赤とんぼが鳴る頃に、俺たちは入れ替わる

violet

美嘉が俺の身体で何をしたのか、俺はまだ知らない

 何度も違う名前で呼ばれたのは、初めてのことだった。


 あまりにも喧しいので、重い瞼をゆっくりと開いた。無機質な、おそらく病院の天井が目に入った。妙な夢を見た気がする。夕焼け空、赤とんぼのメロディが鳴っていたような。


「美嘉! よかった、美嘉!」


 少し小皺の目立つ女性が、俺に抱きついてきた。誰だろうこの女性は。そうだ、確か美嘉の母親だ。


「道端で倒れていたそうじゃない。まったくもう。心配したんだから」


 美嘉の母親が涙目で言った。なんだか状況が掴めない。なぜ美嘉の母親が俺に抱きついてきたのだろう。


 ベッドの隣には背の低い棚と、その上にテレビが設置してあった。俺はそのスペースに美嘉のスマホが置いてあることに気が付いた。何だか嫌な予感がして、俺はそのスマホを取った。スマホの画面が真っ暗な時に俺の顔が反射して映っていたのを、俺は見逃さなかった。


 俺は恐る恐る右手を自分の胸元に持っていく。むにっとした感触がして、俺は確信した。


「Cカップ。美嘉の胸だ」


 美嘉の幼馴染である俺は、美嘉の胸の大きさを完璧に把握していた。それこそ、こうやって揉んだらこんな感じの感触がするはず、ということまで把握していた。


「どうしたの、美嘉。自分の胸を揉みだして」


 おっと危ない。美嘉の母親が怪訝な目で見ている。続きは一人の時にするとしよう。


「お母さん。その、慎吾は」


 当然だが、美嘉の声だった。女性の声が出るというのは、不思議な気分だった。


「慎吾君なら、同じ病院の病室にいるわ」

「じゃあ、ちょっと会ってくるね」


 美嘉の母親は俺を止めようとするが、俺はそれを振り切って病室を出た。慎吾というのは俺の名前だ。俺が美嘉の身体に乗り移っているように、美嘉も俺の身体でいるはずだ。


 俺の身体があるであろう病室に向かっていると、向こうから俺の身体がとことこと歩いてきた。俺を見るなり、すごい形相で早歩きで向かってくる。


「慎吾! 慎吾ぉ!」


 慎吾の身体で慎吾と言いながら歩くのは、あまりに滑稽だった。


「やっぱお前、美嘉なの?」

「当たり前でしょう! 他に誰がいるって言うのよ!」


 良いから来て、と美嘉は俺の手を握った。その瞬間だった。


 どくん。


 力強く心臓が脈打ったかと思えば、朧げに映像がフラッシュバックされる。俺と美嘉が高校の制服を着て、お互いの手を握って登校していた。


「な、何よ。今のは」


 美嘉が言う。慎吾の姿で女性っぽい話し方をするのはやめてほしい。


「美嘉も見たのか」


 今のは間違いなく、俺と美嘉だった。普段、高校へは美嘉と一緒に登校していた。しかし、手を握ってというのはいつもと違う。なぜ俺と美嘉は手を握って登校していたのだろう。


 とりあえず俺と美嘉は人気のないところに移動した。


「俺たち、道端で倒れていたそうだ。美嘉は何か憶えているか?」

「それが全く」


 そして美嘉は、なぜか俺に怪訝な目を向けた。


「なんだよその目は」

「慎吾。私の身体、触っているんじゃないの」


 ぎくり。


「いや美嘉。ちょっと考えてみろよ。この状態が一日二日経ってみろ。触るどこじゃ済まないぞ。お互いに」


 どうやら想像してしまったらしい美嘉は、顔を青ざめた。


「ちょっと慎吾。舐めた真似をしてみなさい? あなたの股間、一生使い物にならなくしてやるんだから」

「おいおい、良いのか? 下手したらその一生使い物にならなくなった身体で、お前は生きていくことになるかも知れないんだぞ」

「じょ、冗談じゃないわ」

「当たり前だ。頼むからお互い協力し合おう」


 そして、どうやったら元に戻るかという話になった。


「ねえ、手を握った時に見たあれ。もしかして私たち、人格が入れ替わった日にああしていたんじゃない?」

「有り得るな、それ。そして多分その時と同じことをしたから、それを思い出したんだ」


 つまり、記憶を失った日にしたことを再現していけば、記憶が戻っていくかも知れない。記憶が戻れば、入れ替わってしまった人格も戻るかも知れない。


「ねえ慎吾。少なくともしていただろう事、一つだけ心当たりがあるわ」


 美嘉の提案に、俺たちは乗ることにした。





 翌朝。美嘉の自宅の、美嘉の部屋の、美嘉が普段寝ているベッドで目を覚ました。なかなか寝心地が良くて、美嘉が普段使っているかと思うと少し名残惜しいのだが、俺はベッドから起き上がって身支度をする。


 俺はパジャマを脱いで、昨夜に散々堪能した美嘉の肢体をもう一度姿見で楽しみつつ、美嘉に予め教えてもらったように制服に着替え、化粧に移った。


 鏡でじっくりと美嘉の顔を見た。相変わらず、可愛らしい顔をしている。化粧なんてしなくとも、肌にはシミひとつないし、目もそれなりに大きい。美嘉はすっぴんだって充分可愛いじゃないか。


 それでも、彼女自身の尊厳を最低限守るために、俺は予め教わっていた化粧を恐る恐る施してみた。


「へ、変じゃないよな」


 もう一度、まじまじと出来上がった美嘉の顔を見る。


「おお」


 先程よりも格段に可愛くなっていた。ずっと鏡で自分自身を見つめていると、なんだか恥ずかしくなってしまうくらいだった。


 俺は身支度を済ませると、美嘉の母親が作ってくれた朝食を平らげた。そして鞄を持って家を出ると、隣の家のインターホンを鳴らした。


 俺の母親が玄関を開けて、俺を、つまりは美嘉を招き入れた。俺は自宅に入ると、二階の俺の部屋のドアを開けた。


 俺の部屋のベッドに、俺の身体がぐうぐうと眠っていた。俺は近づいて、彼の身体をゆさゆさと揺らす。


「慎吾、起きて」


 そのような感じで何度か身体を揺らすと、美嘉は目を覚ました。


「美嘉、おはよう」


 どくん。


 力強く心臓が脈打ち、映像がフラッシュバックされた。朝が弱い俺は、幼馴染の美嘉に毎朝起こしてもらっていた。目覚めた俺は起き上がって、おはようと挨拶をする。しかしその日はそれだけじゃなかった。


「思い出した。俺たち喧嘩していたんだっけ。それで、その日の朝に謝ったんだ」

「そうだったわ。喧嘩中はずっと寂しかったから、仲直りでほっとしちゃって。だから私、慎吾と手を繋いだんだわ」


 なんとなくスッキリした俺たちだったが、少し恥ずかしくて、誤魔化すように笑った。





 放課後。俺たちは毎日一緒に帰宅していた。人格が入れ替わったその日も、きっとそのはずだ。


「結局、朝の件以外に進展はなかったな」


 俺たちは土手を歩いていた。向こう側にある河川敷で犬と遊んでいる男性を眺めながら、俺は言った。


「この辺だわ」


 ふいに美嘉が立ち止まって言う。


「私たち、この辺りで意識を失って倒れていたんですって」

「そう、なのか」


 俺は立ち止まる。そして何となく、沈みゆく夕日を眺めた。


「夕日、綺麗だな」


 俺の言葉に、美香もつられて夕日を見た。その瞬間。


 どくん。


 心臓が強く脈打つ。そしてやはり、映像がフラッシュバックする。俺たちはここで夕焼けを一緒に見た。そしてその後、何かをして、そして気を失うのだ。そして気を失う瞬間、赤とんぼのメロディが鳴り響く。そうだ。この町では17時に赤とんぼのメロディが再生されるのだ。


「美嘉。俺たちは17時ぴったりに気を失ったんだ」


 俺はスマホで現在時刻を確認した。16時53分。実はもう一つ、思い出したことがある。あの時何をしたのかは覚えていないけれど、どんな気持ちだったのかは思い出した。この気持が確かなら、俺がどんな行動に移ったのか、想像がついた。


「美嘉。俺たちは、俺はこの場所で美嘉に、告白したんだ。好きだ、付き合ってくれって」


 すると美嘉はたいそう驚いて、そして顔を紅くする。


「そっか。そうだったんだ」


 一瞬だけ、美嘉は嬉しそうな表情をした後、すぐに悲しげな表情をした。


「じゃあ、私はそれを断ったんだね」


 さあっと風が流れた。俺は一瞬頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。


「そっか。あの時ふられたのか、俺」


 自嘲気味に俺は言うと、情けなく笑った。


「じゃあ、17時ぴったりになるように、やってみようか」


 美嘉は励ますように俺に言う。


「ああ」


 やはり気落ちしている俺は、短くそう返事をするとスマホで現在時刻を確認した。16時57分。残り3分。その3分間で俺は告白して、ふられていた。そして今、それを繰り返すのだ。


 夕日をバックに、俺たちは向かい合う。


「ずっと好きでした。優しくて、格好良くて、いつも側にいてくれるあなたが好きでした。付き合ってください」


 慎吾の姿で、美嘉は言った。


「私は……」


 16時58分。断る言葉を言わなければならないのに、俺は言葉に詰まった。


「……」


 16時59分。


「私もあなたのことが好きです!」


 俺は美嘉の姿で叫んだ。叫んでしまった。こう言ってしまえば変わるのではないかと、わずかな希望を頼りに。


 そして俺は目の前にいる美嘉に抱きついて、その勢いのままキスをした。


 17時。赤とんぼが鳴った。





 何度も慣れ親しんだ名で呼ばれていた。


 あまりにも喧しいので、重い瞼をゆっくりと開いた。無機質な、おそらく病院の天井が目に入った。妙な夢を見た気がする。夕焼け空、赤とんぼのメロディが鳴っていたような。


「慎吾! まったくもう、あなたは。また気を失って倒れるなんて」


 少し小皺の目立つ女性が、俺に抱きついてきた。この女性は、紛れもなく俺の母親だ。


 俺はすぐ近くにあるスマホで、自分の姿を確認した。


「もとに、戻ってる……」


 すると俺の母親が、怪訝な表情で見つめてくる。


「あんた、またあの時みたいに自分の股間を弄るんじゃないだろうね。やめなさいよ、みっともないから」


 入れ替わったときに美嘉が何をしていたのか、俺は察した。


「母さん。美嘉は」

「美嘉ちゃんなら隣の病室よ」


 俺はベッドから起き上がって、病室を出た。


 さてと。なんで元に戻ったのか、きっちりと問いただしてやらないとな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤とんぼが鳴る頃に、俺たちは入れ替わる violet @violet_kk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ