第6話 墜ちた井戸の底で
それからの出来事は、正直まともに覚えていないんだ。
俺はぶち殺したゲシュタポの血まみれで『狼の巣』の中を歩き回り、何人かの兵士を殺した。
最後は、けっこう沢山の勲章をつけた、生っ白い色男に撃たれてさ。
列車の窓から、外に投げ捨てられた。
ああ、これでもう死ねるんだって思ったら、俺の大好きなヨーロッパの青い空が、いっそう綺麗に、間近に見えた。
なんでだろうな。
俺はひどく穏やかな気持ちで、まわりじゅうのものを見てた。
小さな草の葉や、その上に咲いている花や。
青い茎の上を歩きながら飯を食ってるイモムシや。
遠くに見える山々や、空をゆっくり流れていく雲や、俺の顔に這い上がってくる蟻や。
たまに、思いだしたように。はらはらと落ちてくる雪の結晶や。そんなものをね。
そうしたら、急に眠くなったんだ。
まぶたが重くなって、目が開けられなくなって……そしてもう、すべてが静かで、どうでもよくなった。
これが死ぬってことなんだなって。
俺は、ちょっとだけ笑ったよ。
それから目を閉じた。
やっと終わるんだって思って、目を瞑ったまま、まだ少し笑ってた。
眠気に押し潰されてしまうまで、ずっと笑い続けていた。
それから何日、いや、何ヶ月経ってからのことだろう。
俺は小さな家の、暖炉の前で目を覚ました。
俺が身震いするのに気付いて、小さな女の子が駆け寄ってきて言った。
「まだ動いちゃ駄目よ。いい子にしててね」
少女の父か、あるいは祖父だろうか……白髪の男が暖炉の前で、ラジオを聞いている。
そこからは、ベルリン陥落とヒトラーの死のニュースが流れていた。
連合国軍とソヴィエト軍を讃える無数の言葉と、同じくらいの量のナチス・ドイツを批難、いや罵倒する言葉が、繰り返し繰り返し垂れ流されていた。
あの『狼の巣』も、いまはもやは廃墟と化したと、英語、フランス語、ドイツ語、ポーランド語、ロシア語で伝えられていた。
死んだのは……俺じゃなくて、あいつだったのか。
そう理解するまでには、数時間もかかった。
その後ようやく耳に入ってきたのは、戦死者たちの名だった。
ナチズムの恐怖と戦った勇気ある人々の名が、静かな悲しみとともに暖炉の前を通り過ぎていった。
だが、カタリナの名前は、一度も呼ばれることはなかった。
俺は目を閉じ、彼女が生きている可能性などないのだと、何度も自分に言い聞かせて、眠ろうとした。
名もなきレジスタンスとして、誇り高く彼女は死んだ。
そう信じた。
俺も、もうすぐ死ぬだろう。その予感だけは、はっきりしていた。
再び目を閉じ、その時が来るのを待った。
きっと、今よりは楽になれる。そう思えば、死は恐ろしくなかった。
白髪の男が暖炉に薪をくべ、乾いた木の弾ける音がした。
そのとき。
小さな女の子が俺に近づいてきて、怖ず怖ずと、だが桃色の頬に笑みを刻んで言ったものだ。
「こんにちは、オオカミさん」
少女は俺の鼻先に、ゆっくりと華奢な指先を差し出して名乗った。
「あたし、カタリナ」
年齢も、髪や目の色も、俺のカタリナとはまるで違ったけれど。
それでも。
「この世の中は、みんな壊れちゃったけど、ここは安全よ。ゆっくり休んで、はやくよくなってね」
ふたりのカタリナは、本当によく似ていた。
「あたしがあなたを守ってあげるから」
ああ。俺も、君を守るよ。
もうひとりのカタリナとは守れなかった約束を、俺はこの瓦礫の山で果たす。
この世にただ一人きりの君と、君たちのために。
小さなカタリナが俺の傍らに座って、端の焦げた絵本をひろげた。
「おはなしを読んであげるね」
いいよ。聞かせてくれ。
「むかしむかし、赤ずきんちゃんという女の子がいました……」
(おしまい)
赤ずきんちゃんとオオカミさん 猫屋梵天堂本舗 @betty05
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