最後の三分間

信濃 賛

最後の三分間

目が、覚めた。

「――ん? ここはどこだ?」

だだっ広い部屋の真ん中。ポツンとある椅子に座っていた老人の声が静かに響く。

老人にはここがどこかわからなかった。それどころか、頭の中にもやがかかったように以前のことを思い出せなかった。けれど、老人に怯えている様子はない。先の問いは、ただ、興味が口をついて出たようだった。

「ここがどこかはじきに分かりますよ」

そんな老人のつぶやきにこたえる声がどこからか響く。若々しく穏やかな男の声。本来なら猜疑心を抱いてもおかしくない状況だが、不思議と警戒する気にはならなかった。室内を、鼓膜を静かに揺らすその声は、それほど安らぎを覚える声だった。

「さあ、目をつぶってください」

老人はその声に従って瞼を閉じる――


目を開くと、デパートを歩いていた。隣には小さな女の子。老人はその顔を良く知っていた。

「ふみちゃん」

「なあに?」

口をついて出た名前。呼ばれたと思った女の子は間延びした声で返事をし、老人の方を見てにっかり笑った。

これは、どういうことだろう? 老人は首をひねる。

先ほどまでよく分からない部屋にいたが、今は孫と共にデパートを歩いている。

これは、夢なのか?

老人は左手で頬をつねる。しっかり痛みがあった。これで断ずることはできないが、とりあえず老人は夢でないと仮定することにした。

だとすると、さきほどの空間が夢だったのか。そう考え、記憶をたどるが、驚くほど鮮明に男の声が蘇る。夢だとこうありありと思い出すことは難しい。

疑念が疑念を呼び、頭がパンクしそうになった老人はやがて、考えるのをやめた。

「おじいちゃん、つぎはどこへいく~?」

楽しそうに聞いてくるふみちゃん。その顔には見覚えがあった。

「そうだねえ。じゃ、お人形さんのおうちでも行こうか」

「うん!」

あふれんばかりの笑顔を見て老人は、夢か現かなど、どうでもよくなった。


「うわあ~!!」

お人形さんのおうち(お人形専門店)につくと、ふみちゃんは目を輝かせ、店の奥深くに消えていった。

「こうなると、なかなか帰ってこないんだよな、女って」

目を閉じ、誰にともなくいう老人。その瞼の裏には今は亡き妻の姿が映っていた。

ふみちゃんと妻は似ていた。隔世遺伝というのだったか。好きなものを前にすると周りが見えなくなるところや、店を奥の方から見ていくところ(その方が没入感があるとは妻の言)、そして一番似ているのが、あの笑った時のにっかり顔。

ふみちゃんはまさに妻の生き写しだった。


妻は事故死だった。老人がまだばりばり働いていたころのこと。その知らせは帰りの電車の中できた。「お母さんが死んだ」というメールの一文。まるで実感がわかなかった。

蝋人形のように青白くなった妻を見て、ますます現実が遠くなった。かわりに、現実ではない「何か」が自分を包み込んでいるような気味の悪さを覚えた。

人というもののはかなさを、老人は身にしみて感じた。

だが、老人は妻の死に負けなかった。男には妻に先立たれると壊れてしまう人が多いというが、老人は違った。老人は以前にもまして仕事にとりくみ、できたばかりの孫の面倒を見、生活を安定させていった。老人がこうあれたのには、妻の死に方が大きく影響していた。

妻は、子どもを助けて死んだ。それは、妻とは何の関係もない子供だった。横断歩道で立ちすくんでいた子ども。すぐそばにはトラック。そんな状況を見れば誰もがもう助からないと諦めるだろう。しかし、それでも妻は動いた。子どもを突き飛ばさんと駆け出し、それをなして死んだ。

愚かだと思う人がいるだろう。自分の命を投げ出して人を助けて何になると笑う人だっているだろう。だがそういう人がいるように、そのあり方を敬う人もいる。老人は後者だった。

(妻の死を笑うものは臆病者だ。自分の命より大切なものについて考えない卑怯者だ。俺は卑怯にも臆病にもならない。俺は……正しくありたい)

妻の死が老人を強くした。妻のあり方が老人を正しくした。


「おじいちゃん、おーい、おじいちゃーん!」

思索に耽っていた老人をかわいらしい声が呼び戻す。

「ん? はーい、ふみちゃん、どこー?」

老人は店内の声が聞こえた方に向かっていく。

店内は全体的に低めの棚で構成されていて、それが子供を認めづらくする。

ふと、視界の端に異端なものを目に入れた気がした。そちらを二度見する老人。

そこには怪しい服装をした男がいた。黒いパーカーのフードを目深にかぶり、口元はマスクで覆っている。目元もサングラスをしていてよく見えない。そんな男がこんな店に入っている時点で相当怪しいのだが、なにより怪しいのが、彼の視線の先にいるのが女児だということ。


嫌な予感がした。老人はふみちゃん探しを中断し、そちらに足を運ぶことにした。

「もし、お兄さん。どうしたんです?」

老人はパーカー男に声を掛ける。

「……」

だが、男は反応しない。

「あの女の子に何か?」

続けざまに問う。が、男は何を言うでもなく女の子を見続けた。ただ、見続けているだけ。女の子に危害を加えようという気はないと判断した老人は中断していたふみちゃん探しに戻ろうとした。その時。

絹を裂くような悲鳴が聞こえた。すぐそこで。

頭で考えるより先に、体が反応する。

老人の視界には、ナイフを持っている男と、さっきの女の子が映った。

女の子にナイフを突きつける男。それは先のパーカー男ではない。中肉中背のナイフを持っていること以外、特徴のない男だった。

「何やってるんだ!」

驚くほど大きな声で叫んだ老人は男目がけて駆ける。ナイフの男は大声に驚き、ナイフを老人の方に向ける。ナイフの背にきらりと光りが走った。

老人はナイフなどお構いなしの相で突進する。慌ててナイフを突き出す男。老人は今が好機とみてナイフを持つ手を横に払い、男に組み付く。ナイフはカランと高い音を立て床に落ち、どしんっという人が倒れる音が店内を揺らす。

老人は抵抗する男を押さえつけようとするが、男の力は老人よりも強く押さえつけることができない。そのままくんずほぐれつしているうち、拘束から逃れた男の手に何かが当たる。それは先ほど払われたナイフだった。

息を荒らげた男はナイフを取り、それを老人につきつける。


――鮮血が走った。


ナイフは老人の腹部に深く刺さり、熱い血潮をまきちらす。

老人は、ナイフには警戒していた。ただ、相手の筋力を見誤ったことが原因でナイフに近づく機会を与えてしまった。

これは、自分の落ち度だ。せめて――

老人は力なくその場に倒れる。ナイフを下にして。

「ウッ――」

ナイフが体内を進んでいく。でも、これでいい。ナイフが腹部に刺さった時点で自分の未来は見えている。せめて、この凶刃でたおれるのを自分だけで抑え込めれば。

「このじじいッ――!」

もともとは女児を狙って持ってきたナイフなはずだった。これさえ封じてしまえば男の優位性は保たれない。先ほどの大きな音で売り場の近くは騒がしくなってきた。勇気ある大人が女の子を助けてくれるだろう。

老人はうつ伏せになり、ナイフを決して返さない構えだ。

その様子を見た男は、やがて諦めその場から逃げた。


(これで、俺の役目は――)

老人が意識を手放そうとしたその時、小さくかわいらしい足音が近づいてくるのを感じた。

それはふみちゃんだった。

赤い水たまり。おなかからはえた取っ手。光の薄い瞳。理解のできない状況。

「ふ、、、み、ちゃ――」

老人は手を伸ばす。伸ばされた手を両手でつかむ少女。その瞬間、老人の腕から力が抜けた。

「おじいちゃん? おじいちゃん! おじいちゃんっ!!!」

「――――」

その手に力がこもることは二度となく、老人は亡き人となった。



「――いかがだったでしょうか」

脳内に穏やかな男の声が響く。それに合わせて目が覚める。

「これ、は……」

視界にはだだっ広い部屋。老人が座っているのは部屋の真ん中に置かれたいす。

「あなたには最後の三分間を再び体験してもらいました。ここは夢と現のはざま。現代風に言うと異世界。そのうちの一つだと思っていただければ」

コツコツコツと足音が鳴り、目の前に見覚えのある男が現れる。

それは、黒いパーカーのフードをかぶり、マスク、サングラスを着用している男。少女を見つめていた男。

「君はっ!」

「その節はどうも。やはり僕、怪しく見えましたよね」

彼はマスクとサングラス、フードを脱ぎ、言う。なかなかの美青年だった。

「自己紹介が遅れました。僕は死を司る柱」

「死を司る……?」

「ええ。あの世界に死という概念があるのは僕がいるからです。僕は死ぬかもしれない人に死を与え、つれていく。そういう役目を負っています。あの少女には死相がありました。ですが、あなたと言うカオスが介入した影響で、少女は死の運命から逃れ、あなたが代わりに死んだ」

青年は流暢に語る。

「そして、あなたに最後の三分間を見せた理由はひとつです。あなたが自分の死に満足しているかどうかを確かめたかったんです。何せあなたは手違いでこちらに来てしまいました。だから、あなたには戻る権利があります。……どうしますか」

「……俺が戻ったらあの女の子はどうなるんだ?」

「死の運命はあの少女のもとに再び宿ります。死は避けられないでしょう」

「だったら、答えはひとつ。俺が死ぬ。それ以外、ない」

即答だった。少女の命と老人の命、天秤にかけるべくもなかった。

「……そうですか。分かりました」

妙に納得したように頷いた青年は右手に大きな鎌を具現させる。

「では、あなたの命の息吹、ここで刈り取らせてもらいます」

刹那、鉄が空をきる鋭い音が鳴った。

痛みはなかった。ただ、からだが消えていく感覚だけあった。


消えかかった老人の耳に穏やかな声が届く。


「以前あなたみたいな人を連れていったことがありますよ。にっかり笑う女の人でした」


最期の会話。それを聞いた老人は満足そうに笑うと、光の粒子となって消えていった。

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