第四話 よっしゃあ! ぬいぐるみのパンダさんの登場だ。


 それらを、らしているものは、たぶん水道の水。


 それとね、

 わたしの体内から出た水分と、……その二種類だ。


 そして今、

 濡れているものは、それだけではないけど、


 わたしは浴室でガシガシと、小さな緑色のポリバツを用いて、二足の上履きを洗っている。……靴下も、彼女のものを含む。洗濯機の中。真っ先に脱いで入れたのは、お気に入りの熊さんのパンツ。あと野球のユニホームみたいな大きなTシャツも同様で、わたしのものは、それで全部……だけど、全部なだけに、全裸になっちゃうの。



 ――とはいっても、

『まあ、一緒だけどね』との胸中のつぶやき。


 それに従い、結果的には着ているもの全部を、洗濯機の中へ入れた。でも回すには、まだ彼女が着ているものすべてが必要になる。であるなら、もう条件や準備も整っている。


 バスタオルは、予め彼女に渡していた。

 風邪ひかぬようにと、その思いで……。


 洗い終えて、玄関を飾るようにと、二足の上履き立てかける。少しでも、速やかに乾くようにと、穏やかな秋の風が当たってくる。……でも、オゾン層破壊が怪訝けげんされる中、まだ夏の続きを思わせるような暑さだ。一刻も早くと、露わとなった全身の素肌が、程よい温度の水を欲しがっている。わたしは導かれるように、玄関すぐの部屋に入った。


 少しだけガラス戸が開いている。その先にはベランダがある。

 そこから風が流れる。その風こそが、先刻までの空気や色彩までも変えていた。



 ……そうだとしたら、気づかぬうちに、


 あるいは瞬く間に、空気が変わった。もう体感温度は冷たくなくなっていた。

 そして、薄暗く青褪あおざめていた色も、ほんのり赤みがかった色に化けている。


 何よりも、

 わたしの部屋には、佐藤さんがいる。


 濡れた髪の上から、バスタオルをかぶって立っている。少し見上げているようだ。そこには……夢中にさせているものがあった。女の子は、きっと可愛かわいいものが大好きだ。


 それはね、

 もちろん、わたしも大好き!


 ズラッと並ぶ黄色十八冊の学問研究の辞書。その本棚の上に座っている。

 気配けはいに気づき、気づいていたのか、


「ねえ、瑞希みずきさん」と、こちらを振り向くも、

 ササッと目をらす。「か、可愛い『パンダさん』ね」と少しどもった。


 佐藤さんを夢中にさせていたものとは、『パンダさん』と呼ぶに相応ふさわしい……という以前に、見た通りの姿形をした『ぬいぐるみさん』のことだ。可愛いといっても、小さくはなく、両腕で抱えられるほど大きい。抱くならスッポリと、胸からお腹まで隠れるの。


 そこで思い出すのは、やっぱり……。


「七歳の時にね、パパが買ってくれたの」


「優しい『お父さん』だったのね」


「うん……」



『さっきは、合わしてくれたんだ。

 佐藤さんは、お家ではパパのことを、お父さんって呼んでいたんだ』



 その思いも過るのだが、


 また泣きそう。パパのこと思い出すと、いつもこうなの。

 泣いちゃ駄目……って、必死に堪える。



 するとね、クスッ。またクスッ……で、

 佐藤さんは別の意味で堪えていたけど、


 もう無理みたい。


「瑞希さん、髪泡だらけよ。鼻の頭にもついてるし。それに……」


 言葉が詰まったようだ。

 目を逸らしていたけど凝視……いや、目がテンだ。おまけに両手を口元に持ってきて顔を赤くしながら、声のボリューム調整をもままならないみたいで、


「それに、ずっと裸のままだったの?」


 と、これがこの子の本当のボリューム。しっかりした声だ。そうでありながらも笑いと驚き。思えば変な組み合わせで、佐藤さんは戸惑っている様子だ。


 それでも、わたしは、

「うん!」と、胸を張る。更に「瑞希がね、佐藤さんを綺麗きれいにしてあげるんだよ」と。



 ――初めて知った佐藤さんの笑顔。

 やっと笑ったけど、……「えっ?」という表情になってしまった。


「……と、いうことは、あたし、瑞希さんと一緒にシャワーするの?」


「そうだよ」


 わたしには普通のことだ。

 今でもね、お兄ちゃんと洗いっこしているの。


「あの……やっぱり恥ずかしい……」


 また小さな声……に戻っちゃうよ。佐藤さんはうつむいてしまった。ほおを赤らめて……。


 そんなの駄目!

 その思いが声になって、


「見て!」

 と、それも大きく、佐藤さんが再び顔を上げるのには、充分すぎるほどだ。


「ねっ、瑞希が裸なら、恥ずかしくないでしょ?」


「くすくす……」

 と、佐藤さんはまた、くどいようだけど再び、笑ってくれた。


 ……だから、今かな?

 今この時に、言うべきかな?



「あ、あの……」


「なあに?」と、もはや普通の会話だ。

 何が起きても、もう感激しかイメージできない状況だ。


「佐藤さんの下の名前、何だったかな?」


「ちょっと待って」で、ギクッとなった。

 そして佐藤さんの声、少し怖い感じに聞こえたようにも思える。


「ねえ瑞希さん、その前に、あたしのフルネーム教えてたっけ?」


「えっ、ええっとね……」


 やだ、それ自体が思い出せないよ。教えてもらっていたような気がするし、まだ教えてもらっていないような気もするし……「ねえ、どっち?」と、追い打ちをかけてくるし。


 それで、ちょっと泣きそうになって、


「……妙子たえこ


「えっ?」と、わたしの涙が引っ込むのを見計らい、


「これからもよろしくね、瑞希ちゃん」

 と、満面な笑顔になって、佐藤さんはそう言った。


「うん!」


 わたしも、すっかり笑顔。

 手をつなぐ。僅かな距離だったけど、一緒に浴室まで歩いた。


 爽やかな風。

 ここから佐藤さんのことを『妙子ちゃん』と呼ぶ。


 ……でもね、『タエちゃん』になるかもしれない。


 でも、やっぱり初めは、


「妙子ちゃん、脱いだ服は洗濯機に入れてね。瑞希のと一緒に洗濯してあげるから」


「うん、ありがとっ。でも……」

 と、妙子ちゃんの表情が曇り始める。


「どうしたの?」


「あの……お風呂から上がったら、着るものないよ……」


「大丈夫。瑞希のお洋服を貸してあげるから」

 ――あれ? と、キョロキョロ。


「あ~ん、着替え出すのを忘れてた!」

 との発言直後、クスクスッとの音声付きで、妙子ちゃんが笑った。


「ごめんね、ちょっと用意してくるね」

 という具合に慌てながらも、ニッコリ笑顔に努めて、わたしは全裸のまま駆けた。



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