しあわせにくらすための3つのルール

升釣くりす

3つのルール


 私たちには、二人で暮らす上で定めたルールが三つある。


――一つ、朝ごはんは先に起きた方が作ること。


 そう心の中で唱えながら、私は冷蔵庫から出しておいた卵を割った。温まりきっていなかったフライパンは小さな音を立て、ゆっくりと卵を固めていく。


「さきー、そろそろ起きないと遅刻するよ」

「んー……」


 かろうじて返事をしたものの、沙希は起きてはこない。少しくらい目を離しても大丈夫かと、私はキッチンを離れて沙希の眠るベッドへと足を引きずって歩み寄った。窓から刺す朝日に眉をひそめている沙希は、それでも一向に起きようとしない。


「沙希、今日は朝から会議なんでしょ」

「んー、真理ちゃん起こしてぇ」


 眠たげに甘えた声を出す沙希は、到底同い年には見えないし、会社で大きなプロジェクトを任せてもらえているような大人にも見えない。布団を無理やり剥がすと、体を丸めた沙希は恨めしそうに私を見上げた。


「はい、起きて」

「冷たいなぁ」

「目玉焼き焦げるから」

「はーい」


 彼女の返事を聞いて、私はキッチンへ戻る。体を起こして目をこする沙希は、私が足を引きずっているのに気付いて心配そうな声をかけてきた。


「足、大丈夫?」

「ん、痛くないし大丈夫だよ」


 あまりに悲しそうな顔をするので、私は足首を回してみせる。昨日の今日だから少し違和感があるだけで、痛みは全くない。沙希に心配をかけまいと、私は出来る限り普通にキッチンへ向かった。目玉焼きはまだ生焼けだ。


◇ ◇ ◇


「いただきまーす」

「はい、どうぞ」


 テーブルに向かい合って手を合わせ、朝ごはんを食べる。洗面所に行って鏡を見たはずの沙希の頭には寝癖が付いている。私は持っていた箸を皿の上に置き、笑いをこらえて寝癖直しとドライヤーを探す。


「真理ちゃん、お行儀悪いよ」

「寝癖付けたまま会社行く方がどうかと思うけどね」


 私の言葉に沙希は本当に寝癖に気付いていなかったのか、ペタペタと頭を触り始めた。それから跳ねている箇所を撫でつける。


「気付いてたなら早く言ってよぉ」

「はいはい、悪かったから早くご飯食べて」


 沙希は私の言った通りに箸を動かした。私はそんな彼女の後ろに立ち、髪にブラシを通す。サラサラの細くてきれいな黒髪に寝癖直しを吹き付け、ドライヤーの風を当てる。さすがに食べずらいのか、沙希は箸を置いて私に話しかけた。


「昨日はごめんね」


 ブオオォ、とうるさいドライヤーの音の中、沙希はそう言う。申し訳なさそうな、それでいて悲しそうな、そんな微妙な表情で俯いた。私はドライヤーを止めると、綺麗に整った髪を撫でる。


「なんで沙希が謝るの? 私が悪かったの」


――二つ、ケンカをしたら次の日までには仲直りすること。


 といっても、今回は昨日のうちに仲直りしていた。冷蔵庫にあった沙希のプリンを食べてしまって、こっそり買いに行こうとしたことがばれただけなのだ。全面的に私が悪い。沙希が謝る必要なんてこれっぽっちもない。それなのに、彼女はそのままの表情で私を振り返った。


「でも……」

「はーい、この話は終わり。昨日解決したでしょ」

「ん、ごめんね」


 沙希はどうやら喧嘩をしたこと自体に謝っているらしい。それはこれまでの喧嘩でわかっている。しかしそう何度も謝られると、私が原因だということを忘れてしまいそうだ。なんとなく気まずい空気の朝食に、私はインスタントの味噌汁をすする。


「あ、えっと、そうだ。牛乳がなくなりそうだから帰りに買ってきてよ」

「うん、わかった。でも真理ちゃん飲まないでしょ?」

「シチューでも作ろうかなって」


 その言葉に、沙希は表情を明るくした。それから何度も頷いて、パチンと手を合わせた。


「真理ちゃんのシチュー……ありがたやぁ」

「拝まない、拝まない」


 私に向かって手をこすり合わせる沙希は、シチューが大好きだ。初めて作ってあげたときに、泣かれたことを今でも思い出す。泣く程美味しかったらしいが、手料理に涙を流されたのは初めてで、正直若干引いた。このことは沙希には秘密だ。


「牛乳ね。他に買ってくるものある?」

「他にはないかな。まだ冷蔵庫の中になにかあるだろうし」


 少し考えてそう返すと、沙希はにっこり笑って頷いた。それから壁に掛かっている時計に目を向けて、やばっ、と声を上げる。その声に私も思わず時計を見た。時計は沙希がギリギリ遅刻しない時間の十分前を指している。まだパジャマで化粧もしていない沙希は大慌てで、お茶碗に残ったご飯をかき込んだ。


「私、着替え持ってくる。沙希はまず歯磨きして」

「もう間に合わないよぉ」

「はい、しっかりして」


 へにゃへにゃとテーブルに額を付けた沙希は、泣き言を漏らす。そんな彼女をよそに、私はスーツを出し、化粧は間に合わないだろうとマスクと度の入っていない眼鏡を取り出した。沙希は半分あきらめた顔で歯ブラシを握り、準備をしている私を目で追っている。


「手、動かして」

「んなおおいーん」

「何言っているか全然わからない」


 スーツをハンガーから外して待ち構える私に、沙希は適当に歯磨きを終えて服を脱ぎ捨てながらとぼとぼと近寄ってきた。


「はい、間に合うね」

「口の中あわあわする……」

「ちゃんとゆすいでないからでしょ」


 沙希が着替え始めたのを確認して、私はコップに水を注ぐ。着替え終わった沙希をキッチンへ誘導して、もう一度口をゆすがせた。何度かそれを繰り返し、口の中がさっぱりした沙希にマスクを渡す。眼鏡もかけさせ、そろそろ本当に遅刻する、と私は彼女の背中を押した。


「牛乳忘れないでね」

「わかってるよ」


 玄関でパンプスを履き、沙希は振り返った。毎日繰り返すこの時間はなんとなく寂しい。私は少し背伸びをして、彼女に顔を寄せる。すると沙希はマスクを少しずらして、優しく口角をあげた。さっきまでのふにゃふにゃした頼りない彼女ではない。


「いってきます」


 唇が触れるか触れないかのギリギリの距離で沙希はそう言って、キスをしてくれる。


「気をつけてね」

「真理ちゃんもね」

「はいはい、遅刻するよ」


 照れくさくなって、私は手を振る。沙希は名残惜しそうに私の額に唇を落とし、玄関を閉めた。残された私はしばらく彼女の遠ざかる足音を聞き、聞こえなくなったところで部屋に戻る。


「あ、ゴミ出し……」


 キッチンの隅にぽつんと置かれたゴミ袋に、思わずそう声が出た。


「まあいいか」


 膨れたゴミ袋を横目に、足を引きずって部屋に戻る。ここは六階だ。こんな足ではゴミ捨て場にも行けない。まあ生ごみでもないし、次のゴミの日でも問題ないだろう。そう結論付けた私は、椅子に座ってまだ少し残っている朝食に手を付けた。冷えて硬くなり始めたご飯が少し悲しい。


「ごちそうさまでした」


 誰もいない部屋で手を合わせ、テーブルに並べられたままの皿を運ぶ。そのときふと、壁に貼られている我が家のルールが目に入った。一緒に暮らし始めたその日に決めた、大切なルールだ。沙希の綺麗な字で書かれた、たった三つのルール。


一つ、朝ごはんは先に起きた方が作ること。

二つ、ケンカをしたら次の日までには仲直りすること


 それから、やけに大きな字で書かれた三つ目。


「真理ちゃんは外に出ないこと」


 私はそう読み上げて、ふふっと笑った。私は足を引きずりながら、食器をキッチンへと運ぶ。

 一人になると、足に繋げられた細い鎖の音がやけにうるさい。

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