない。だが、今得ているこの感情は。

「剣を振るのが、楽しみだ」

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