ローカルルール

吾妻燕

先輩のローカルルール

 アラサーにもなって『横断歩道の黒線を慎重に踏んで渡る』先輩に、酔った勢いで「童心を忘れない粋な大人気取りですか? それともマジで成長できないオトナですか?」と質問したことがある。

 先輩は「失礼だなあ」と文句を垂れながら、カラカラと笑った。

「立派な大人だよ、超大人。見て分かんない?」

「見て分かんないから訊いてんすよ」

「マジで失礼だな、お前」

 まるで「生意気だ」と言わんばかりに、先輩の左拳が俺の頭を小突く。けれど、顔は相変わらず笑顔だった。頬は酔いを現すかの如く、ほんのり赤らんでいる。足先は黒線……というより白線と白線の間の、コンクリート部分を踏んでいた。

「これな、俺の地元のルールなんだよ」

 横断歩道を渡り終えたところで、ぽつりと答えが返ってくる。

 なんだか淋しそうな声色だった。半歩先を歩いていた俺は、反射的に振り返る。てっきり直ぐ後ろにいると思っていた先輩は、渡り終えた場所に立ったまま俯いていた。

 先程までしっかりとした足取りだったが、まさか酔いが回ったのだろうか。心配になって、歩み寄るスピードが自然と増してしまう。「先輩?」と呼ぶと、「ん?」と小さな反応が返ってきた。

「大丈夫っすか?」

「ん、何が?」

「いや、立ち止まってるから……」

 俯く男の背を撫でるか撫でないか迷って、結局撫でることにした。僅かに丸まった背中に手の平を添えて、上から下へ出来る限り優しく摩る。後輩からの拙い介抱に、先輩は「んあ、いや、大丈夫。酔ってねえよ」と手を振った。

「本当ですか? 俺、嫌ですよ。ゲロ吐いた先輩の世話するの」

「だから大丈夫だっつーの。つーか、ゲロ吐いた先輩の世話はしろよ。後輩なんだから。これ、縦社会のルールだろ」

 顔を上げて歩き始めた先輩を追い掛けながら、俺は「それ、今時なんて言うか知ってます? パワハラって言うんですよ」と言った。先輩は「パワハラは日本の文化」と、とんでもない持論を振り翳してから「あれね、俺の地元のルールなの」と続けた。

「え、あれって……あ、さっきの横断歩道のやつ?」

「そう。……俺の地元が何処か、田中に話したっけ?」

 先輩──矢嶋操斗あやとと出逢ったのは、大学生の時分である。

 初対面の瞬間は忘れたくても絶対に忘れられない。何故そうなったのか全くの不明だが、食堂で定食を食べていたら、頭から『冷やし中華』をぶち撒けられたのだ。しかも、犯人が犯行後に発した最初の言葉は、謝罪ではなく「……熱々ラーメンじゃなくて良かったな」だった。俺は衝動的に相手──当時は先輩だという認識は皆無だったし、年齢なんて気にも留めていなかった──の顔面へ、右ストレートを決めた。そこから大乱闘に発展し、大学からの有り難い処罰を仲良く受ける羽目になった。

 それ以降、超常現象かスーパーナチュラルか。先輩とは馬鹿話を肴に、酒を呑んで夜を明かす仲になってしまった。大学卒業後の就職先まで同じだった。

 けれど、先輩の出自については聞いたことがなかった。

 話題に上らなかった訳ではない。安アパートで一人暮らしをしている理由を「親と反りが合わなくて、だったら早いとこ上京してやろうと思ったから」と語っていたから、地方出身なのは察していた。が、実際に先輩の口から告げられてはいない。

「いや、聞いてないっす」

「そっか。そうだよな。……俺の地元、北の方なんだけどさ。ちょっと可笑しいっていうか、変なルールがあって」

 先輩は黒髪を混ぜるように後頭部を掻きながら話す。

「はあ……変な、って?」

「『横断歩道を渡る時、子供は白線を、大人は白線の間の溝を踏んで歩くこと』」

「……」

「変だろ?」

「変っていうか……それ、ゲームですよね? 俺もやりましたよ、ガキの頃に」

 横断歩道の白線だけを踏んで渡るゲーム。白線から外れるとワニに食べられるだとか、地獄に堕ちるとか、独自の謎ルールが設けられていた。

「こっちでは只のゲームでも、あっちではルールだったんだよ。だから親からも、学校の交通安全教室でも厳しく教えられた。お陰で未だにルールを破れずにいる」

「……渋谷の交差点とか大変そうっすね」

「おう、めちゃくちゃ大変よ。黒線を踏み外しそうになるし、人を避けなきゃなんねえし。かといって横断歩道の外を歩くズルも出来ないからさあ」

「破ったら、どうなるんですか?」

 何気ない質問だった。果たして、先輩のローカルルールを破ったら、何が起こるのだろう。北の方だから、なまはげ的な化物が仕置きに来るとか、そういう罰ゲームが待っているのだろうか。

 俺の予想に反し、先輩は「さあ、知らね」と言った。

「ルールに反する奴なんか見たことねえもん。でも、噂では『子供が破ったら白装束の鬼に首を斬られ、大人が破ったら黒装束の小鬼に内臓を喰われる』んだったかな……よく覚えてないけど」

「思った以上にグロかった。あっ、じゃあ先輩。ちょっとルール破ってみてくださいよ。ほら、数メートル先に横断歩道がありますから。是非!」

「是非! じゃないよ。いい笑顔で怖えこと言うなよ」

 先輩は嫌そうな顔を一切隠すことなく「なにお前、俺に死ねって言ってる?」とぼやきながら、横断歩道に足を踏み入れる。足先はやはり、白線と白線の間を踏んでいた。

 俺は唐突に、先輩の背中を押したくなった。先ほどは摩った箇所を、軽く突き飛ばしたら如何なるのだろう。彼は驚くだろうか。それとも、青褪めた顔で振り向くだろうか。別に死んで欲しいとは思っていないけれど、興味がある。

 往々にして「やっちゃダメ」と強く言われると、やってみたくなるのだ。

 俺はゴクリと唾を飲み込む。そして無防備な背中へ、そっと手を伸ばした。

 

(了)

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