第3話「王女の望み」
「怪我をしたわ」
「.....」
王女を背負ったゼジルは気まずげに口を噤んだ。
「とても怖かったし、ぽろぽろ涙も出た。あなたは、最初に約束を守ると言ったきり、ひとつも守ってくれないのね」
「.....」
謝ろうと思っても、酒瓶で殴られた記憶が蘇ってどうにも素直になれない。
結局ゼジルは何も言えないまま、その日泊まる宿にサラを連れて行った。
何の趣向もないつまらない部屋に、質素なベッドと燭台の置かれたテーブルが一つ。サラは音もなく床に足をつき、猫のようにさっとベッドに潜った。
「食事は」
「いらないわ」
部屋の明かりはなく、窓から差し込む月明かりのみがぼんやりと静かな空間を照らした。
(やはり少し、可哀想なことをした)
もっと早く探しに出るべきだったとようやく素直に反省したゼジルが扉を開けると「待って!」とベッドから体を起こしたサラが口走った。
「どこにいくの」
「.....どこへも。部屋の外で見張りをします」
「うそよ。お酒を飲みにいくんでしょ」
「行くわけないでしょ」
「だってさっき、あなたからお酒の匂いがしたわ」
(ぐ、参ったな)
ゼジルは頭をかいて一度部屋の扉を閉めた。
それからサラのベッドに近付き、少女の顔を見下ろす。空色の瞳に微かに怯えの影が映った。
「俺が同じ部屋にいたら、あんた落ち着いて眠れないだろ」
「.....」
「疑わなくても、今日はずっとこの部屋を守りますから」
それでも不安そうな顔をするサラにゼジルはため息をつき、自らのターバンをほどき始めた。
月明かりに黒々としたゼジルの髪や、鋭い瞳が照らされる。
ゼジルは解いたターバンの端をサラの右手に握らせた。
「俺は反対側を握って扉の外にいますから、なんかあったら引いてください」
「.....」
「.....明日からの旅は今日よりずっと過酷になる。あんたには生きて隣の国まで行ってもらわなきゃならない。
だから、今日はちゃんと、眠ってくれ」
ゼジルが言い聞かせるように言うと、サラは小さく頷いた。
それを確認して部屋を出る。
ゼジルはその日、約束通りどこへも出かけず部屋の扉に背を預けて眠った。
時折、ぴん、と張るターバンの布切れに応えながら、彼らの夜は静かに更けていった。
***
翌朝、目を覚ましたゼジルは部屋の中に気配がないことに驚いて飛び起きた。
ノックもなしに扉を開けるとやはりベッドはもぬけの殻。窓が空いている。
「くそ、あのアホ王女!」
窓から身を乗り出したゼジル。眼下には賑やかな街並みが広がっている。
ゼジルが舌打ちをして身を翻しかけた時だった。
「アホ王女だなんてひどいわ」
真上からぽとんと声が落ちてくる。
上を向き、勢いよく後頭部を窓枠にぶつけたゼジルは低く唸った。
「.....お転婆も大概にしてくれ、王女」
小窓の屋根の上から顔を覗かせたサラがくすくす笑う。
銀色の美しい髪が、朝日に反射してきらきらと光った。
「あなたもあんなに焦ることがあるのね。下でクマが暴れてるのかと思った」
「あんたが突然消えるからだろうが」
「だって、扉から出たらあなたを起こしちゃうでしょ」
ゼジルが思いがけない言葉に口を閉ざすと、サラはさっさと屋根の上に顔を引っ込めた。
「早く、こっちに来て」
言われるがまま、ゼジルはしぶしぶ窓枠に足をかけた。
オレンジ色の屋根の上で、王女は彼を待っていた。
「何してるんです。こんなとこで」
「人を見てるの」
「人?」
「街の人よ」
サラがぽんぽんと自分の隣を叩くので、ゼジルもそこに座って彼女の視線を追った。そこには通りを歩く人々や、いくつもの窓、その街に暮らす人々の姿があった。
「彼らを見て。ゼジル」
ゼジルは初めて彼女に名前を呼ばれたと思った。
「彼らは生きているのよ」
何を当たり前のことを、とは言えなかった。
少女の瞳があまりに真剣に外の世界を見つめていたためだ。
「街の景色じゃないの。一人一人に誰も知らない秘密や物語がある。
彼らの多くは、きっとその物語や秘密を語らないわ.......。
語らないまま人生を終える。
だって、彼らにとって、それはさほど重要なことではないから」
「王女……?」
「ゼジル」
サラは言った。目に涙の粒を溜めて。
「私も欲しいわ。
誰のためにもならない、誰のためでもない。
私が、私のために残すもの」
縋るように頼まれて、ゼジルはすっかり天を仰いだ。参った。心底参った――それでも、
「俺に出来ることなら」
少女の肩を引き寄せながら、彼の鼻はまた微かな宝石の香りを嗅ぎ取るのだった。
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