私小説(あるいは文字上の自己救済)
夏原海星
魚になりたかったとき
人間が分かり合えないのを忘れていた、と思う。ごめんなさい。低い声で謝りながら私は静かな一匹の魚になることを欲している。もう二度と間違えないように。誰かを好きになることもやめてしまいたいし、好きになってもらえると勘違いするのもやめたいし、好きになられてから嫌われるのもやめたい、私は水槽の中で漂う一匹の魚になって、その日その日見に来る人たちと刹那的で優しい逢瀬がしたい。私がどんなにひどいことになっても、ひどいことをしても、それすら一時の思い出と笑って、そうして忘れてくれるような優しい観光客たちと戯れたい。人間を愛したいのにいつも失敗してしまうのは悲しいから、刹那の人たちを刹那で愛したい。違う種族になって。
関係性がいつか終わってしまうことが、私はいつも恐ろしい。十年愛し合っていても明日には嫌われているかもしれないと考えたら、一日だって愛せない気がする。十年愛しても明日嫌われたらきっと悲しいし、もう二度と愛してもらえないことだってあるのだ。始まったら終わらなきゃいけない。終わらせたくないのに、私はいつも終わりのことばかり考えているし、終わりが見えている。私にとって関係性とはゲームの選択肢だ。一度間違えてしまった瑕疵は一生残る。いつくしみややさしさは痕を残さないが、にくしみやくるしみがなくなることはない。違和感を抱いたという事実は消えない。私が愛したという自認や、私が愛を注ぎ込んだという自認は、つけてしまった瑕疵でたやすくかき消されてしまう。私がそうだから、相手もそうなのだと思ってしまう。悪い癖だ、昔から。
あらゆることに終わりがある。終わりが別の終わりの先にあることはあっても、終わってしまうことに変わりはない。奈落の底のように恐ろしくて、真っ暗で、二度とはじまらない「終わり」はいつでもそこにあって、いつでも私たちを脅かしている。愛や祈りは終わりを遠ざけない。ただ受け入れる準備をさせるだけである。今まで愛したという自認が終わりの暗闇を新しい夜のように感じさせて、別の終わりをもたらす始まりまでの間を埋めるだけである。「ない」は「ある」よりずっと強い。あったことはなかったことになるけど、なかったことがあったことになることはない。祈りはどれだけ緻密でも、どれほどの人の心を動かし、涙を流させても、一時の祈りにしかならない。祈りが架空から現れることはない。この現実はあるとない以外の事実を許容しない。愛も祈りも架空の事象だ。現実においては「ない」ものなのだ。愛や祈りが動かせない終わりがあり、すべてが最後のあとの暗闇へとなだれ込むとき、愛も祈りも終わることさえできない。だって愛も祈りも始まっていないのだ。
愛も祈りも始まることも存在することもないというのはまるで救いのようだ。だって始まらないし「ある」こともないといことは、終わらないし「ない」になることもないのだから。愛や祈りは喪失されない。だがそれは、愛や祈りが現実と何も関係のない、空想であることしか表さない。空想は人を救うかもしれないが、掬うことはできない。愛や祈りがあるかもしれないという希望を抱いて歩く人々は病のための巡礼者のようだ。ここには薬はないが、薬なんてどこにもないのだ。それがわからないから歩き続けることができるのだ。
私小説(あるいは文字上の自己救済) 夏原海星 @kaisei_natsuhara
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