お家ルール

東雲 彼方

ルームシェア

「おいコラ末莉ィ!!」

 築25年のボロアパートの一室にドスの効いた女性の声が響き渡る。あまりにも声が大きかったからか、隣の家から壁を叩かれる。

「なぁに、梨花? ……煩いなぁ、頭割れそうだよー」

 ふわぁ、と欠伸をしながら寝室からスウェット姿の女が現れる。その姿を見て先程叫んでいた梨花は余計に期限の悪そうな顔を前面に出す。

「あのさぁ、アンタ何度言ったら分かんの? トイレの後は必ず流してって言ってんじゃん。ルームシェアするってなった時に決めたよね、最低限守っていこうねっていうルールをさ」

「えー……そんな18年間もだと思ってきたことを今更直せってったって難しいよー」

 ボサボサ頭をポリポリと掻きながら末莉は梨花に向かって適当に返事をする。それを見て余計に梨花の眉間に皺が寄っているとも知らずに。

「汚いんだよ! なんで流さないんだよ……お前ほんと頭おかしい」

「節水ー。何回かしてからまとめて流した方が水道代浮くでしょー?」

「それ家族なら許せるかもしれないけど私とアンタは赤の他人! マジで無理なんだけど……」

「えー幼馴染じゃん、そんくらい許してよー!」

 それぞれの家庭独自のルールってあると思う。例えば朝起きてからすぐに歯を磨く家と、ご飯を食べてから歯を磨くっていう家。洗い物はまとめて一日の最後って家もあれば毎食後に洗うって家もある。そういう家庭独自のルールはいくら自分が当たり前だと思っていても、案外普通じゃないってなんかに気付くことがある。

 彼女たちにとってその一つがトイレで用を足した後の話。梨花の家では毎回流してから出るのが普通だった。むしろ流し忘れていたとしたらたとえ家族のものであっても不快感でいっぱいになるからだという。一方で末莉の家は人数が多いこともあってか、節水の一貫として何回か用を足してから流すというのが当たり前だった。少しでも使う水の量を減らそうというものである。

 だがしかしここまで違う暮らしをしていた二人がルームシェアなどしたら喧嘩になるのが目に見えている。だから、と住み始めた頃に決めたのが「おうちルール」というものであった。然し二十年近くもやってきた癖というのは中々抜けない。折角決めたルールも水の泡というわけだ。

「だからお前とは一緒には住みたくなかったんだよ……」

「え?」

 俯きながら床に向かって小さく吐き捨てた梨花の言葉を末莉は逃さなかった。流石幼馴染というべきか、それとも幼馴染なんていなければ彼女は救われたのかもしれないというべきかは分からないけれど。

「おばさんに言われたから仕方なく一緒に住んでるけどさ、お前とは考え方も生き方も方向性も趣味も全部真逆じゃんか! いい迷惑なんだよ」

 荒れ狂った暴言を投げ捨ててから何かに気付いてハッとしたような顔になる。そしてその後直ぐに苦虫を噛み潰した様な顔へと早変わり。言わなければ良かった、という後悔が滲み出ているのが分かるようだった。

「そんな言わなくたっていいじゃん……」

 一方的に投げつけられた針の如き言葉の数々に目に涙を浮かべる末莉。二人の間には形容し難い不愉快な沈黙が流れた。

「ごめん、頭冷やしてくる」

「私も」

 そして離れていく二人。片方は家の外に、もう片方は寝室に。向かったところは違えど二人が抱く感情は似たものであった。


 街路樹の下、細い白い管を咥えたまま歩く女の姿があった。荒れた金髪、左右の耳に合計7個もつけられたピアス……着ているのがリクルートスーツでなければヤンキーと間違えられていたであろう彼女は、行く当てもなく彷徨う。ブラウスの上に羽織ったジャケットの胸ポケットからライターを出し火を点けようとして――やめた。目の前を通るランドセルの少年たちを見て、一瞬止まってからまたライターを元の場所へと戻す。

 一体いつからこんな風になってしまったのだろうか。私たちがあれくらいだった頃にはここまで喧嘩することもなかった、と少年たちの後ろ姿を見ながら思考を遊ばせる梨花。ふと立ち止まったのは公園の前。視界に入ったベンチに座って空を眺める。

 相も変わらず煙草は火も点けずに咥えたまま。彼女はしばらくそのまま動けないでいた。いつまでこんな生活を続けるのだろうか。末莉は浪人して大学に入ったからまだ余裕がある。だが梨花にその余裕は無い。成人を迎えればもっと落ち着くと思っていた色んなモノは結局変わらないまま。淡々と流れていく時間も梨花を焦らすには十分だった。焦りが怒りとなって末莉に当たってしまうこと、それがよくないことであるというのは梨花自身も分かっていることではあった。だが変えられない。自分の無力さ加減に嫌気が差す。

「小さい子も遊ぶ公園なのにあの人煙草吸ってるわよ」

「あっち行きましょ」

 ヒソヒソ声で通り過ぎていく母親たちを横目に梨花は溜息を吐く。そういえばここ公園だった、と咥えていた煙草の先を拭ってからジャケットのポケットの中に突っ込んだ。彼女の目はどんどん曇ってゆく。

 小さい子供のいるところで煙草を吸ってはならない。暗黙の了解とはいえ、これもルール。公的なルールも一家それぞれのルールも形は違えど規定であることに変わりはない。だが何故こんなにも複雑な気持ちなのだろうか。そう考える彼女の目に光は無い。ふう、と一つ溜息を吐いた。結局は自分の都合の良いように解釈したいだけなんだな、と結論付けて梨花は帰路につく。


「ただいま」

「おかえり、あの――」

「ごめん」

 末莉が言うよりも前に梨花が言ったのは謝罪の言葉。今までどんなに酷いことを言っても彼女から謝ることはなかったというのに、どういう風の吹き回しだろうかと末莉は思案する。

「いやそのなんつーか……最近イライラしてて末莉に当たってたから……そこまで怒ることでもなかったと思って」

 珍しく縮こまる幼馴染の姿を見て目を見開く末莉。そして一瞬何か考えてから、

「こっちこそごめんね。前から梨花が嫌だって言ってたのに。気をつけるよ」

 と。こう返答するのが今の彼女の精一杯であった。

「あ、そうそう。クッキー&クリームと抹茶ならどっちがいい?」

 ふと何かを思い出したように梨花が問う。

「え、あ、うん? ……ハッ、もしかして、アイス?」

「お詫びにいつもよりいいやつ。ホラさっさと決めないとどっちも私のもんだぞー」

 うんうんと唸る末莉を見てクスクスを笑う。二人の間にさっきのような不快感はもう流れていなかった。

「クッキー&クリームで!」

「了解! って溶けてんじゃん。こりゃしばらく冷凍庫入れとかないと駄目だな、しばらくおあずけだ」

「なんてこと――?!」

 笑顔の溢れる家はあたたかかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お家ルール 東雲 彼方 @Kanata-S317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ