「また会いに来たよ」
風都
第1話 春告げる君
放課後、私は一通りの道具を持って国語科準備室へと向かった。教科書とノート、そして胸元にシャープペンシル。大事な仲間たちを胸元に抱えて、私は今日もまた先生に会いに行く。
扉の窓から先生の姿を見つけて、少し身なりを整える。
目の前の扉を叩くたび、私の胸もトントンと心地よい緊張感に満たされる。
「失礼します」
職員室の手前にある国語科準備室へ入ると、本とコーヒーの匂いが鼻を打つ。
嫌いではない匂いだ。その空間で先生はひとり、私の声に気がつくとゆっくり顔を上げて微笑んだ。
「もうそろそろ来るんじゃないかと思っていたよ」
毎度先生の元へ行くたびに、先生に迷惑をかけることへの一抹の迷いを感じる私を、一瞬で安心させる一言だった。「お願いします」と言って、頬が緩みそうになるのをさりげなく教科書で隠す。
先生の声は、低くて優しくてよく通る。詩吟を嗜んでいて、一年生の時に習った漢詩を吟じた時は、隣の教室からも拍手が送られたほどだ。吟じている時の真剣な眼差しと、拍手を貰って嬉しそうな、少し面映そうな笑顔は今でも覚えている。旅立つ友を送る前夜の詩だったことはかろうじて覚えているが、作者と題名はすっかり忘れてしまった。
「わからないところがあって」
私が教科書の該当箇所を指差せば、先生は私の指ごとゆっくり丁寧に詩を読んでいく。先生の視線の先、私の爪が少し長いのが気にかかった。
「ああ、ここか。ここは……」
先生は漢字の意味や文法を流れるように説明する。私は慌ててノートを開くが、先生は教科書にスラスラと達筆にペンを入れながら、一言。
「わかるか?」
普段はまるで仙人のようにゆったりとした物言いであるのに、なぜか訳を説明する時には先生は早口になってしまう。先生の授業が生徒から不評とされるひとつの原因が、それである。ちなみにもうひとつは、長期休みの宿題がびっくりするほど多いことだ。この前の冬休みの宿題の厚さは1センチもあり、一つの小冊子と化していた。
「……すみません、もう一度いいですか?」
今度はノートをしっかり開いてメモを取れるようにする。先生は少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまん、速すぎたな。つまりはな」
白文を指差しながら、先生はまず私に読み下し文がどうであるかを説いた。先生の説明を聞きながら、同時に先生の手を見る。レ点、一、二点を追って、次々に先生の指が字から字へと移動する。節くれだってゴツゴツしている大きな手は、わたしの手とは違って豊富な経験と強さを兼ね備えていた。一方で私の手は、何もしていないからか白くて柔らかく、傷一つない。
お茶の先生には若くて可愛い手だと褒められるけれど、私は無力さの象徴であるような自分の手が好きではない。
先生の手は、私には無いものを持っているみたいだといつも思う。眩しさはないけれど、質素堅実であるその手が、先生そのものを表しているようで素敵だとも思う。だから、私の目が吸い寄せられるのも仕方がないのだ。
先生の説明を聞くのもそうだが、チョークを持ったその手で黒板にスラスラと文字を書く様子を見るのも、古典の授業の醍醐味なのだ。
「どうだ?わかるか」
ようやく頭が整理されてきた私はコクリと頷いた。先生がホッとしたように笑う。普段は仙人のように落ち着いた笑顔なのに、こういう時には少年のような笑い方をする。
反則だ、かなわない。心が痛くて暖かい。
顔中の皺がクシャッと折りたたまれる。その笑い方と、その後の照れたように目線を外す仕草が堪らない。
疑問が消化されるのがこんなにも惜しいなんて、先生の手を煩わせる私は、実は不真面目な子なのかもしれない。
「も、もうすぐ春ですね!」
もう少しだけ先生と話したくて、なんとか言葉を絞り出す。
先生の仕事の邪魔になるとわかっているのに何故、私は私の言うことを聞かないのだろう。なんて子だ。不良め。
本当、ままならない。
「そうだな」
庭の福寿草も咲いてきたもんな。
しみじみと呟く先生の瞳が細められる。通学路の路肩の雪も小さくなり、日差しは暖かくなってきている。春はもうすぐそこだ。
「ウグイスも鳴いているしなぁ」
「そうなんですか!?」
「そうだよ」
先生は私を具して窓を開けた。まだ雪が残っているので当然寒い。先生と2人きりといっても仙人相手に甘い展開などはない。
わかっているのに、自然の頬が赤くなるのは、窓から忍び込む寒さのせいだ。
身を乗り出して耳をすませる私を、先生はそっと窘める。手を添えられているわけでもないのに、不思議と背中があったかい。心音が煩くなるから外の音に集中できるはずもなかった。
「……ほんとうに聞いたんですか?」
寒さで堪らなくなって後ろの先生を見上げると、先生はいつのまにか机に戻っていた。足音がしない、さすが仙人だ。
先生はにっこりと微笑み「まだウグイスは早いかもね」と宣う。
「……どういうことですか?」
「最近よく質問しにくる添木さんの声は、ウグイスみたいに透き通って綺麗な声だと思って」
「何言っているんですか」
「ははは、寒いから窓を閉めてくれると嬉しいのだけど」
私には追いつけない圧倒的余裕。
嬉しくなるなと言い聞かせながらも、しっかりと窓を閉じる。窓の桟についていた結露が指を湿らせた。
「必ず春はやってくるものだなぁ」
先生は私を見ずに、独り言のように呟いた。
「身を切るような冷たい吹雪に凍えても、いつかきっと桜は咲くし、ウグイスが鳴く春がやってくる。それは自分の置かれた場所がどうであろうと変わらない。ところで、添木さんは進路は決まっているの?」
「看護師になりたいと思っています」
「そうか」
あなたは優しいから、きっと合うだろうね。
不意打ちの贈り物だ。
何気ない一言は、これから先ずっと、心の底で暖かく私を照らすのだろうと今わかった。正直言って、看護師に向いているとは進路の話のたびに言われる。その時も私はきまって嬉しい気持ちになるのだが、今は嬉しさと同時に胸が熱くなった。これは、紛れもなく先生が言ってくれた言葉だからだ。
「私は、優しいですか?」
先生を困らせたくはないのだけれど、どうしても言葉が滑り出てしまう。つくづく困った子だ。
「ああ、君は優しい子だよ」
優しい子、と先生は言った。
子かぁ。
今の私には嬉しくて、寂しい言葉だ。すると私は急に気持ちがいっぱいになって、勝手に言葉が溢れ出した。
「先生。ウグイスというのは、本州では生まれた場所で生活をする
シャープペンシルを握り、紙と見つめ合っていた先生は顔を上げた。
「そうなのか。物知りだね」
感心しているように、ふわっと微笑む先生に、私は続ける。
「だから、私も……私も、色んなことを学んで成長して、もしその先で先生と偶然会えた時に、先生に立派な姿を見せられるように、しゅ、修行します!」
まるで体育大会の時の選手宣誓のようだった。先生は目を丸くしている。無理もない、普段は野の花のように目立たない生徒が、思い切ったことを言ったのだから。
「修行か」
一旦冷静になると変な事を口走った気がして、だんだん恥ずかしくなってきた。泣きたい。これが若気の至りというのかと俯いていると、先生が私の名を呼んだ。
プチパニックを起こした心が落ち着く声に、自然と私の顔を上げさせる。
「一生懸命で努力家なあなたなら、どこへでも行けるし、それこそ春告げるウグイスのように、誰からも愛されるだろうと、俺は思う」
それは先生も同じ、と思いながら胸が詰まって言葉が出なかった。
どうして、私は最後まで先生の古典の授業が受けられないのだろう。
先生の行く末だ。それは先生が決めることなのだ。私は、先生から見れば授業を受け持っただけの、ただの生徒に変わりない。先生はきっと何ヶ月か後には私のことなんて忘れるだろう。でも、先生が私にとって、尊敬する師で憧れる人であることは変わらないと思う。先生の言葉を胸に抱きしめて、これから辛いことがあった時にはそっと取り出して立ち上がれる。また、歩いていける。
また、会いに行きたい。春が来た時に、先生に会いに行きたい。まだ未熟で自分勝手な私は、それ以上は考えられなかった。
先生は少年のような笑顔で私を見て、そして照れたように目をそらした。
「春が待ち遠しいなぁ」
「そうですね」
「ありがとうございました。失礼します」
そっと目を伏せると、私は静かに部屋を後にした。
「また会いに来たよ」 風都 @futu
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