涅槃寂静の剣―炎の剣士、一刀斎―
烏丸朝真
開火(かいか)の章
序章
第一話 始まりの熾火
見上げれば、ひどく狭い空があった。
肩の
木々の合間を抜けると、眼前には水、水、水。どこまでもどこまでも広がる水と浜。絶え間ない細波の音が、耳に響く。
砂浜で
弥五郎を見た子どもはぎょっと目玉を飛び出させ、縄を放って駆け出した。
「
弥五郎はそんな子どもをつまらなそうに見送って、
その丸太は長さ
獣の
先の子どもが言った通り、天狗のような
それもそのはず弥五郎は、生まれてまだ
「今日は何を持ってきたんかの」
弥五郎の元に、二人の男を連れた老人が来た。
弥五郎は口で答えることはせず、顎で薪と腰の下の木を指した。
「薪は分かるでの。だがなんだ、その木は」
「船を作れ。山が揺れて獣がいない。近々火を噴くかもしれん」
やたら
「揺れは山の下でも分かる。……ふむ。悪くない。ほれ、持っていけ」
長が後ろに控える男に指図すると、男は手にもったタコを弥五郎に差し出した。
「まさか、これだけとは言うなよ」
「船の材料を持ってくるとは思わんかったでな……
「仕方ないも融通もない。それが約束だ」
共の内一人が
木を渡し、魚を貰う。その物々交換は、弥五郎の親とこの村がした取り決めだ。
しばし
弥五郎は持ってきた甕をひっくり返して薪を出し、代わりにタコとエビと魚とを入れた。
「明日も来る」
「なら船を作るのに丸太をもうひとつと、あと
長の言葉を聞いていたのか、弥五郎は頷きもせずに元来た道を戻っていった。
弥五郎が山の中に消えると、男の片割れが「
「
もう片割れが、ねっとりとした
そんな二人を
弥五郎の父は、流人だった。
流人など、本土が戦乱の渦に呑まれて以来、一度もこの伊豆の大島に来たことはなかったのだが、その男は、
といっても、流人というのも男の自称であり、船頭もなにも言わずに本土に帰って行ってしまったのだから、それが本当かは分からない。だが、
弥五郎の母はかつての流人の
そしてその二人の生まれたのが、弥五郎というわけである。
流人の血を引くということで
弥五郎もまたその
「まあ、せいぜい使ってやろう。木など切る暇など、ワシらにはないのでの。ほれ、なにをしている。さっさと丸太を持たんか」
「いや旦那、コイツァ重い。一人じゃ無理だ。おい、手を貸してくれ」
まだ十三、四、五の子が一人で担いだ丸太である。「なにをばかな」と片割れが持ち上げようとすると、たしかに重く、一人では辛い。
「あの
男たちは二人がかりで丸太を担ぎ、長と共に舟屋へ戻っていった。
山の前にある、森の合間の小さな原に、コーンと
弥五郎は自分の
住み処といっても、木の板に葉の付いた枝を被せただけの粗末で小さな
弥五郎が
まっすぐ振り落とされた鉈は、
この振り下ろしは、まだ生きていた父に教わったものだ。
「
弥五郎は数を数えないが、少ない日でも百ぺん以上はこれをやる。丸太を
母が死ぬ前からだから、もう五年以上だろうか。
弥五郎は日にちも数えない。だから、母が死に、父が死に、どれくらい
母は美人ではなかったし、特別優しかったわけでもない。ただ、当たり前のように子どもとして接してくれた。
父は男前ではなかったし、特別厳しかったわけでもない。ただ、当たり前のように子どもとして接してくれた。
何か大きな思い出があるわけでもない。
だから両方の死に合っても、泣きたくなるほどの悲しみや、後を追いたくなるほどの寂しさもなかった。
母が死んだとき父が言った。「人が死ぬのはやるべきことが全部終わった時だ。だから、ただ見送ればよい」と。父も、やるべきことを全部終えたから
「そういえば」
ふと思い出した。父に、何気なしになぜこの島に来たのかと問うた事がある。父は確か言っていた。「やるべきことを果たさせる前に、死なせたからだ」と。要するに、人を殺したのだろう。
空を見上げる。相変わらず、狭い空だ。この島は、弥五郎にとって
「カコン」と、間抜けな音がなる。足元を見ると、割り損じた木が倒れていた。
弥五郎は木を立て、鉈を
頭の中にはもうなにもない。
木を切るときは、「無心」になるのだから。
それはまだほの暗い
小さく地面が揺れたと思いきや、次の瞬間には、島全体が
「来たかっ」
絶え間ない揺れに浅い眠りを繰り返していた弥五郎は、毛皮を
「思ったより早い」
手で鼻をおおう。いますぐにでも火を噴くだろう。海に行かねば、もしかしたらここまで火が流れ込むかもしれない。
弥五郎は鉈を拾い、
いつもは手でどかした
潮の臭いがする。だが
「俺も乗せろ! 誰のお
鉈を投げ捨て、人の少ない船に駆け寄る。
村人たちは身体中に
それと同時に背後から、島を、空ごと揺らす
「構わん乗せろ!
船の中からしわがれた声。長のものだ。
長の一声で、弥五郎は船に乗ることを許される。
一丁前に、
弥五郎は一番最後に
「邪魔だねえ……」
弥五郎に押し込まれた女が
無理もない。弥五郎の
「船を出すぞ!」
船がぐらりと揺れると、浜から離れていく。
船頭が
張り詰めた糸がたわんだように、船の中が和らいだ。
助かった。火があの村を襲うかは分からないが、少なくとも弥五郎の庵は焼けるだろう。また庵を作らねばと、嘆息する。
すると、なにやらじっとりとした気配を感じた。辺りを見渡すまでもない。
今までと同じ。弥五郎を厄介者だと、邪魔物扱いしているだけだ。
ここは船。連中から離れることはできないが、運よくここは部屋の中。外に出ればよいのだと、弥五郎は身じろぎしながら格子戸を開け外に出た。
船尾に出ると、船頭が顔を真っ赤にして肩で息をしていた。無理もない。船の中には十数人。その人数が乗った船を動かすのは並大抵の力では無理だろう。
弥五郎は船頭を流し目に、島に目を移した。
燃えている。流れ出た溶岩が、自分らのいた漁村まで、赤く一本の
いつの間にか夜が明けたようで、島の向こうが、赤く輝いている。
まるで炎を閉じ込めた
弥五郎は初めて、なにかを「
──だから、「それ」に気付くのに一瞬遅れた。
弥五郎はハッとする。自分に振りかかる、いくつもの気配。
いつものじっとりと湿った
「うおわああああああああああ!」
振り向くと同時に、強いいくつもの力でなにかが押し付けられる。
弥五郎が出た、格子戸だ。その格子戸を、男たちが
「なに、しやっ、がるっ!」
「邪魔なんだよ、お前は!」
「死ね、死ね、死ね!」
「ああああああああ!」
揺れる船で腰を落とし、
船の中を見れば、女子どもたちが
そしてその奥、部屋の
────こいつらは、村長にけしかけられたのか!
奥歯を噛み締め、腹の底に気を溜める。だがしかし、この男どもは漁師だ。船の上で踏ん張るのはあちらの方が慣れているし、いくら弥五郎が怪力の持ち主とはいえ、相手は三人もいるのだ。
体がふわりと浮く。横を見れば船頭が、櫂を
(足を、
世界が、ゆっくりに見えた。手にはしっかりつかんだ手には格子戸があり、その奥では押し込んでいた男たちが、間抜けな顔で覗いていた。
(だめだ。落ち……!)
バシャン! と、背中が海に打ち付けられる。目の前が暗く
「げほっがはっ!」
弥五郎は必死に格子にしがみつく。
格子と格子に腕を絡ませ、足をひたすらばたつかせた。
「やろう、まだ生きてやがる!」
「船頭、貸せ!」
男の一人が船頭から櫂を奪い取り、弥五郎の体を
「ならよ!」
男が櫂を
別の
「ごふっ、はぁっ!」
弥五郎はそれに抵抗できない。弥五郎は
甕のように割れたあの島から、遠く遠くに離れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます