例えば僕があなたに「助けて」と言えば、あなたは助けてくれたのだろうか。

夜晴 -ヨバレ-

例えば僕があなたに「助けて」と言えば、あなたは助けてくれただろうか。

 目を閉じても鮮明せんめいに映し出されるほど、僕の世界には女性の鬼ごとき形相ぎょうそうと止まらない罵声ばせいがあった。

 「あんたなんか生まれて来なければよかったのに……ッ!」

 振り上げられた手は容赦ようしゃなく僕の右頬をおそった。

 はだと肌がぶつかり合うような軽快けいかいな音だけではなく、骨をくだくような――重く、にぶく、そしてきたない音もあった。

 当然、小学生に上がりたての僕に、その衝撃しょうげきえられるほどの筋力きんりょくは無かった。そのまま勢いに乗って吹き飛び、地面で三回はずみ、地にすように倒れ込んだ。

 つばを飲み込むと、わけの分からない苦みと血の生臭なまぐさい味がした。

 「ごめんなさい」

 僕はとにかくあやまった。

 謝りさえすれば、自分のを認めさえすれば、母さんの求める【いい子】をえんじ続ければ、それで許されると思ったからだ。

 「ごめん、なさい……」

 土下座どげざの姿勢で床にひたいこすりつける。れて額の皮膚ひふけずれ、血がにじもうとも。母に押さえつけられてもなお

 必死に必死に必死に必死に必死に謝った。謝り続けた。

 それでも母――あぁ、いや……暴力ぼうりょくは止まなかった。

 まるで手加減てかげんをしていないなぐるの応酬おうしゅう。骨が、内臓ないぞうが、脳が、心が、どれだけ砕かれようとも決して「止めて」なんて言えない。

 僕にできるのは――

 「ごべんなざい……ごふっ、ご――ごめん、なざぁい……っ」

 ――謝ること。

 ただ、ひたすらに。

 それだけだ。

 気付けば僕は自分のなみだや汗、そして血も混ざった液体のベッドで寝ていた。正確に言えば気を失っていた――だろうか。

 なまりのように思い体を持ち上げると、眼前にはやや上機嫌じょうきげん化粧けしょうをする母――否、女性の姿があった。

(………あれ?)

 目覚めた僕の体を取り巻いたのは、名前の知らない感情だった。女性の顔を見ていると、なんだか体の奥底おくそこから沸々ふつふつき上がるこの感情――。とても熱に似ているものだ。

 無意識に歯をきしませ、充血じゅうけつした目をいっぱいにさらしてもまだ凝視ぎょうしする。まるで獲物えものを狩るけもののように。

(あぁ、これが殺意か―――)

 殺さなくてはいけないという使命感にられた僕は、なるべく音を立てないようにキッチンから包丁を取り出した。何に対してか分からない怒りの度合い分――握る力が強くなる。

「ハァ――ハァ――ハァ――……」

 これまで呼吸に対して意識を向けたことがあっただろうか。

 どうすれば気配を消すことができるだろうか。

 どうすれば素早く刃を届けることができるだろうか。

 どうすればこの気持ちから解放されるのか。

 ただ、距離を詰めようとする足が妙な寒気によって固まる。あと数歩近付けば息の根を止めることができる距離――もどかしくなって自分の足を殴ったとて、まるでいかりを打ち付けられたかのように足は動かない。

 少なくとも、一縷いちるでもそこにはある親子の愛が、この手を伸ばす許可を下さない。生まれてきた時に見たであろう笑顔。しっかりと名前を呼んでくれたという記憶。元々人間として備わっている情。

 全てがくさりになってしばり付けてくる。

(どれだけ弱いんだ、僕は……。)

 今まで振るわれてきた暴力に対する怒りよりも。体のあざ嘲笑ちょうしょうしてきた奴らに対するいきどおりよりも。同情するフリをしたまま、結局は見放した教師たちに対するあきれよりも。

 何よりも、この一歩が踏み出せない自分の脆弱ぜいじゃくさが、にくい。

 (こんな僕として生きるなら………)

 母に向けられていた刃はいつしか自分の首元へ。

 走馬燈そうまとうなんてよぎひまもなく、躊躇ちゅうちょもせず、僕は静かに自分の首筋くびすじいた。

 最後に見たのは飛び散る鮮血せんけつの向こう側で、気付く様子なく化粧を続ける女性の後ろ姿だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

例えば僕があなたに「助けて」と言えば、あなたは助けてくれたのだろうか。 夜晴 -ヨバレ- @yobare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ