青陽の香
宮守 遥綺
春山にて
淡い風が、まだ色の薄い木々の葉を揺らす。
凍えた冬をまだ僅かに孕んだまま飛び回るそれは、小さな笑い声を伴って、私たちの間をすり抜けて行った。
立ち止まり、すぅ、と一つ息を吸う。
濡れた土の豊潤な匂いと、そこに混ざる甘やかな生命の匂い。
目を閉じてゆっくりと、何処か懐かしさを感じるそれを堪能していると、さくりさくりと土を踏む音に混ざって、遠くから小さく春告鳥の鳴く声が聞こえた。
「
ついて来ない私を不審に思ったのだろう。先を行っていた
黒いキャスケットの下から覗く双眸には、いつも施している魔除けの朱は無く、それが、彼女の常は鋭い眼光をいくらか和らげている気がした。
「何かあった?」
「……
「生命の匂い?」
すぅ、とゆっくりと息を吸い、しかし彼女はすぐに、ことり、と首を傾げた。
「……わからない」
それに思わず笑みを溢すと、「不本意だ」というように薄い唇を僅かに尖らせる。
紅を引かれた、艶やかにも見える唇が作り出す子どもっぽい表情に、自然、笑みが深くなる。
暁は面白くなさそうな顔のままで、もう一度息を大きく吸い込んだ。
しかし、やはりわからないのだろう。眉間にきゅっと皺が寄る。
「……やっぱり、わからない」
「けど、」と彼女が続ける。
「地獄とは勿論違うけれど、浄土とも違う気がする。何が、とは上手く言えないけれど……。多分、空気? の、匂いみたいなものが。それに何だか……懐かしい気も、する」
細く白い指が、意味もなくキャスケットの鍔を僅かに下げる。慣れない帽子が、気になるのだろう。
「此処は現世との境界があるくらい山奥だし、生者は滅多に来ないから。帽子、脱いでも大丈夫だと思うけれど」
私の提案に、暁は緩く首を振った。
「不測の事態があるかもしれない。昔から、山奥に
大門とは、正式名を『三界の門』という。
その名の通りこの門は、浄土、現世、地獄という三つの世界を結んでおり、各界を往来する際には必ず通らなければならない。謂わばこの門は、各界の出入り口の役割を担っているのだ。
『あの世』と呼ばれる浄土、地獄においては、この門の存在は皆が知るところであり、各界の庁によって発行される手形を持っていれば、亡者以外の者は自由に往来することが許されている。現世で言う所のパスポートだ。
しかし、現世から『あの世』に、というのは少々事情が違ってくる。
そもそもこの現世という世界は、六道の一つ、『人間道』のこと。
よって現世とは、他の六道全てを指す冥界や、神や仏の住まう浄土とは違い、それ自体が輪廻の環の中にある、魂の転生先としての世界なのだ。
その魂が肉体という器を得て、生命という知覚できない何か生温かいものと結びつく。
そうして魂はこの現世に転生し、再び解脱……つまり天国や浄土、と呼ばれる世界に行くことを最終目標として巡るのだ。
此処は純粋な、『輪廻の環の中にある魂』の世界であり、故に善と悪の両方が蔓延る世界。
そこに、『輪廻の環の外にある魂』の世界が介入すると、生と死の境界が限りなく薄く、曖昧になってしまう。
そんなことになってしまえば、忽ちのうちに生命というものは意味を失くし、時間の有限性は失われる。
善と悪、全てが混ざり合っては溶け合い、秩序も何もかもが失われる。
その先にあるのは、混沌だ。
全てのものが、意味を持たない世界。
だからこそ、現世でこの門の存在は山奥に秘匿され、なるべく生きている人間の目には触れないようになっている。
それでも、山中に迷い込んだ者が、偶然に門を潜ってしまったりもするのだが。
「此処も現世である以上、生者が絶対に入り込んでいないとは言えない。生者と遭遇する可能性のある場所で、こんな物を出したまま、歩けないでしょう?」
被った帽子の、鍔の少し上。そこに手を当てて、暁が言った。
その手の下にあるのは、美しくも怪しい、一本の角。
彼女の肌と同じように真っ白く、彼女の眼光と同じように鋭いそれは、鬼の中でも特に力のある者……
その角は現世においては病魔等の良くないものを意味するらしい。
一方あの世では、あの世の住人であること、つまりは生者ではない者を意味している。
そして生者ではない者が、そのままの姿で生者に干渉することを、あの世では固く禁じている。
だからこそ、暁は端的に生者ではないことを表してしまうその角を隠し、ただの人間に見えるよう偽装しなければならないのだった。
しかしこれまでの説明で分かるように、偽装しなくてはならないのは、あくまで『現世の人間』の前でだけであって、それ以外の場所で角を晒してはならない、という事はない。それでも頑なに彼女が帽子を取らないのは、「地獄という組織は道を外した亡者を裁く場所であり、その地獄で働く者が、偶然にでもその秩序を乱すことは絶対に許されない」ということなのだろう。頭が下がるほどの堅物である。
「で、今日私を現世に誘ったのはどうしてか、いい加減に教えてくれてもいいんじゃない? 貴女、仕事だったんでしょう? それがわざわざ、法を侵した神を一旦浄土まで連行した後に、地獄まで私を迎えに来たのは何故? 空っぽの社を、封もせずに放置して……常日頃から効率化、合理化を追い求めている貴女には、些か不自然なやり方だと思うのだけれど」
解け残った雪と水が混ざり合い、ぐずぐずと音を立てる地面を踏みしめながら、先を行っていた暁が振り向きざまに言った。
その目の訝るような光のさらに奥には、真意が見えないことへの戸惑いが見て取れる。
それに一つ笑みを返して彼女の横を過ぎ、上空を確認しながら口を開く。
「ついでに、一緒に散歩したかっただけ。他意はない。社は放置したんじゃなくて、今、探して貰っているの。あの神様を捕らえたのは、もっと人里近い所でね。潜伏していた祠は、彼の本来の拠り所ではなかった。恐らく、元々その祠を拠り所にしていた神や妖怪を喰らったか、あるいは、元の主はもう既に消滅していて、空き家になっていた場所に入り込んだか。どちらかでしょうね」
「で、元の社をこの山の住人に探して貰っている間に、貴女は一旦浄土に戻って、神を引き渡した。そして地獄まで来た、と」
その時、私たちの目の前に、一羽の雀が降り立った。件の社が、見つかったらしい。
雀は一度小さく首を傾げると、再びパサリ、と羽を広げて飛び立つ。
そうして私たちが付いてきているかを確認するように、時々素っ裸の木の枝に止まりながら、鋭さと柔らかさの両方を孕んだ光の中を、ゆっくりと飛んだ。
道中は無言だった。
倒木を避け、時折濡れた土に足を取られながらも、只管に雀の後を追う。
ガサリガサリ、と僅かに残った草を避ける音に、着慣れないジャンパーのシャリシャリという音が二つ重なるのを聞きながら、現世の街の方に向かってただただ歩いた。
どれくらい歩いただろうか。
突然、樹木が途切れた。
視線を滑らせると、この区域だけぽっかりと穴が開けられたように、樹木が途切れていた。
その中心部に、雨風に晒され、今にも崩れそうな小さな社が見える。
白かったはずの鳥居は倒れ、塗装は剥げて、内側が虫に喰い尽くされている。社本体も朽ち果て、夏になれば足元を覆う草に呑まれてしまいそうだ。腐食し、黒くなった社の木の壁は、不釣り合いな真新しい色で、多くの落書きが施されていた。
辺り全体の温度が下がり、空気が冬のそれのように鋭くなるのを感じる。
「……罰当たりな」
暁が後ろで、低く呟いた。
「今の人たちは、神様なんて信じていないからね。朽ちた神社なんて、肝試しのための廃墟と同じ扱いなの」
背負っていた小さな鞄から、数枚の札を取り出し、それを社の入り口であろう部分と、鳥居に貼りつける。
鞄を背負い直し、社に向かう私を暁が呼び止める。
「……入るの?」
「念には念を、ね。また何かが入り込んで、肝試しに来た人間を喰った、なんてことになったら大変だし」
「気を付けて」
今にも崩れそうな階段を上り、外れかけた観音開きの扉を潜る。目の前に置かれた質素な祭壇の上には、缶や瓶、ビニール袋などのゴミが散乱していた。それを手で退けて、鞄から取り出した白い杯を置き、清酒を注ぐ。最後に、御神体と言われていたであろう物体に、札を貼る。
「……お勤め、ご苦労様でした」
一度ゆっくりと頭を下げ、最早誰もいないそこに敬意を表す。何もいなくとも、思念と記憶は、此処に残っているからだ。
長く、蛇神の拠り所となった社。
人々に忘れ去られ、信仰を得ることもできなくなり、存在自体が危うくなりながらも、この地に恵みを与え続けた、一柱の神。
信仰が得られず、神の気が弱って行くと同時に、悪いものや人々の欲がこの社にも入り込んだ。
そして遂にそれに飲み込まれた蛇神は、邪神へと堕ちてしまったのだ。
「ゆっくりと、お休みください」
立てた右の人差し指と中指を、唇へと寄せる。
「
唱えると、溶けるように札が消える。
同時に渦巻いていた冷たく、鋭い空気が消えるのが分かった。
ふわり、と柔らかい風が一つ、社に入り込んで笑う。
その風が、まだ蕾が固いはずの桜の匂いを乗せていたのは、気のせいだったのだろうか。
社の外に出て、一度大きく息を吸ってみる。
鼻腔に流れ込んでくるのは、豊潤な土の匂いと、清純な水の匂い、芽吹き始めた草の柔らかい匂い……生命の、匂いだ。
遠い昔に嗅いだ匂いを思い出すのだろうか。やはりその匂いには、何処か懐かしさを覚える。
「……終わったみたいだね」
「うん。終わった」
暁の方へ歩いて行くと、彼女はじっと、固い蕾を付けた木を見上げていた。
そして目を瞑り、すぅ、と大きく息を吸う。
空気を味わうように一度息を止め、細く吐き出す。
閉じていた目を開いて、彼女が言葉を紡ぐ。
「現世に来ることなんて滅多にないし、来る時にも夏が多かったから……春がこんなに寒いなんて、忘れていた。此処にいたのなんて、もう、何千年も前のこと……忘れても仕方ない。だけど、どうしてかこの匂いは、懐かしい」
「匂いの記憶って、残るからね」
「……土と、水の匂い」
「うん。生命が、生まれる匂い」
暁が、此方を向いたのが分かった。
見つめ返すと、不思議そうな目をした彼女が、ゆるりと首を傾げる。
「……生命が、生まれる……?」
「そう。目覚める、と言ってもいいのかもしれないけれど」
「目覚める……」
もう一度、彼女が周囲の木に目を遣った。じっと、小さな蕾を見つめている。
「地獄や浄土には、季節だけじゃなく、生命も無い。死ぬことが無いのだから。だけど、此処は違う」
「成程ね。だから、浄土とも地獄とも違う匂いがするのか」
しみじみと呟く彼女に頷いて、私も同じように周囲の木々を見つめた。
「生命は、春に生まれて、夏に育つ。秋に老いて、冬に死ぬ。例外は勿論あるけれど、大方の在り方はそうなっていて、それは昔から変わらない。それこそ、私たちが現世にいた時からね」
暁は、何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
人里が思ったよりも近かったのだろう。空気だけがさらさらと流れる空間に、人の声が聞こえて来る。彼らは「また会おうね」だったり、「連絡してね」だったりと、別れを惜しむような、そんな言葉を紡いでいた。
春は、新たな生命との出会いの季節だ。
しかし現世では同時に、別れの季節でもあるらしい。それを知ったのは、つい百年ほど前のことであるが。
そこでふと、蛇神が此処から頑なに離れなかった理由が分かった気がした。
彼は、愛していたのだ。
この山で芽吹き、育つ生命のみならず、すぐ傍の街で暮らす人間たちをも。
信仰が得られず、忘れ去られても。
それでも彼は、愛し、慈しんだ。
全ての、生命を。
「……気持ちが悪いくらいの博愛主義者だったってことか」
私の呟きに、暁が喉奥で笑いながら「そうだね」と言った。私の思考を、正確に読み取ったのだろう。彼女と私は、顔だけでなく性格も、思考もそっくりだから。
「さて、そろそろ帰ろうか」
言いながら、どちらからともなく歩き出す。
雀は、いつの間にかいなくなっていた。
深い眠りに就いた社だけが、私たちの背中を静かに見送っている。
「それじゃあ、また」
「うん。また」
現世側から大門に入り、中心部で別れを告げる。
私は、浄土へ。
暁は、地獄へ。
門番である牛頭と馬頭に礼を言って、それぞれに歩き出した時だった。
「白露」
暁が私を呼び留める声が、大門の中に響いた。
振り向くと、帽子を脱いだ暁が此方を見ている。
額の一本角が、大門の中を照らす焔に舐められて、淡く光っているように見えた。
「今日は、有難う」
それだけ言って、さっさと暁は踵を返した。
長い黒髪が、さらさらと背で遊ぶ。
その後ろ姿を見送って、私も浄土に向かって歩き出す。
いつもと違う靴は存外歩きやすく、しかしからりころりという音がしない分、何だか物足りなかった。
「……桜の咲く頃に、また誘おうか」
浄土は常春の地であり、年がら年中桜が咲いている場所があるけれど、それでは味気ない。現世の、一時咲いて、すぐに散ってしまうそれにこそ、愛おしさを感じる。
「お酒もご飯も、たくさん用意しないと」
何分、片方は大喰らい、片方は大酒飲みなのだ。並みの量では到底足りない。
向かう道の先から、甘い桃と花の香りが、温かく柔らかい風に運ばれてくる。
浄土の風はいつだって優しく、良い香りがする。
「まぁ、極楽だしね」
しかし、やはりそこには生命の匂いは無いのだ。
此処は、生命を持つ者が住まう場所ではない。
ふと、地獄の方を振り返ってみる。
暁の後ろ姿は闇に紛れ、もう、見えなかった。
「……ねぇ、暁」
小さく、呟いてみる。
「もしも貴女が忘れていても、私は覚えているよ。私たちは、確かに嬉しかった。春が訪れるこの頃が、大好きだった。やっと冬から解放されるんだって、我慢の季節が終わるんだって。この生命の匂いに、私たちは確かに、喜んだんだよ」
どこか遠くで、幼い子どもが「きゃあ」と無邪気に笑う声が、聞こえた気がした。
青陽の香 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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