涅槃寂静の剣―炎の剣士、一刀斎―

烏丸朝真

開火(かいか)の章

序章

第一話 始まりの熾火

 見上げれば、ひどく狭い空があった。

 てまで広がっているはずなのに、はるか高いはずなのに、五郎ごろうにとって、この島の空は酒甕さかがめの口のようなものだった。

 肩の丸太まるたかつなおす。

 毎日まいにち幾度いくどとなくあるどおした坂を下れば、しおの臭いが鼻を突く。のど塩辛しおからさがこびりつき、吐き気がした。

 木々の合間を抜けると、眼前には水、水、水。どこまでもどこまでも広がる水と浜。絶え間ない細波の音が、耳に響く。

 砂浜であみを編んでいた子どもが、弥五郎に気づいた。

 弥五郎を見た子どもはぎょっと目玉を飛び出させ、縄を放って駆け出した。

天狗てんぐが来た! 天狗が山から木を担いで降りてきたー!」

 弥五郎はそんな子どもをつまらなそうに見送って、まきのはいったかめを腰から外し、丸太を砂浜にどさりと下ろして上に座る。

 その丸太は長さ八尺はっしゃくもあるものだったが、弥五郎はそれと大差たいさない、六尺ろくしゃくに迫る上背うわぜいをしていた。

 獣の毛皮けがわから覗くうで野太のぶとく、あしたくましく。

 先の子どもが言った通り、天狗のようなちだ。だがしかしその顔は、精悍せいかんながらもどこかととのった幼さがあった。

 それもそのはず弥五郎は、生まれてまだ二十年はたとせっていない。

 じゅう年前ねんまえ三原山みはらやまが火をいた年に生まれたのだ。

「今日は何を持ってきたんかの」

 弥五郎の元に、二人の男を連れた老人が来た。しおけした顔はシワだらけで、眼が大きくくぼんでいる。この漁村ぎょそんの長だ。

 弥五郎は口で答えることはせず、顎で薪と腰の下の木を指した。

「薪は分かるでの。だがなんだ、その木は」

「船を作れ。山が揺れて獣がいない。近々火を噴くかもしれん」

 やたらめた声だった。まだ無垢むくでもよい年頃なのに、なんの感情もない死んだ声だった。

「揺れは山の下でも分かる。……ふむ。悪くない。ほれ、持っていけ」

 長が後ろに控える男に指図すると、男は手にもったタコを弥五郎に差し出した。

「まさか、これだけとは言うなよ」

「船の材料を持ってくるとは思わんかったでな……仕方しかたない、エビと魚を融通ゆうづうしてやるかの」

「仕方ないも融通もない。それが約束だ」

 共の内一人が船屋ふなやに戻っていくのを見ながら、弥五郎は反論した。

 木を渡し、魚を貰う。その物々交換は、弥五郎の親とこの村がした取り決めだ。

 しばしにらみ合っていると、船屋に行った男が甕を持ってきた。中にはエビと、紐を通された中くらいの魚が三匹。今日は大漁だったと見える。気前がいい。

 弥五郎は持ってきた甕をひっくり返して薪を出し、代わりにタコとエビと魚とを入れた。

「明日も来る」

「なら船を作るのに丸太をもうひとつと、あとかいの都合をつけてくれるかの。一本ダメにしたんでの」

 長の言葉を聞いていたのか、弥五郎は頷きもせずに元来た道を戻っていった。

 弥五郎が山の中に消えると、男の片割れが「畜生ちくしょうめ!」と、歯をいて山を睨み付けた。

流人るにん餓鬼がきが偉そうにしやがって」

 もう片割れが、ねっとりとした怨嗟えんさを込め、丸太に手をかけながら呟いた。

 そんな二人をいさめもせず、長は「やっと行ったか」と溜め息をく。

 弥五郎の父は、流人だった。

 流人など、本土が戦乱の渦に呑まれて以来、一度もこの伊豆の大島に来たことはなかったのだが、その男は、あだちにったかわずか、とかくこの島に流されたのだ。

 といっても、流人というのも男の自称であり、船頭もなにも言わずに本土に帰って行ってしまったのだから、それが本当かは分からない。だが、余所者よそものというのにかわりない。

 弥五郎の母はかつての流人の末裔まつえいで村からはまれており、その流人のそば使づかいにされた。

 そしてその二人の生まれたのが、弥五郎というわけである。

 流人の血を引くということで厄介者やっかいもの扱いされていた弥五郎は、しかもその風貌ふうぼうや、口数が少なくも我を通す性質をしていたことで、余計にきらわれていた。

 弥五郎もまたその雰囲気ふんいきを感じており、村に長居ながいはしない。

「まあ、せいぜい使ってやろう。木など切る暇など、ワシらにはないのでの。ほれ、なにをしている。さっさと丸太を持たんか」

「いや旦那、コイツァ重い。一人じゃ無理だ。おい、手を貸してくれ」

 まだ十三、四、五の子が一人で担いだ丸太である。「なにをばかな」と片割れが持ち上げようとすると、たしかに重く、一人では辛い。

「あの馬鹿力ばかぢからめ……」

 男たちは二人がかりで丸太を担ぎ、長と共に舟屋へ戻っていった。


 山の前にある、森の合間の小さな原に、コーンと甲高かんだかい音がなる。

 弥五郎は自分のの前で、薪を作っていた。

 住み処といっても、木の板に葉の付いた枝を被せただけの粗末で小さないおりだ。その中には誰もいない。父も母も、もうくした。だから、大きな体でも、狭いと感じることはなかった。

 弥五郎がなたを高く上げる。そして、落とす。

 まっすぐ振り落とされた鉈は、風音かざおとを後につれて薪を割った。

 この振り下ろしは、まだ生きていた父に教わったものだ。

つかにぎりきらず、ひじらず、かたゆるめ、無心むしんに真っ直ぐ、地面まで打ち付けるように振り下ろす」

 弥五郎は数を数えないが、少ない日でも百ぺん以上はこれをやる。丸太をきざむのにも、これを使う。漁村に住む数十人分の薪に、船やかいなど、そのほとんどは弥五郎の木が元だ。

 母が死ぬ前からだから、もう五年以上だろうか。

 弥五郎は日にちも数えない。だから、母が死に、父が死に、どれくらいったかが分からない。

 母は美人ではなかったし、特別優しかったわけでもない。ただ、当たり前のように子どもとして接してくれた。

 父は男前ではなかったし、特別厳しかったわけでもない。ただ、当たり前のように子どもとして接してくれた。

 何か大きな思い出があるわけでもない。

 だから両方の死に合っても、泣きたくなるほどの悲しみや、後を追いたくなるほどの寂しさもなかった。

 母が死んだとき父が言った。「人が死ぬのはやるべきことが全部終わった時だ。だから、ただ見送ればよい」と。父も、やるべきことを全部終えたからったのだろう。

「そういえば」

 ふと思い出した。父に、何気なしになぜこの島に来たのかと問うた事がある。父は確か言っていた。「やるべきことを果たさせる前に、死なせたからだ」と。要するに、人を殺したのだろう。

 空を見上げる。相変わらず、狭い空だ。この島は、弥五郎にとって窮屈きゅうくつかめの中――。

 「カコン」と、間抜けな音がなる。足元を見ると、割り損じた木が倒れていた。

 弥五郎は木を立て、鉈をかかげる。

 頭の中にはもうなにもない。

 木を切るときは、「無心」になるのだから。


 それはまだほの暗い朝方あさがた唐突とうとつおとずれた。

 小さく地面が揺れたと思いきや、次の瞬間には、島全体がゴウと揺れた。

「来たかっ」

 絶え間ない揺れに浅い眠りを繰り返していた弥五郎は、毛皮を羽織はおって庵から飛び出す。振り替えれば、三原山からけむりが立ち上っていた。空が赤いのはあさけではない。山の炎だ。くさったような嫌な臭いが鼻をつく。噴火の臭いだ。

「思ったより早い」

 手で鼻をおおう。いますぐにでも火を噴くだろう。海に行かねば、もしかしたらここまで火が流れ込むかもしれない。

 弥五郎は鉈を拾い、のまま道を駆けた。

 いつもは手でどかした枝葉えだはを鉈でりにする。弥五郎の臂力ひりょくで振られた鉈は、太い枝もまるでのように割いた。

 潮の臭いがする。だが潮騒しおさいよりも、人のざわめき立つ声が耳に届いた。森を抜けると松明たいまつをもった男どもが、複数の船に村人たちを誘導ゆうどうしていた。

「俺も乗せろ! 誰のおかげで作れた船だ!」

 鉈を投げ捨て、人の少ない船に駆け寄る。

 村人たちは身体中に枝葉えだはを突き刺した大男を見てぎょっとしたが、弥五郎と気付くとみな忌々いまいましい顔で弥五郎を睨んだ。

 それと同時に背後から、島を、空ごと揺らす大爆音だいばくおん。振り返れば、三原山が火を噴いていた。

「構わん乗せろ! あらそってるひまなぞない火がこちらに来るでの!」

 船の中からしわがれた声。長のものだ。

 長の一声で、弥五郎は船に乗ることを許される。

 一丁前に、なみ避けの屋根や壁、光をいれるための格子こうしまで付けている。

 弥五郎は一番最後にれられて、格子戸こうしどを背にした。

「邪魔だねえ……」

 弥五郎に押し込まれた女がつぶやいた。

 無理もない。弥五郎の体躯たいくはこの村の漁師にも負けていない。弥五郎が格子戸に背を押し付けると、ギシリ、と音を立てた。

「船を出すぞ!」

 操船そうせんけた漁師の一人が船頭となり、船尾について櫂で船を海に押し出す。

 船がぐらりと揺れると、浜から離れていく。

 船頭がげばあっという間にしおに乗り、島からどんどん離れていく。

 張り詰めた糸がたわんだように、船の中が和らいだ。

 助かった。火があの村を襲うかは分からないが、少なくとも弥五郎の庵は焼けるだろう。また庵を作らねばと、嘆息する。

 すると、なにやらじっとりとした気配を感じた。辺りを見渡すまでもない。

 今までと同じ。弥五郎を厄介者だと、邪魔物扱いしているだけだ。

 ここは船。連中から離れることはできないが、運よくここは部屋の中。外に出ればよいのだと、弥五郎は身じろぎしながら格子戸を開け外に出た。

 船尾に出ると、船頭が顔を真っ赤にして肩で息をしていた。無理もない。船の中には十数人。その人数が乗った船を動かすのは並大抵の力では無理だろう。

 弥五郎は船頭を流し目に、島に目を移した。

 燃えている。流れ出た溶岩が、自分らのいた漁村まで、赤く一本のすじを描いており、そこから火が燃え広がっている。

 いつの間にか夜が明けたようで、島の向こうが、赤く輝いている。

 まるで炎を閉じ込めたかめが二つに割れて、火が外へと伸び伸びと飛び出しているようだった。

 弥五郎は初めて、なにかを「うつくしい」と思い、目を奪われ、船から身を乗り出した。

 ──だから、「それ」に気付くのに一瞬遅れた。

 弥五郎はハッとする。自分に振りかかる、いくつもの気配。

 いつものじっとりと湿った気配ものじゃない。それよりするどとがった、はげしくてるような、幾陣いくじんもの、殺気さっき

「うおわああああああああああ!」

 振り向くと同時に、強いいくつもの力でなにかが押し付けられる。

 弥五郎が出た、格子戸だ。その格子戸を、男たちが走ばしった目で弥五郎に押し付けていた。

「なに、しやっ、がるっ!」

「邪魔なんだよ、お前は!」

「死ね、死ね、死ね!」

「ああああああああ!」

 揺れる船で腰を落とし、船縁ふなべりに足を押し付け耐える弥五郎。

 船の中を見れば、女子どもたちが豹変ひょうへんした男たちを見て震えていた。

 そしてその奥、部屋の最奥さいおう。そこにいた老人の、窪んだ目の奥が、いやらしく光っていた。

 ────こいつらは、村長にけしかけられたのか!

 奥歯を噛み締め、腹の底に気を溜める。だがしかし、この男どもは漁師だ。船の上で踏ん張るのはあちらの方が慣れているし、いくら弥五郎が怪力の持ち主とはいえ、相手は三人もいるのだ。

 こんくらべだ。意地でも落ちてたまるか──と、力を込めようとした足の裏から、足場が、消えた。

 体がふわりと浮く。横を見れば船頭が、櫂を下手したてに構えていた。

(足を、すくわれたのか)

 世界が、ゆっくりに見えた。手にはしっかりつかんだ手には格子戸があり、その奥では押し込んでいた男たちが、間抜けな顔で覗いていた。

(だめだ。落ち……!)

 バシャン! と、背中が海に打ち付けられる。目の前が暗くゆがむ。体の周りから空気が消える。体の中に、潮風しおかぜを何倍も塩辛くした水が流れ込んできた。

「げほっがはっ!」

 弥五郎は必死に格子にしがみつく。格子これ生命線せいめいせんだ。絶対離してなるものか!

 四方八方しほうはっぽうから寄せる波が、激しく体と格子を揺らす。

 格子と格子に腕を絡ませ、足をひたすらばたつかせた。

「やろう、まだ生きてやがる!」

「船頭、貸せ!」

 男の一人が船頭から櫂を奪い取り、弥五郎の体を滅多めった打ちにする。それでも弥五郎は格子から体を離さない。

「ならよ!」

 男が櫂をひるがえし、弥五郎の掴む格子を押した。するとどんどん格子が船から離れていく。

 別の流れしおに乗せられた。

「ごふっ、はぁっ!」

 弥五郎はそれに抵抗できない。弥五郎はまたたく間におきに流され、島から遠く離れていった。

 甕のように割れたあの島から、遠く遠くに離れていった。

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