第二話 甕割
まだ
「こっちだよ、
「あの島が火をふいて、
「いやあ、それは面白い。
神主さまと呼ばれた男は、子どもたちの言葉に穏やかに笑う。人だかりが見えてきた。伊豆大島が十四年前以来、久々に火を噴いたと聞いた見物人だろうが、さすがにあの時の噴火よりも小規模だったらしいし時間も
もう
「これは、本当に天狗が流れ着いたのかな?」
「おお、神主様」
「神主様、これを……」
人々が神主に気付くと、道を開ける。人だかりの真ん中には、格子を掴んだ大男が、ぐったりと
男は何かの獣の毛皮を着ており、髪はボサボサに伸びきっていた。
なるほどこれは。
「天狗だな」
くつくつと、楽しそうに神主は笑う。
「ただ眠っているだけのご様子だ。天狗か人かはともかく、捨てはおけない」
神主は男たちに頼んで天狗を担がせ、
天狗はまだ、眠っている。
体が
このふわふわが「
辺りを見回す。草を
「おや、起きたかな」
「っ!」
弥五郎はかいまきを
気配に
障子が開くと、見たことのないほど上等な服を着た男がいた。そこで気づく。自分もいつもの毛皮ではない。
「あのもう毛皮はだめだな。海水にやられてしまったよ」
穏やかそうで
弥五郎が、今まで感じたことのない気配だ。父に近いような気もするが、母にも近い。それでいて、そのどちらよりも、深い。
「失礼。私はこの神社の管理をしている。
織部は部屋に入らず、板間─
敵意はない。そう断じた弥五郎は、腰を下ろす。
「弥五郎。
「ふむ、前の原の弥五郎……
織部は口の端にえくぼを作りながら、にっこりと笑って見せる。
ここまで穏やかな男は、弥五郎は見たことがない。「神主」というのは、みなこのようなものなのか。
「ここ、は」
「ここは
「……三原山が、火を噴いた日に生まれた」
その言葉に、織部は目を見開いた。
「それは
弥五郎は「ここでも天狗か」と、
「今朝のじゃあない。もうひとつ前の、もっと大きいやつだ」
「もうひとつ前というと……
「それくらいだ」
そうは言いつつ、十四年も前のことなのかと弥五郎は
十四と聞いた織部は、今一度目を見開いた。
「十四でその
織部の言葉で、弥五郎は口をへの時に曲げ、
「
「と、言うと?」
正直、このように興味を持たれて笑顔を向けられるのは慣れていないし、人と長く話すのもあまり好かないのが弥五郎だ。突き放してやろうと、自分がどういう親から生まれ、どういう扱いを受けてきたのか、そして、どうしてここまで流れ着いたのか、それを語り始めた。
……だがしかし、弥五郎は気付いていなかった。人と話すのが嫌なのに、止めなく、ひたすら喋り続けていたことに。
織部はその話を、にこやかに聞き続けていた。
全て話し終える頃には、弥五郎の眉間のシワが、いくらか柔らかくなっていた。
今まで黙っていた織部がにこりと笑う。
「弥五郎、お前は今、心の
「甕を、割った?」
おうむ返しのその言葉に、織部は深く
「今まで言わずに心の甕に収めていた不満を、お前は今、その甕を断ち割って吐き出した。どうだ、身が軽くなっただろう」
弥五郎は、己の手を目の前まで持ち上げてみる。動きは大して変わらないし、疲れというものもない。ただ、少しだけいつもより、楽に感じた。
「弥五郎、お前は
知らない単語に、弥五郎は「なんだそれは」と首をかしげる。
「己の心に素直で、決して曲げぬ強さを持つ者のことをそういうのだ。さて、遅くなったが朝食としようか」
織部が立ち上がり、「弥五郎も来い」と促す。
弥五郎は一瞬
空を見上げる。伊東の空は、あの島より遥かに広かった。
「弥五郎、弥五郎はいるか」
織部に拾われてから半月ほど
ある朝、織部が弥五郎に与えた
織部は「やれやれ、またか」と苦笑して、広縁を二、三度、踏み鳴らす。
するとガコンと広縁が揺れて、床下からのそりと、庭に大きな影がまろびでた。弥五郎である。
「せっかく部屋を与えたのに、いつも
「こちらの方が、落ち着く」
土ぼこりを払いながら、弥五郎は答える。もと住んでいた場所が場所だけに、床下のような薄暗く狭い場所の方が馴れているのだ。
「今日は、何をすればいい」
「
「わかった」
織部に拾われて以来、弥五郎は三島神社の手伝いをしていた。普段から
織部に連れられ、宝物殿に向かう。たしか
「あ、天狗だ!」
誰とも遊んだことのない弥五郎は最初は困惑したが、もう馴れた。
もはや天狗という呼称に眉を寄せることもなく、織部のあとを着いていった。
宝物殿は
織部が錠と閂をはずして門を開けると、暗くひんやりとした空間が広がっていた。やがて門から入った光が宝物殿内全体を照らし出すと、いくつもの宝物が並んでいるのがうかがえた。
きらびやかな単衣に、舶来の陶器。巨大な甕に誰かが描いた巨鳥の絵、重ねられたいくつもの巻物。他にも大小様々な
とはいえ、弥五郎にそれらの価値はわからない。せいぜい「きれいだな」や「大きいな」と思う程度だし、なんの興味も引かれなかった。──一つを除いて。
「───」
弥五郎は、それに目を奪われた。
長さにして、
「織部、これは────」
思わず、織部に
「それこそは、この三島神社の秘宝のひとつ、神刀『
「カメワリ」。その名を聞いた瞬間に、弥五郎の内の何かに、ヒビが入る。
織部いわく。
時は
「この
と、とある
その刀鍛冶は名工揃いの
助宗は備前よりこの伊東に訪れ、身を
神前に
すると、あろうことか太刀は縄からするりと抜けて、神酒の入った甕を竹のごとくすぱりと断ち切った。こぼれる神酒が
「日照りの
と断言し、助宗は伊東を後にした。
間もなくして、この土地に久方ぶりの雨が降ったという。
そしてこの太刀は甕割刀と名付けられ、三島神社の宝物となったのだという。
「鬼を切った刀か」
「甕を割った刀だよ」
織部は「神が振ったかは分からない。鬼を切ったかは分からない。ただひとつ確かなのは、甕を割った刀ということだけだ」と、神主らしからぬ発言をする。
「この甕割も、手入れをしなければならないな」
織部は桐箱に
その刃は大きく、
織部は唾を飛ばさぬように口を真一文字に絞め、薄目になって刀身を見やる。
弥五郎はハッと息を飲んだ。
織部の刀を持つその姿が、やたらと様になっていたのだ────。
「弥五郎、時間です」
「とじ……」
宝物殿の片付けをしていると、
長い髪を中分けにした、目付きが刃物のように鋭い、巫女装束の
若い巫女たちや遊びに来る子どもたちが、「とじ様」と呼び
そしてこのとじ様が、弥五郎の「
「そう嫌そうな顔をするのではありません。今日は字を
「この世にはそんなにも字があるのか」
「五十など
弥五郎は島の、そのまた山育ちであり、母は流人の子でまともな勉学をしておらず、本土にいたらしい父も弥五郎に薪割り以外の知恵を与えることはしなかった。
当然の帰結というか、弥五郎には生き抜くための「学」が足りない。
「あなたは覚えはいいのです。部屋に行きますよ。よいですね、織部さま」
「わかりましたとじ殿。ですが、今日は早めに終わらせてもらいたい。弥五郎に薪割りを頼みたいのです」
とじのまえでは、なぜか神主の織部も下手に出る。
薪割り。そういえば久しくやってなかった。おそらく織部が島での生活を忘れさせてくれるように、島でしていたその仕事を意識して避けさせていたのだろう。
薪割りで生きていたことは、あの日織部には話していた。
とはいえ弥五郎も薪割りは嫌いではない。むしろなれた仕事だ。苦労もなにもないし、文字を覚えるよりもそっちのほうが何倍もましだ。
だが。
「わかりました。では早く終えられるよう、今日は
「いつも厳しいと思うのだが、あれ以上があるというのか」
その日の
なんとか字を五十─その過程でさらに十─覚えた弥五郎は、
眼下には質のいい小振りの丸太。これを二、三に割って手頃な大きさにするのであるが、弥五郎にとっては慣れたものである。
弥五郎が鉈を両手で持ち、高く掲げる。
握りきらず、肘を張らず、肩を緩め、無心に真っ直ぐ、振り下ろす。
コーン。
振り風に遅れて、甲高い音がなった。久しぶりだが、できている、だが少し力が入ったかもしれない。
今の感覚、出来を忘れて、新しい薪を立てる。薪を割るときは無心、上手くできたことも、失敗したことも忘れ、目の前の薪を見て割るのだ。
コーン。
先程よりも、いい音がした、今度の割面は、滑らかだった。
コーン──、コーン──。
「弥五郎め、いい音を出すな」
太陽が西に沈む頃、神主の仕事を終えた織部の耳に、薪割りの音が響く。心地のいい音だ。さすが
「どれ、様子を見に行ってみるか」
そろそろ夕食もできる頃だ、と、織部は屋敷の裏手にいる。
弥五郎が、ちょうど薪をたてていたところだ。これはキリがいい。
「おーい、弥五ろ──」
織部は、言葉を失った。
鉈を高く掲げる姿。力みのない立ち姿。整った重心。そしてなにより、曇りひとつない無心の瞳。
正しくそれは、
「
真っ直ぐに、ぶれることなく振り下ろされた鉈。割られる薪。
織部にはそれが、「刀」と「
織部は「コーン」という薪の割れる音でハッと正気を取り戻し、
「弥五郎」
「織部、いたのか。薪はできたぞ」
「それは父に教わったのか?」
唐突なその問いに、弥五郎は目を丸くしながらも「そうだ」と答える。
「それがどうした」
「お前の父は……
一陣の風が、木々を揺らす。
弥五郎、十四歳。「剣客」というものを知る────。
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