イジス

 平安の時代の話だ。その天皇は嫡子に皇位をゆずり、みずから上皇に退いた。

 天皇には腹違いの弟がいて、その男は執念深く皇位を狙っていた。

 牛の角突きを御覧のさい、いきなり暴れ牛が柵を跳び越えて来たり、御国祭祀の酒に毒が入っていたりと、弟の執着心には並々ならぬものがあり、皇位に居続ければ、遠からず命を取られてしまいかねなかった。


 退位はしても、御所から去ったというわけではなかった。新しく据えた天皇はまだ四歳の幼帝である。上皇は後見人として政務を取り仕切り、実権をにぎりつづけた。

 皇位継承権から外された弟は、それでも諦めるそぶりをみせない。上皇にとって相変わらず危険な存在だった。


 上皇が住まいとした鴨川べりの屋敷に、佐多という若者が下男として働いていた。そして同じ屋敷には琴音という十二歳の少女が側女の一人として上がっていた。かれらはときに顔を合わせ、そして互いの胸をときめかせていた。

 一度見て忘れられなくなったのである。そのふしぎな感情がどこからくるものなのか。しかし、それをたしかめることはできなかった。身分違いの二人は、ただ、琴音が侍女と共に本殿へ通う途中の渡り廊下の上と下で、わずかに目礼を交わすことしかできなかったのだ。

 それでも、琴音は冴え冴えと明るい月の夜には佐多の面影をしのんで涙を浮かべ、佐多は番屋の藁屋根の下で、笹の葉を渡る風のささやきに琴音の裾引く音をおもいだして胸をいためていた。

 琴音はまだ上皇の目通りも済ませていない子供だったし、佐多は佐多で悲運なみなしごであったから、かれらのそのふしぎな感情が恋だと知らずにいた。


 ある日、牛車で御所へ向かいかけていた上皇は、琴音と佐多の姿を庭に見た。東殿の階を一段降りて立つ琴音と、その大分はなれた先で塩俵を運んでいる若者である。上皇は桃のかくれ枝小さい花のような可憐な顔が向いている相手の佐多を、ひそかに観察した。日に焼けた逞しいからだつきの、眉の素直にのびた若者である。

 ほお、よい男じゃ。上皇はおっとりとした様子で感心したが、とくにそれ以上の感情は見せずに、そのまま牛車を進めて行った。


 公卿の一人が亡くなった。雇い入れた下人から疫病をうつされたらしい。苦しみもがきながら絶命したときいた。

 上皇は屋敷に戻ると、佐多を処分するよう即座に命令した。佐多は疫病で滅んだ村から拾われてきた男だったのである。

 夜露の光る鴨川の河原で佐多は武官の剣に心臓を貫かれた。

 病をおそれた上皇は黄色い獣脂の蝋燭の灯った奥の間で、三日ほど物忌みをした。


 琴音は湿った藁のにおいのする暗いなかに臥していた。佐多が殺害されてから口を利かず、物も食べなくなったのだ。屋敷の裏手にある雨漏りのするあばら家だった。やせ細り衰弱した琴音は、人形のようにここへ棄て置かれた。


 都に龍が現れるようになった。広沢池に立ったり、金剛王寺の濁った空に長い影を曳いて鳴いた。そして姿を見せるたび井戸は濁り、山は枯れた。都人たちは息をひそめておそれた。不吉な毒龍にちがいないと噂し合いながら。


 そのころ、上皇は不興だった。弟の暗殺に失敗したのだ。東山山稜で鷹狩をしているところを襲わせたのだが、討ち損じた。何かの悪運が邪魔したのである。そうでなければ天子の意向がさえぎられるはずがない。天道に不和を生じさせるなにかがあるのだ。上皇はそれが近頃現れるという龍に原因しているのに違いないと考えた。

 朝廷を護る幾多の仏寺で、幾日にわたり夜通し護摩が焚かれた。祈祷によって毒龍を調伏しようというのである。上皇は側女のひとりを人身御供に送った。どの女が連れて行かれるのか、屋敷の奥向きは騒然としたが、戸板ではこばれて行く琴音をみても、女たちも上皇もその名前すら忘れてしまっていた。


 夜明け方近く、弓矢で武装した一団が地を這うさそりの群れのように、上皇の屋敷に近づいていた。東山の狩場で九死に一生を得た弟は、母方氏族の館に籠り、包帯を巻いた顔に目だけをギラギラと血走らせていた。

 矢が雨のように屋敷に降り注ぎ、簷を破って襲ってくる兵士に上皇は呆然とした。弟の復讐である。情け容赦なく火が掛けられ、暴力と盛んな火炎に屋敷は消滅していった。


 龍は護摩を焚く護持僧たちの前へ、長い鼻に鞭のような髭を躍らせた姿を一度だけ現した。結界をした庭の祭壇には、杭に縛り付けられた琴音が今にも消えそうなほそい息をしていた。龍が激しく身じろぐと天地が動揺し、伽藍も塔もひとたまりもなく轟音と真黒な埃を上げて崩れ去った。


 龍は琴音を連れて天へ昇った。

 都のよごれた空の上から、

「佐多」

「琴音」

 うれしげに呼び合う声がきこえ、やがて地上に朝日が差し込んできた。


ー終わりー

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