04(終)
その夏に僕がそこにいた理由は思い出せない。多分、例年通りお盆休みを使っての祖父母の家への帰省だったのだと思う。
祖父母の住む集落から程近いバス停のベンチで、僕はぶらぶらと足を揺らしていた。
つばの大きい野球帽を目深にかぶり、ぬるい麦茶の詰められた水筒を肩からかけて、重いリュックサックも背負っている僕の姿は、はたから見れば遠足帰りの子供のように見えただろう。
実際の僕の胸中は遠足などという愉快な催し物とは真逆の、陰鬱な気分で満たされていたのだが。
バス停が南向きであるせいで、ひさしの下のベンチに座っているのに、直射日光は体の半分に容赦なく照りつけてきていた。日に焼けていない膝小僧が太陽に照らされてひりひり痛む。足を小さくぶらつかせるごとに、くっきりとした影が地面で動いた。
周りからは蝉の鳴き声がうるさく響いている。そういうものに興味がない僕にはそれがどの種類のセミの声なのか判別できなかったが、とにかく苛立たしいほどにうるさいということだけははっきりと分かっていた。
そうやって直射日光にさらされていた僕だったが、ふいにその光を遮る人影が僕の前に現れた。
「やっ! どうしたの少年、こんな場所に一人で」
ほんの少しだけ顔を上げてみると、そこにいたのは一人のセーラー服を着たお姉さんだった。白の運動靴、白い靴下、良く焼けた足に短いスカート。背格好からいって、おそらく女子高生だ。
僕は最初黙っていたが、十秒経っても彼女が諦めようとしないのを知ると、ぼそぼそと小声で答えることにした。
「父さんと母さん、待ってるの」
「ふぅん。こんなに暑いのに一人で待ってるなんて偉いね!」
彼女の声から逃げるようにして僕はさらに視線を落とす。マジックテープで留められた運動靴と、今流行りのドラゴンの絵柄がついた靴下が目に入った。
「私、夏子! 君の名前は?」
腰をかがめてこちらを覗きこんでくる彼女にちらりと視線を送る。日に焼けた細い指が見える。だけど彼女の質問には答えたくなくて、僕は沈黙を貫いた。
すると彼女は僕の名前を聞き出すことは諦めたらしく、僕を覗きこむのを止めた。その代わりに、僕の真横に詰めるようにして水色のベンチに勢いよく腰かけてきたのだった。
「初めて見る顔だけど、村の外から来たの?」
僕はまた沈黙したが、今度は彼女も引き下がってはくれなかった。僕は唇を尖らせて小声で彼女に返事をした。
「東京から来たんだよ」
「へぇ、そうなんだ! で、この村の感想は?」
「つまんない。ここって何にもないし、外で遊ぶなんて好きじゃないし。僕は家でゲームしてたかったのに」
突き放すようにして言葉を発しているのにもかかわらず、彼女は楽しそうに僕に話しかけてくるばかりだった。
「私も今度東京に引っ越すんだよ。ねぇ、東京ってどんなところ?」
「別に。普通のところだよ」
ぶつぶつと呟くようにして答えると、彼女はふぅんとか言いながら僕に視線を送るのを止めたようだった。
「それにしても本当にあっついねー!」
ぱたぱたと自分の胸元をはためかせ、彼女は涼を取ろうとする。わざとらしく発せられたその独り言を無視していると、彼女は持っていた自分の学生鞄からとあるものを取り出してきた。
それは一本のラムネの瓶だった。この暑いというのにラムネはよく冷えているらしく、表面にはびっしりと汗をかいていた。ラムネの中身と表面の水滴が日の光に照らされ、きらきらと煌めいているのが印象的で、僕はしばらくその輝きに見入ってしまっていた。
「よっと」
きゅぽん、と間抜けな音を立てて、押しこまれたラムネの封が開けられる。噴きだしてきた中身が瓶を伝い、彼女の細い指を濡らした。
彼女は瓶を傾けて数口だけラムネを喉に流し込むと、僕の視線に気づいたらしくラムネの瓶を僕に差し出してきた。
「飲む?」
慌てて彼女と彼女の持つラムネから僕は目を逸らした。彼女はまた数秒間、辛抱強く僕の答えを待っていたが、僕がハイともイイエとも言おうとしないでいると、諦めたのか自分一人でラムネを飲み始めた。
無音に近しい騒がしさが、耳の奥にへばりついている。生温かい風が木の葉を揺らし、地面に落ちた木々の影がゆらゆらと揺れる。僕たちの間には沈黙が続き、ただ彼女がラムネを飲み下す音だけが響いていた。
やがてラムネは空になり、彼女はその瓶をベンチに置いた。それから数分間、僕たちは黙ったまま隣り合っていた。
揺れる爪先、彼女が飲み干したラムネの甘い匂い、触れるか触れないかほどのところに置かれた彼女の指と僕の小さな手。待てど暮らせどバスはやってこない。ただ緩々と過ぎる夏だけがそこにはあった。
「君っていつもそうやって俯いてるの?」
ふいに彼女からかけられた声に、僕は当然のように答えなかった。僕の視界には影が落ちる地面がある。いつもだって見下ろした先にあるのはアスファルトの堅い地面ばかりだ。だからそんなことを言われたって困る。
彼女は黙りこくる僕を見て、それから空へと目をやったようだった。
「あっ」
何かに気付いたような声とともに彼女は腰を上げ、僕の手を無理矢理に引いてきた。
「おいで!」
つんのめる形で僕は彼女の後をついて立ち上がる。何が起きたのか分からないまま彼女の方を見ると、彼女はもう片方の手で空を指した。
「少年、上を向いてごらん!」
つられて僕も空を見上げる。一気に目の中に眩しさが飛び込んでくる。かすむ目をなんとかしようと何度かまばたきをすると、そこには青空から膨らんできたかのような大きな入道雲があった。何にも遮られていない本物の入道雲だ。
その側面は、まるで顎を大きく開けた怪物のようで、顎の横あたりには目らしきものも存在していた。僕は映画から抜け出してきたかのようなその存在を、口をぽかんと開けながら見上げていた。
「ほら、入道雲がドラゴンみたいだ!」
自慢げに彼女は言う。そうしてから、悪戯っぽく笑ったようだった。
「どう? 下ばっかり向いてたら見えなかったでしょ?」
僕は視線を少しだけ下げて、彼女の顔を見た。僕の顔を見て、彼女は満足そうに笑った。
「やっとこっち向いてくれた」
そこにあった彼女の笑顔は、パッと開いた大輪の花のようだった。僕はそれに見惚れ、間抜けな顔で彼女を見上げていた。
「そうだ、ちょっと待ってて」
彼女はベンチへと駆け寄ると、置き去りにされていたラムネの瓶を持って戻ってきた。僕が動けないままそれを見ていると、彼女はラムネの青い蓋あたりに手をかけた。
「見ててごらん」
きゅっと音を立てて、固い蓋が開かれる。彼女は手慣れた手つきで蓋を取り去ると、瓶の中に入っていたビー玉をつまみあげて口の中へと放り込んだ。
呆気にとられている僕の目の前で、彼女は口の中のビー玉をころころと転がしている。
「あ、食べ物じゃないよ?」
頬にビー玉を押しやって彼女は僕に断りを入れた。
「舐めてると甘くておいしいからさ。お行儀悪いけどつい舐めちゃうんだよね」
そうしてからまた舌の上でビー玉を転がし始めた彼女を、僕はぼんやりと見つめ続けた。この人は何なのだろう。まるで水の中にいるかのようなぼんやりとした五感で、僕は彼女に視線を送る。彼女はそんな僕に気づくと、にっと目を細めて僕に尋ねてきた。
「欲しい?」
僕はハイともイイエとも言えなかったけれど、小さくこくりと頷いてしまっていた。彼女はそんな僕を手招いてきた。
「こっちおいで」
言われるがままに彼女に歩み寄る。僕の後に続いて、真っ黒な僕の影も彼女に近付いていく。彼女は僕の前に腰をかがめると、ぼんやりとしている僕へと顔を寄せて、僕の唇に口付けを落とした。
彼女の舌に押し出され、彼女の口の中にあったビー玉が僕の口の中へと入ってくる。ほんの数秒でしかなかったそのキスはその時の僕は永遠にも等しいものに思えた。
やがて彼女の顔は僕から離れていく。動けないでいた僕を見下ろすと、彼女は自分の唇に手をやって笑ってみせた。
「ふふ、ファーストキス奪っちゃった」
その言葉を飲みこめないまま、僕は舌の上にあるビー玉を感じた。
「夏子お姉ちゃんからのプレゼントだよ。大事にしたまえ!」
彼女はそう言って胸を張る。プレゼントというのはどういう意味なんだろう。それを尋ねる前に、僕たちの横っ面から間抜けなクラクションが鳴ったからだ。
「おっと、危ない危ない」
がたごとと車体を揺らして小さなバスが山道を登ってくる。僕たちが避けると、ぷすんと音を立ててそれは看板で停まり、僕たちの前でドアを開けた。
「じゃあ私、行くね」
彼女はそう言って僕の前から去っていこうとした。まるで今あったことなんてなかったかのように彼女は僕の前から去ろうとしていた。僕は慌てて彼女の方へと足を踏み出した。
「待って!」
バスのステップに足を乗せたまま、彼女は振り返った。僕は呼び止めたはいいものの、何を言おうとしていたのかも分からずに、僕は彼女の顔を見て暫しの間、固まった。照りつける陽光の中、がなり立てるセミの鳴き声の中、僕は必死に言葉を探し、なんとか一言だけを口から発した。
「僕、武っていうんだ」
縋り付くような声で彼女に言う。もしかしたら泣きそうな顔もしていたかもしれない。
彼女はそんな僕を見ると、爽やかな笑みを浮かべた。
「東京でまた会えるといいね、武くん」
じゃあね、と小さく手を振って、彼女はバスに乗って去っていってしまった。バスから吐き出されるエンジン音が、間抜けに揺れるその後ろ姿が消えるまで僕はそれを見送り続け、口の中でビー玉をころりと転がした。
手の平の上にビー玉を吐き出してみる。唾液で濡れた硝子玉はきらきらと輝いている。僕はビー玉を指でつまみあげて太陽の光で透かして見ようとした。
「あっ」
僕の手を離れたビー玉は地面を何度か跳ねて、草むらの中へと飛び込んでいった。僕は慌てて追いかけて草むらに膝をつき、草と草の間を必死で探し回った。
だけど彼女から貰ったそれを、僕はどうしても見つけることができなかったのだ。
*
あれから二十余年経った今、私の手の平の上にはあの日彼女に貰った小さなそれがちょこんと乗っていた。
これは、こんなに小さなものだっただろうか。これは、こんなに薄汚れたものだっただろうか。あの日見た煌めきはそこにはなく、私は夏に囲まれながらそれに目を落とし続けることしかできなかった。
「武さーん!」
不意に名前を呼ぶ声がして、私は振り返る。遠くに見えたのは妻の千夏の姿だった。歩み寄ってきた千夏は私の隣に並ぶと、立ち尽くす私の手の中を覗きこんできた。
「探したのよ、こんなところでどうしたの?」
私を見上げてくる千夏の顔に、ほんの一瞬だけ彼女の姿が重なった気がした。だけどそれは一瞬のこと。私の記憶の片隅に残されていた彼女の笑顔は、私の妻の控えめな笑顔で覆い隠されてしまった。
「何でもない。何でもないよ」
僕があの夏の日に落としてしまった何物かを、私はぎゅっと握りしめながら目を閉じた。
夏に落ちる 黄鱗きいろ @cradleofdragon
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