第百話 ……満面な、天使の笑顔。


 ――黙祷もくとう


 そして、暗くなった目の前。

 それは、ママの掛け声で、そうなった。



 ボワッと、パパの顔が浮かんだ。

 パパが妙子たえこを守ってくれたから、わたしは妙子と友達になれた。


 そして山田やまだれいちゃんがいてくれたから、妙子と仲直りできた。


 みんな大切な人がいる。愛されている。


 ……死んだら、みんな悲しむ。

 だから、わたしは笑って精一杯に生きるの。


 そう令ちゃんが教えてくれた。

 令ちゃんの笑顔の奥には、そんな思いがあった。



 長いようだけど、数秒くらいの短い時間。ほんの一瞬の出来事だ。明るくなって景色が見える。最初に見えたのは、令ちゃんの満面な笑顔だった。妙子が衣服を抱えて近づいてくる。それは、令ちゃんが地面に脱ぎ捨てたものを拾ったもので、付着していた砂は取り除かれ、尚且なおかつ丁寧に畳まれていた。


「令ちゃん、これ」

 と、妙子は抱えていた衣服を両手で差し出したけど、


「あっ、ありがと。でも、それ、瑞希みずきちゃんに預けといて」


「えっと……服、着ないの?」


「着ないよ。裸のままがいいから」


 ……と、いうことなの。令ちゃんは裸のまま黙祷しちゃったの。裸でお墓参りをした子は、きっと令ちゃん以外に、見たことも聞いたこともないと思う。


「瑞希ちゃんのパパにも、令子れいこの裸を見せたかったの。そうすれば、令子がどんな子かわかってもらえるでしょ」


 まあ、間違ってはいない……と思う。けど……う~ん。


 それから金田かなだ先生に、キャンピングカーで送ってあげるから、今日はママとお兄ちゃんと一緒に、お家に帰るように言われた。そして、


「合宿は明日からもあるし、今日くらいは、お母さんと一緒にいてやれ。しっかり『ママの手料理』を食べること。それが今日の宿題だ」とまで、笑顔で言ってくれた。


「今日は、瑞希の大好物のオムレツよ」


「良かったな、瑞希」


 ママに続けて、お兄ちゃんも、笑顔で弾んだ。


「瑞希ちゃん、また明日だね。……令子ね、瑞希ちゃんが来るまで待ってるよ。また一緒にスケッチしようね。そして、百号のキャンパス、一緒に描こうね」


「うん。ありがと、令ちゃん」


 令ちゃんの一人称は、きっと『名前』が本来の姿なのだと思えた。いつもは『僕』なのだけれど、それはきっと、おじさんに構って欲しかったからなのだと、そう思えた。


「ウフフ……」


 いつも思うことは、令ちゃんはよく笑う子で、同じ女の子のわたしから見ても可愛い子で、ニコちゃんマークのような笑顔がよく似合う子だ。でも今の笑顔は、いつもの笑顔と違って、いつもの『可愛い』ではなくて『素敵』という言葉で表現された。


 それに晴れ渡る空の下、少し大きくなった胸の膨らみも、おへそも、そして女の子の部分、そこから両方に分かれる太腿ふとももまで、どこも隠さず手を後ろで組んでいる。まるで御本ごほんの世界から、キューピットが飛び出したみたいで、お外なのに、裸でいるのが自然に見えるくらい綺麗だ。でも、頬がほんのり赤くて、体を少しよじっているようにも見えた。


「令ちゃん、もしかして……恥ずかしいの?」


「……そうなのかな? 今までなかったんだけど、たまらないの」と言った令ちゃんの目には涙が浮かんでいて、吐息といきまで漏らして「でも、それって、令子が少し大人になったってことだよね? ちゃんと生きてるってことだよね?」


「もちろん、そうだよ」

 と、わたしは答えた。


 その時の令ちゃんの表情、声が、脳内から離れなかった。



 ――帰着。


 久しぶりの我が家。それに、自分のお部屋……何も変わっていなかった。


 そして勉強机に向かって、二〇〇三年八月十五日(金)の日記を綴った。


 宏史ひろし君と、また会えたこと。

 でも思い出したら、やっぱり恥ずかしかった。


 とっても面白かったおじさんのこと。

 アハッ、笑えちゃった。


 お兄ちゃんのおかげで、妙子が笑ってくれたこと。


 それに、ママのオムレツは、世界一おいしいってこと。


 ウフフ……楽しかったことがいっぱいで、もう綴ることも満載だ。


「ふわあ……」

 と、欠伸あくびが出て、お布団の上に寝転がった。


 目を閉じると、あの笑顔が蘇って。……あっ、令ちゃんのことだ。


 そう。令ちゃんの笑顔が、みんなを笑顔にした。


 今日、令ちゃんが見せた笑顔は、この先ずっと忘れられなくなるくらいに印象的なものになった。……もちろん、そのことは絶対に日記に綴りたい。


 思えば去年の十月、中間試験が始まる前くらいだったかな。……わたしは学園へ行くのが辛くて、授業中に飛び出して、ママに怒られちゃって……次の日の朝、やっぱりわたしは学校に行くのが嫌で、駄々こねて、ママに引っ叩かれて泣きながら登校したっけ。


 それで昼休みの屋上で、また泣いちゃった。そんなわたしを、上履きに靴下だけの裸の女の子が優しく慰めてくれて……それが令ちゃんとの出会いだった。


 出会いと言っても、元々が同じクラス。でも、よく考えたら、令ちゃんが登校し始めたのは二年生の一学期。一学期は休みがちだったけど、二学期からようやくほぼ毎日登校。


 その理由は、察することはできるけど……


 って、何でこんなことを思い出すのだろう? わたしは令ちゃんと出会って、まだ一年満たない。まだこれから素敵なことを、いっぱい一緒にしていきたいの。


 だって明日も、令ちゃんに会えるもの。



 窓からカーテン越しに、ソフトな光が差し込んだ。


 白く広がる世界。ここ何処って感じで、見渡した。

 ……わたしの部屋だった。


 それに合わせるように、ふすまが開いた。


「あっ、瑞希、起きたね」


「あれ? 妙子、来てたんだ。それで今日はどうしたの?」


「ウフフ……これから、満さんと一緒に映画を見に行くの」


「お兄ちゃんと初デートなんだね」


「やだ、瑞希、そんなハッキリ言わないでよ」

 と、いうこともあって……ってわけではないけど、すっかりお昼になっていた。


 つまりグッスリと、お昼まで寝ちゃったわけだ。


「瑞希、またそれ持っていくの?」


「もちろん。それでね、令ちゃんもパンダさん、大好きなんだよ」

 と、いう具合に、ママに見送られて、わたしは家を出た。


 ピンクのリュックサックを背負い、パンダさんを抱えて、軽い足取りで駆けてゆく。その道程のほとんどが登校ルート。そうなの、令ちゃんのお家は、ほぼ学園に隣接りんせつしている。


 御城おしろみたいな大きなお家。正門を通れば駐車場で、あの黄色と黒ラインのキャンピングカーが止まっていた。思い出に浸りながら、わたしはガランゴロン……と、独特な音を奏でるチャイムを鳴らした。


 ドアが開くのが、とても待ち遠しく……


 でも、待てどもドアが開く気配もないまま、静寂な時間だけが流れた。わたしはガチャガチャと、その静寂を打ち破るように、ドアノブと格闘した。鍵を開けるテクニックなど持ち合わせていないけど……ガチャ! と重い音を立てて、ドアが開いてしまった。


 あっ、ドアの鍵、壊しちゃったかな?


 と思いつつも「えっと……あの、失礼します」と、誰かに向かって挨拶をしているわけではないけど、一応は入室するのだからと声だけは掛けた。


 当たりを見れば人の気配はなく、明かりも灯ってなかった。それでも室内は明るく、すべてが吹き抜けによる、外からの自然な明かりだった。


 わたしは赤い絨毯じゅうたんの上を歩く。それは階段にも続いて二階の踊り場にも続いていた。そこに立てば風を感じた。見れば白いカーテンがなびいている。新鮮な夏の温かい風が、開いている大きな窓から流れていた。そこはアトリエで、一昨日の朝と何一つ変わらない風景が保たれている。描かれた二つの五十号のキャンバスも、そのままになっていた。


 でも、キャンバスの前で、一人の女の子が背中を向けてたたずんでいる。長身で、夏なのに見覚えのある赤いマフラーをしていて、外から流れる風が、それを靡かせていた。


「山田?」

 と、わたしは、その女の子に声を掛けた。


「あっ、瑞希……」


 と、その女の子は振り向いた。表情を見れば、いつもと違って少しあおめていた。その瞳は曇っていて……どう見ても、何かあったとしか思えなかった。


「令子って、いつもこんな顔して笑ってたよなあ……」


 山田が言っているのは、五十号のキャンバスに描かれている絵のことで、背景には御池おいけがあって御花畑おはなばたけがある。その中心には令ちゃんが裸で無邪気に戯れている。それは、わたしが見た令ちゃんの、ありのままの姿を、キャンバスいっぱいに表現したもの。


 ……でも、山田の表情は、絵のことを言いたいのではないと、物語っていた。


「何が……あったの?」


 わたしは静かに訊いた。


 山田は、抑えている何かが崩れたように、ポロポロと涙を零した。


「……今朝、ここに来たら救急車が止まってたんだ。令子が担架で運ばれてた。あたしは令子の元気な顔を見に来ただけなのに。……あいつ、もう笑わないんだ。顔を涙で濡らしててな、そのまま眠ったように目を開けないんだ……」


 嗚咽おえつを堪えながら、山田は言った。


 わたしは、わたしは……


「行こっ、病院に」


 駆け出そうとしたわたしの左手首が掴まれた。


 振り向けば、山田が顔を横に振って、


「もっと悲しくなるよお」

 と、精一杯の声で言った。


 抱えていたパンダさんが、外から差し込む光で輝いている床の上に落ちた。


 頭の中は真っ白になって、その場にへたり込んだ。


 目の前には、山田が見たものとは違う五十号のキャンバスの絵があった。そこに描かれているのは、わたしだった。背景は、もう一つのキャンバスの絵と同じもの。


 でも、絵のストーリーは違って、御池で水浴びをしたあと、御花畑で戯れているという内容だ。そこにいるわたしは裸で、素肌を流れる水までもが繊細に描かれていた。それがまた、令ちゃんという女の子の、わたしを見た、ありのままの心のように思えてきた。


「わたしって、こんな笑顔してたんだ……」


 誰にも聞こえないように呟いた。そうしなければ、わたしは自分の笑顔がわからなくなってしまう。……すると、その絵は、令ちゃんの言葉になって、わたしにささやきかけてきた。それは、きっと、わたしにしか聞こえないものだと思えた。


『アハハハ……』


『令ちゃん、どうして笑ってるの?』


『だって、令子はずっと瑞希ちゃんと一緒だよ。……令子は瑞希ちゃんの心の中に生き続けるの。とっても素敵なことなんだよ。だから、泣いちゃ駄目……』


『そんなこと言ったって……』


『令子が描いたアクリル絵。この絵みたいに、瑞希ちゃんは、とっても笑顔が似合うんだよ。……令子と一緒に笑おうね……』


 でも、それ以上は語らなかった。……目の前の、令子ちゃんが五十号のキャンバスに描いたアクリル絵は、みるみるぼやけて見えてきた。


 ……そして、膝の上には、音もなく雫が落ちた。



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