第三部・第一章 風立ちぬ。橙色の秋へ向かう物語。

第百一話 ――残暑。


 薄らと開いた目に、朝の眩しい光が差し込んだ。


 でも、このまま眠り続けたい。


 そう思って、また目を閉じると、玄関のチャイムが鳴った。わたしの部屋から玄関までは近くて……というよりも、ほとんど隣接している。玄関のドアを開ける音に続いてママの声が聞え、妙子たえこの声も聞こえてきた。わたしは上布団を頭まで被った。


 ほんの少しの間で、部屋の襖が開いた。


瑞希みずき、学校に遅れるよ」


 あれ? ママじゃなくて妙子の声だ。妙子が迎えに来てくれて、部屋まで呼びに来

てくれた。それなのに、わたしは、


「やだ、休む」


 上布団を被ったまま、顔も見せずに、そう言った。


 すると、ガバッと上布団を捲られて、一度は遮った朝の光だけど、また差し込んだ。その中に、夏用の制服を着た妙子の姿があった。わたしの顔を見ている。


「見ないで……」

 と、わたしは妙子を避けるように、また上布団を頭から被った。


「気持ちはわかる。できるなら言いたくなかったけど、瑞希がいつまでも泣いてたら、れいちゃん悲しむよ……」


 妙子の声も泣いていた。


 声に出せなかったけど、ごめんね。と、そう思った。


 夏休みが終わって今日は始業式。二学期が始まった。わたしは妙子に手を引っ張られながら学園の正門を潜った。私立大和やまと中学・高等学園は、一学期の終業式からの続きを思わせた。それは、つい昨日のように。ただ……


 辺りは静かで生徒たちの姿や騒めきもなく、先生方も立っていなかった。時間的に予鈴が鳴り止んだあとだから。わたしには重い足を動かす気力もなくて、遅刻になるのを待つばかりと、そう思っていた。


 ――すると、


「おはよう!」

 と、男子生徒に声を掛けられた。


 妙子は満面な笑みを見せて、


「あ、みつるさん、おはようございます!」

 と、ほんのり顔を赤くしながら挨拶をした。


「妙ちゃん、瑞希のこと、ありがとう」


「いいえ、そんな……」

 と、妙子は上目使いだ。


 妙子は『満さん』という男子生徒のことが大好きで、夏休みに、映画に誘われたことをキッカケに『恋する乙女』となった。それから、その『満さん』という男子生徒は、わたしのお兄ちゃん。この春から、わたしと同じ私立大和中学・高等学園に通っている。


 わたしが中等部二年生。


 お兄ちゃんが高等部一年生。お兄ちゃんは高校受験を経て、この学園に入学した。


「おっ、瑞希も来たな。じゃあ、教室まで頑張ってみるか?」


「うん、頑張る」


 お兄ちゃんの笑顔で……わたしは、やっと笑顔になれた。


 そして、妙子はまた、わたしと手を繋いで、


「瑞希、早く早く」


「う、うん」


 駆けて行く。わたしの手を引っ張って懸命に走る妙子の背中を見ていると、もう少し頑張れるような気がしてきた。そして、旧校舎の階段を上がり二階の踊り場、教室までもう少し……というところで、ウェストミンスターの鐘が鳴り響いてしまった。


 それは、授業開始を意味していた。


「妙子、ごめん。遅刻だね」


「ううん、瑞希が一緒に来てくれたから、いいの」


 と言って、妙子は微笑んだ。……じゃあ、わたしが休んだら妙子はどうしたの? そう思っているうちに、妙子は教室のスライド・ドアを、そっと開けた。別に、そっと開けても教室の前の方だから意味はない。きっと金田かなだ先生に叱られる。


 視界に入ったものは、やっぱり金田先生が教壇に立っていて、クラスのみんなは席に着いているという光景だった。すると金田先生は、こちらに顔を向けて、


「おっ、来たな。すぐ始めるぞ」


「はい」

 と、妙子の声に合わせて、わたしも返事をした。


 着席する時に後ろの席を見れば、


「よう、今日は寝坊か?」などと、いつも声をかけてくる山田やまだがいなかった。


「あっ、北川、山田は体調不良で休むって連絡あったからな」

 と、金田先生は、わざわざ言ってくれた。


 ……無理もなかった。体調不良は建前で、本当はわたしと同じだ。


 それでもって、夏休みの宿題が回収される。令ちゃんは八月十五日の日に、パパのお墓参りから帰るキャンピングカーの中で、夏休みの宿題をやり切って、金田先生に提出していた。ふと廊下側の窓際に顔を向ける。そして、妙子の後ろの席を見れば、そこにも空席がある。その席に座っていた子は……休んでいるわけではなかった。


 その席の子は、もういない。そこは……令ちゃんの席だったから。


 二年二組の生徒は二十四人いた。でも、二学期からは、休んでいる山田を入れても二十三人。これから、二学期に向けての心構えも必要なのに、金田先生の話も耳に入らず、どうしても、そんな気になれない。それに美術部だって、わたし一人になってしまった。


 令ちゃんと築いた大切なものまでなくなってしまう。部員一人では、美術部が廃部になるのも目に見えていた。


 そんな不安を変えられずに、ウェストミンスターの鐘が始業式の終わりを告げた。



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