愛憎の3分間

ふなぶし あやめ

愛憎の3分間


 そこは、暗い部屋だった。

 ダブルベッドとサイドテーブル、それに備え付けのクローゼットがある一般的な寝室。そう、よく新居の広告で見るような、そんな感じの夫婦の寝室。しかし、光源はサイドテーブルに乗ったオレンジ色のランプと、引きっぱなしのカーテンのお陰で室内に入る月光のふたつだけだった。


―――まるで、作り話みたいだ。


 男はそう思った。そう思う原因は、内装とか光の加減とか、空間に限ったことではない。男は、自身の腹の前で三徳包丁を持っていた。柄をぐっと両手で握りこんでいて、震えは止まっていた。刃にべっとりと張り付いた血は、液体というよりもゲル状に近いようで、ぼとり、ぼとり、ゆっくりとフローリングに落ちていく。

 両手に力を入れたまま立ち尽くす男の目の前には、目を大きく見開き、腹に空いた穴を押さえて後ずさる女がいた。女の大きな瞳には、同じ歳ほどの男がぼんやりと映っている。


「ど……して…………」


 喉から絞り出したような、か細く、震える声が消えるように、暗い部屋に放たれた。彼女の見開いた目は、恐怖か、驚愕か。何を思っているのか、男にはわからなかった。男は興奮はせず、しかし冷静でもなく、どこか空らっぽになったようだった。


「どうして、なんて問うのか……?君自身が、一番よくわかってるんじゃないのか?」

「―――」


 女は、疑問を投げかけた夫に、何も返せなかった。女はまた半歩後退する。ずりっ、とスリッパの踵が地面に擦れる音と共に次の瞬間、バランスを失って体重が後ろに移動した。女の両手は刺された傷から離れられず、身体を支えることができない。そのまま尻を打ち、背中はベランダに通ずる冷たい窓に当たった。普段なら打撲したであろう身体を痛むが、今の彼女にはもはや痛みの感覚がわからなかった。燃えるような熱を感じるお腹の傷しか、脳は感知してくれない。


「わ……た、し……は……」


 女は再び声を絞り出すが、長い言葉は紡げない。彼女の腹からは、とめどなく血が溢れていた。男は一歩、妻との距離を詰めた。

 男は問いを投げたが、回答はもはや求めていなかった。頭の隅で、腹部に一刺しだけでは即死しない、と、どこで得たのかわからない知識が警告音を鳴らす。


―――そうだ。もし、余計な事をされたくなければ心臓を刺さないと。


 男はぼんやりとそんなことを思う。でも、この明らかな非日常で、まるで作り話みたいな、そんなこの光景を見てどうしても彼女にも苦しんでほしいという気持ちが沸き上がるのも事実だった。


―――俺を、俺を裏切ったから。


「……結婚するとき、約束したろ?俺が俺の夢を追いかけて、それで俺が悩んでるときは、必ず力になるって」


 男は、三徳包丁から左手を離した。男は、右利きだった。

 彼女がスマホを手に取って、連絡なんかされたらやはりそれは「余計な」事になるだろう。連絡先が警察でも、救急でも、あの男でも。


「それなのにさ、君はもうそんなこと忘れて……いや、覚えててもそれ以上にアイツと過ごすことを選んだんだろ?なぁ?」


 どこかぼんやりとしていたはずの男の瞳に、再び熱が灯った。それを女は見逃さなかった。もう頭は朦朧としていて、それなのに、豹変した夫の右手で光を取り戻した包丁だけは、やたらと鮮明に見える。


「や……」


 夫と過ごしたそれなりに幸せな日々。いくつもの写真。付き合っていたころの思い出の品。それらが脳裏を駆けていく。と同時に、今一番愛している男性ひとの顔を思い出した。

 女の瞳は、もう見開いてはいなかった。感情故か、生理的にか、涙が溜まっただけ。


「―――愛してたよ」


 寝室に男の声が響いて。包丁が振り下ろされるところで、―――




***




 見終わった映画は、なかなか良く出来ていた。

 デスクトップ画面には、エンドロールが流れている。音楽は、ボーカル無しのもので、短調で不安を掻き立てるも、綺麗なピアノがよく耳に入る。

 俺は立ち上がって軽く伸びをし、近くのローテーブルに置きっぱなしだったマグカップを手に取った。冷え切ったコーヒーを飲みながら、再びパソコンの前に座る。


「これなら、きっといける……」


 そう呟かずにはいられなかった。冷えたコーヒーは美味しくないが、集中して疲れた頭をすっきりとさせてくれる。

 この映画は約100分で、監督・脚本・演出、全て俺ひとりで制作したものだ。テレビ局に勤める冴えない夫が、昔アナウンサーだった美人妻に浮気され、最後はその妻を刺し殺してしまう、という愛憎ドラマ。浮気相手が駆け出し中の若手俳優ということでなかなかの二枚目なのも、きっと注目を集める。特に、サスペンスではよくありそうな最後の三分間の殺人シーンが、この映画ではオチとして使われているのが、個人的にはポイントだと思っている。世間はドロドロのドラマを好むし、きっとこれで俺の名は監督として有名になる。


「ここまで長かったなぁ」


 しみじみと思う。思えば、映画に興味を持ち始めたのはいつ頃だったか。

 これはアマチュア映画という括りになるだろうが、いつか全てひとりで映画を作ってみたいという夢がひとつ叶ったのだから、感慨深くもなるだろう。

 終了したエンドロールを確認して、動画再生ソフトを閉じた。次は、これをより多くの人の目に触れてもらうために、インターネット上にアップロードだ。複数サイトを使ったほうが良いだろう。


「お、っと」


 普段は右手で持つことが多いマグカップを左手で持っていたからか、口元からコーヒーが少し零れてしまい、白いシャツに染みができる。

 ……まぁ、どうせこのシャツももう捨て時だしなぁ。なんて思いながら、動画のアップロードを順に行っていく。


「これでよし、っと」


 合計三つの動画サイトにアップロードが完了すると、俺はまた伸びをした。今度は大きく。そして、パソコンが置いてあるリビングの隣の、扉が開けっ放しの暗い寝室に声を掛けた。


「終わったよ。最期まで俺の力になってくれてありがとな」


 暗い寝室からは当然誰の返事も無い。お陰で、俺は明日には有名人だ。妻とは色々あったが、やはり感謝すべきだろう。



―――作り話フィクション


 白いシャツにできたコーヒーの染みは、鮮血の跡を消してはくれなかった。



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