彼女と試験と

森乃 梟

第1話

 「始め!」

声と共に課題試験が始まった。周囲で鉛筆の音が聴こえ始める。僕は鉛筆を持って、朝の出来事を思い出していた…。


 「いらっしゃいませぇ。」

笑顔で応えてくれる彼女の笑顔。

駅と一緒に建っているビルのパン屋で、登校前、いつも昼食用のパンを買っていく。勿論、お目当てはあの娘。

 

 彼女に会えるのはこのパン屋しかないし、彼女の笑顔を見られるのも話せるのも、そして時にはお釣りをもらう時に手が触れる機会があるのもここでしかないのだ。


 そうして、今朝のコトを思い出す。

お代を払う時に

「このパン、お好きなんですか? 

男性より女性に人気があるんですよ? お腹に足りてますか?」

と矢継ぎ早に質問され

「はい」と渡されたお釣りを落としそうになった時に、彼女の両手が僕の手を優しく包んだことを。

 僕は多分、お金を落としそうになったコトに焦っていて、でも彼女の手に触れたことが嬉しくて、自分でもどんな顔をしていたかも思い出せない。


 ただ、現在の表情ならニヤニヤと思い出し笑いならぬ、フヌケた顔になっていることは判っている。


 毎朝せっせと通って昼食用のパンを買い、僕の顔を覚えてもらい、僕の好みを知ってもらい、やっと常連の仲間入りを果たしたのだから、今朝の【事件】は、通いつめたご褒美だよなぁ、とまたニヤつく。


 と、隣の席の小林がにこちらを見て「森野、集中!」

と声にならない声で気付かせてくれた。

 そうだな、集中しなきゃ! 

小林の声で我に返り、台座の上のモデルに目をやる。

 えっ、あれ? あの子を知ってるような…。

 正面を見据えた僕の目に飛び込んできたのは、どこか見覚えのある娘の後ろ姿。

 黒髪にほどけた赤いリボンを垂らし、着物の長襦袢を肩に羽織り、用意された椅子には座らず斜めにもたれ掛かり、台座のうえで脚を「く」の字にして重ねている。

僕の席からは、ほぼ後ろ姿に近いが、正面から見たら、さぞや艶かしいポーズに違いない。

(誤解の無いように説明しておくが、裸婦の時、僕の学校では、未成年のモデルさんは、ちゃんとレオタードのような体の線が出やすいモノを着用している)


 細い首の線から肩までで華奢なことが伺える。重なった細い脚はすらりと長く、正座を知らない女性だなと推測がつく。足の先までちゃんと気を配って、「終了」と言われるまで、同じポーズを取り続けるモデルさんには、いつものことながら尊敬の念さえ覚える。

 ここでモデルをする女性の殆どが、舞台女優やファッションモデル志願、歌手、その他、テレビカメラに映る諸々の仕事、変わり種は声優なんていたっけ? 全てが、売れる(ブレイク)するまでのアルバイト目当てなのだ。

 僕は鉛筆を握るほうなので、お給料のことまでは知らないが「裸婦」が一番高いのは想像に容易い。


 しかし、なんて美しいラインの娘だろう…。あれ? あの顎から首に肩の線、ちらりと見えるくせのある指先、どこか見覚えのある背中から腰のライン。

と、見とれていたら、「コホン、すみません!」と小さな咳の後、謝る声が聞こえた。

それと入れ替わりに

「残り時間、三分!」

の声が掛かった。


 声で気付いた。見たことがある筈だ。パン屋のあの娘だ。

 残り三分、どれだけ描けるかな?

僕は4Bを5Bに持ち替え、鉛筆を走らせた。

 モデルを見ない。というか、彼女の線なら頭に入っている。パンを買いに行っては、学校に着くとすぐに彼女をスケッチをしてきた。

僕は、ひたすら僕の知っている彼女の姿と笑顔を白いケント紙に書き込んでいく。

「終了、それまで!」

 声が聞こえたので、サインを書いて裏には名前を書き、鉛筆を置く。そして、前の教卓に提出する。


 「森野、間に合ったのか?」

小林が声を掛けてくる。

「ああ、なんとか。小林、サンキュな。」

「なに、いいってコトよ! 替わりにまたよろしくな!」

小林は苦学生だ。

 一人で自炊しながら、この学校に通っている。仕送り頼りの奴は、月末になると食費を切り詰める。画材は安くない。小林は生活費を削って画材に充てている。凄いと思う。

 自宅通いの僕が手伝ってやれるコトといえば、いつものパンを少し多めに買って、小林に渡してやることだけだ。たったそれだけのコトに、小林は感謝してくれ、僕に気遣ってくれるのだ。

 僕は小林に合図して別れ、モデルの控え室に向かう。そして扉の前で待っていると、あの娘が出てきた。

 僕は慌てた。追い掛けることに夢中で、何を話すかは考えていなかったからだった。

 「あら? あなたは、いつもパンを買ってくれる…。」

「森野です! えと、今度、僕のモデルになって下さい!」

 告白出来ないなら、この手しかない! いつも考えていたこの話が口をついて出た。

「バイト二つ掛け持ちしてるし、本業が珠に入るから…。」

 ああ、ダメかぁ…。

「空いてる時でいい?」

 えっ、いいの?

「はい! ありがとうございます! よろしくお願いします!」

そして連絡先を交換した。


 「森野!」

 数日後、教科担当に呼び止められた。

「この間の課題、ちゃんとモデルを見ていたか?」

「はい、それはぁ、そのぉ…。」

「お前の席はモデルの後側だっただろ? どうして顔まで描けたんだ? ってか、ポーズも衣装も違ってたぞ?」

「それはぁ、あの…。」

「ま、見てもいない娘の働く姿なんて、そうそう描けるモノではないからなぁ。課題は通してやろう。だが、あれではクロッキーだぞ? デッサンではないからな?」

「やった!」

 まさか、あの三分で描いたクロッキーが課題を通るとは、半ば諦めていただけに嬉しかった。


が、返却されて知った。

非情な講師は、しっかりと「可」をつけていた。

※印に走り書きで

『たった三分で娘の顔と動きはよく描けているが、40分何をしていたんだ?』

と…。


          終わり



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