「漢」のルール

石上あさ

第1話



 人には誰でも「自分ルール」というものがある。

 それは過去の失敗や後悔から得た教訓であったり、最低限人として守るべきマナーや礼儀を自らに定めた規範であったりする。

 なんにせよ。一人の人間として筋を通し、そして自分らしく生きるためにはなくてはならないのがこの「自分ルール」である。

 言うまでもなく、おれにもおれの「ルール」がある。

 それは――「人に見られていないところで正しいことをする」というものだ。

 どうしておれがこのような信条を人知れず胸の内に掲げるようになったかについては、長くなってしまうのでここでは省く。が、かつておれを助けてくれた「ある漢」の後ろ姿がそのまま生き様としておれの心に焼き付いたとだけは言っておこう。

 

 ともかく。

 そういうわけで、おれは日夜人知れず正しいことを行うようになった。

 今日の登校中も例外ではない。

「だ、誰か助けてえ!」

「――――!」

 助けを求める悲鳴が聞こえた。

 河原にゴミが落ちているのを見過ごせずにゴミ拾いをしていたときのことだった。声のほうを見やると、小学校低学年くらいの男の子が川に流されてもがいているところだった。「おれが今ゆく!待っていろ!」

 正しく生きようとする「漢」たるものこれを見過ごすわけにはいかない。

 すぐさま、自腹で購入した自治体指定のゴミ袋から拾ったばかりのペットボトルを取り出し、水を少しだけいれる。そうして近くのロープにくくりつけてからペットボトルを男の子の方へ投げる。

「さあ!つかまるのだ!」

 男の子がきちんと掴んだのを確認してから、慎重にロープをたぐりよせる。

 が、だんだん男の子が近づいてくるうちに、おれはある重大なことに気づいた。


「あ、ありが、とう……?」

「かまわん。うむ、無事でなによりだ」

 助けられた男の子は、コンビニの袋を頭に被った不審な男子学生を前に戸惑いを隠せない様子。無理もない。おれだってこんな風体の変質者を見れば、迷わずに通報する。

 だが、仕方がないのだ。「人に見られていないところで正しいことをする」――それがおれにとっての「ルール」なのだから。

 だがまあ、命の別状はなさそうだ。うんうん、なにより。おれは男の子にスマホを貸してやり、一応ご両親を電話で呼んだのち、河川敷の清掃をすませてから登校を再開した。


 さて無事に学校へ着いたのだが、言うまでもなく大遅刻である。

 ただ、遅刻も遅刻で悪くはない。ほとんどの生徒は教室で授業を受けているため、人知れず校内清掃ができるのである。

 おれは今まさに授業が行われている教室の廊下で、さながら潜入任務中の工作員のように匍匐前進をしながら、床の汚れをキレイに落としていく。

 それが終われば、次はトイレ掃除。

 トイレットペーパーが切れた個室に紙を補給したのち、徹底的に床も便器も磨き上げて、最後にはきちんとスリッパを並べ――ようとしたとき。

「あーあぁ、ホント授業かったりぃよなぁ」

「ほんとそれなぁ」

 だらしなく制服を着崩したいかにも不真面目な生徒がトイレに入ってきた。

(――しまった!)

 今おれはまさにトイレのスリッパを並べるという「正しい」ことをしている――!こんな姿をいかなる人物にも目撃させるわけにはいかない――っ!

 おれはすばやくトイレ入り口スペースの角に向かって跳躍すると、そのまま両手両足を壁に突っ張って身体を空中に固定した。その動き、さながら甲賀随一の草の者。

 そうだ。いうなればおれは忍者に近しいことをしているのかもしれない。

 一目をはばからず派手に暴れる「ニンジャ」を「忍」とは呼ばないのと同じように、隠されない「陰徳」もまた「徳」ではないのだ。

 よってかくのごとく、おれは闇に紛れ影に生き、人知れずスリッパを並べるのである。

「…………む、ようやく去ったか」

 さくほどの不良生徒たちがわざとのように乱していったスリッパをもう一度並べ直し、おれは男子トイレを後にした。

「まったくけしからん輩だ。そもそもとっくに遅刻している時間ではないか……」

 

 そうして昼休みになってからも、もちろんおれは廊下でゴミを拾っている。

 だが、ある紙くずを拾おうと手を伸ばしたとき――

「あ――」

「む――」

 同じように、その紙くずを拾おうとする女子生徒と手が触れてしまった。

「――あ、いや、すまない。ゴミかと思って捨てようとしてしまった。貴女のものであったか」

 その女子生徒とは、我が校の生徒会長にして、文武両道、才色兼備で広く名のしれた人物だった。その人柄の高潔さから生徒、教師とわず幅広い支持を集めるだけではなく、街の人たちからも一目置かれ、親しまれている存在である。

 彼女のなすこと、それは「陰徳」ではないけれども、「功徳」であることは誰にも疑いようがないだろう。

「ううん、私のでもないよ。私も、これ捨てようと思ってたの」

「そ、そうか――ならば、そうするといい」

 そう言いながら、おれの内心は荒れ狂う波のようであった。

(しまった――!)

 あろうことかゴミを拾おうとする姿を目撃されてしまった。いや、だがセーフだ。まだゴミを拾って捨てたわけではない。あくまで「拾おうと」しただけなのだ。ゴミ拾いは拾うだけでは善行とはいえない。きちんと所定の然るべきゴミ箱へシュートして初めて善行として成立する。

 セーフ、セーフ、と言い聞かせながら、それでもバツが悪いので、必死に顔を背けながら立ち去ろうとすると――

「どうしたの?}

 おれの狼狽ぶりに会長は疑念を抱いたらしい。

「いやいや、別になんでもないぞ。急ぎの用があるだけだ。それでは、達者でな――」

 ままよ!おれはやぶれかぶれになって両手で顔を覆い隠しながら逃げるようにその場を後にした。

「…………」

 そのおれの背中へ、会長の視線が痛いほど突き刺さっていた。


 そして、翌日。

 この日は全校朝会があったのだが、例にもれずおれは遅刻である。

 だが後悔はない。荷物を運んであげたときの、あのおばあさんの笑顔。うむ、正しいことをするというのは大変気分が良いものである。

 しかし、爽やかな気分で朝会に参加しようと体育館へ入ったととき――。

 思わぬ危機がおれを襲った。

 それは、校長先生の話であった。

「え~実はですね~、最近校内外ですすんで『善いこと』をしている生徒がいるというですね~、近隣の方からの感謝の言葉がですね~」

 なんということか!

 あまりにも広範囲にわたって活動を行い、しかも所属する学校名を隠していなかったために、とうとう校長の耳にまで入ってしまったのだ。

「届いておりましてね~、ぜひともですね~わたくしたち学校といたしましてもですね~、生徒の模範としてですね~、表彰をしたいということでですね~、こちらに賞状を準備しておるのですよ~」

 なんと、しかも表彰状も準備しているという念の入りよう。たとえおれの活動がしれたとて、それが匿名であれば問題はないのだが、あんなものまで準備してあるということは、おれの名前まで特定されてしまっているということなのだろう。

 と、なれば。おれの取るべき道はたったひとつ――

(……校長を、始末する)

 不本意ではあるが、致し方ない。「人に見られていないところで正しいことをする」――それこそがおれが長年貫いてきた揺るぎない信念であり、絶対普遍の「ルール」でもあるのだ。

 実際、おれは必ず顔を隠したり、それができなかった場合にはわざわざ賄賂(五百円とか千円)を握らせてまで絶対におれが行ったことが誰にも漏れないように口封じをしてきたのだ。そうまでしておれが築き上げてきた「漢道」を、この校長は脅かそうとしているのである。

 そんな脅威――どうあっても見過ごすわけにはいくまい。

「それでですね~その生徒というのは、もう長いこと様々な形で地域に貢献しておってですね~、ちょっと表彰の前に、そのいくつかをご紹介しましてですね~、それから表彰ということに~」

 幸い、あの校長の話はカタツムリが五〇メートル走をするのにかかる時間くらい長い。おれは一目につかないように、素早い動きで体育館後方のカーテンにもぐりこむ。そのままカーテンに身を隠したまま二階までのぼりきる。

 しかし、一階と二階のカーテンは別れているので、ここでどうしてもいったん姿を曝さなければならない。この状況を打開するべく、おれはある秘策を使うことにした。

「――わ!?」

 突然、黒山の人だかりの中からスマホの着信音が鳴り響く。体育館内のすべての注目がいっせいにその音源へと向けられる。

(今だ――)

 そのすきにおれはハシゴをあっというまに登り切り、二階のカーテンの中に身を隠す。

 犠牲になった友人には申し訳ないが、昼休みに購買部でなにか奢って埋め合わせでもしておこう。それよりも今は校長の始末が最重要事項なのだ。

 かくておれはカーテンを登り切り、なんていうのか知らないが、バレー部のボールとかがよく引っかかってる、あれあるよね、あの天井の部分、に飛び移る。

 獲物を狙う蜘蛛さながらの凶悪さと隠密さを備えたおれは、まさしく闇の暗殺者「忍」のごとく、じりじりと、着実に校長へと接近していく。

 だが、時間がない。

「……という素晴らしい人助けをですね~してきた生徒でですね~、そういうわけでそろそろ表彰の方にうつりたいと思いますがね~」

 カタツムリが匍匐前進するくらい長い校長の話が、もう佳境にさしかかっているのだ。もはや猶予は残されていない――。

 体育館の前方へ辿り着いたあとは、同じ要領で注意をそらし、カーテンをつたって降り、それから放送室へと侵入する。ここの生徒は不真面目で、いつも校長先生の話の間にソシャゲをやっていることはすでにリサーチずみなので警備としては取るに足りない存在である。

 そうしてようやく舞台袖まで辿り着いた――のだが。

「え~、その生徒というのはですね~」

(くそ、もう間に合わないぞ!) 

 この距離から飛びかかるのはさすがに無謀だ。とはいえ、なにか案を考えるほどの時間もおれにはない。体育館の照明を落として、暗がりに乗じて始末しようとしたのだけれど、今からでは間に合わない。

(ここまでか――)

 おれが絶望の底で、なにもかもを諦めようとしたとき。

「我が校の生徒会会長の、****さんなんですね~」

 なん……だと……!?

 その後も校長の話は続いていく。どうやら、これまでずっと話にあがっていたのは、会長のことで間違いないらしい。

「は、はは……、そうか、そういうことだったのか……」

 思えばおかしな話だった。顔も名前も知るはずがないのに、声と学校だけで個人を特定できるはずがないのだ。それにくわえ、会長が誰よりも「功徳」を積む品行方正な人物であることは、すべての生徒の知るところである。

 にもかかわらず、すべての善行の噂の源が自分であるかのように勘違いして、あろうことか校長のカツラをはぎ取ってやろうとまで企ててしまった。なんと浅ましい。

(ずいぶん、みっともなくうろたえてしまったな――)

 しかし、危機が去っただけあって内心は穏やかだった。うん、この後も憂いなく正しいことに勤しもう。

 壇上では、呼ばれた会長がまさに表彰状を受け取って、晴れやかな顔で拍手喝采を受けている。うむ、実に絵になるというか、栄光や名誉の輝きがずいぶんと様になる御仁である。よしよし、万事問題ない。おれも心から尊敬の拍手を送っていた――のだが。

「みなさん、ありがとうございます。でも、実はもうひとりこの表彰状に相応しい人がいるんです」

 え――?

 驚いたのは生徒や教師ばかりでない。どよめきが広がる中で、おれもまた胸の内に不吉なものを覚えた。

 いやいやいや、まさか――。ひとりいるのだから、もう二人くらい会長のような御仁がいてもおかしくはない。ちょうど今しがた勘違いを起こして反省したばかりなのだ。そうだ、そうに違いな――え!?

 するとおれの視界には驚くべきものが映った。

 壇上の生徒会長が、まぎれもなくこちらへ向かって視線を送ってくるのである。

 おれは後ろを振り返ったが、他には誰もいない。

 おれの動揺をよそに、会長はにこっと微笑むと、そのままなんとこちらめがけて直進してきた。

「ちょ、ちょっと――?」

 目の前までやってきた会長は、おれの腕を迷わず掴むと、

「さ、行きましょう?」

 と微笑みかけた。

「な、なななな、何を言ってるのか――」

「さっぱりわからない?」

「う、うむ。おれはべつに貴女のようなことは、なにも――」

 すると、

「嘘です」

 会長の人差し指が、がたがた震えるおれの唇を遮った。

「他の人には分からなくても、私にだけは分かるんです。ずっと、あなたのことを探していたから……」

「……探して、いた?」

「はい」

 明るく会長は頷くけれども、こちらには探される心当たりなどなにもない。そうして、心当たりがないゆえに、どうしても不安を感じる。

「気づかぬうちに、おれは恨みを買うようなまねをしてしまっただろうか」

 だとしたら、逃げ隠れせずに、正々堂々と謝罪しなければならない。そうでなければ「漢」の風上にも、いや、風下にすら置くことはできない。

 こちらはそれくらい真剣に尋ねたのだが、当の会長は可笑しそうに、鈴を転がすような綺麗な声で笑って、

「逆ですよ、逆」

「は?」

「助けてもらったんです、数年前に、あなたに」

 それから、会長はことのあらましを話しはじめた。 


 会長が数年前にこの町に引っ越してきたとき、帰り道が分からずに途方に暮れたことがあったらしい。知らない町で、頼る人もおらず、お腹も減って泣きそうになったとき、頭にコンビニ袋を被った変質者がやってきた。

「どうした。なにか困り事か?おれでよければ力を貸そう」

 始め恐ろしくて逃げ出しそうになったけれど、その男の子は親切で、食べ物をくれたり、日が沈んでも一緒に家を探し歩いてくれたり、最終的にはどういうわけかしらないが、お金までくれるお人好しだった。

 その後、なんとかしてお礼を言いたいと探し回っていたが、いっこうに見つからない。ただ、それでもコンビニ袋の変質者の噂だけは、いろんなところから聞こえてきた。

 いじめられているときに、物陰から石を投げて助けてくれた、飼い犬を見つけ出してくれた、友だちがいなくて困っていたけれど、ポケモンの通信交換で進化を手伝ってくれた、彼のおかげで宇宙人と交信することに成功した、などなど。

 それらの噂を聞き回っているうちに、会長はあることを思いついた。

 自分もあの男の子を見習って、たくさん人の役に立つことをしよう。

 そうすれば、いつの日かまた出会うことができるかもしれないと思ったから。

 会長はそれから目につく限りの親切を行い、その後には必ず「恥ずかしがり屋な男の子」の噂を聞いた。そうして情報を集め、同じ高校に進学したまではよかったけれど、どれだけ探しても見つからない。

 会長として全校朝会のときに、生徒全員を一望する機会はあったけれど、それでもどういうわけかその男の子だけは見つからなかった。


「でも、今ようやくその理由が分かりました。また人助けをしていて、遅くなっちゃったんでしょう?」

 私もあなたの真似をしていたから、よく分かります、と会長は得心顔をして言った。

 それから、昨日廊下であなたを見つけたときは、本当にびっくりしましたよ、とも。

「そ、それ、は――」

 それでもおれが容疑を否認する犯罪者のようにしどろもどろに誤魔化していると、

「なら、ひとつだけ手伝ってもらえませんか?」

 と会長は上目遣いで提案してきた。

「手伝うって、なにを――?」

 それが人からの頼みであれば「漢」として無碍に断るわけにもいくまい。どういう用件が来るのかと構えて待っていると、

「簡単なことです。その男の子を一緒に探して欲しいんです」

 あまりにも容易い頼みごとを、あっけらかんと仕掛けられた。

「あのとき、私、すっごく助けられたから、ちゃんと『ありがとう』って伝えたくて」

「…………」

「私だけじゃない、町の人も、中学校の同級生も、この高校の生徒たちも、みんなあなたに直接会ってお礼を言いたいっていう人はたくさんいるんです」

「………………」

「みんなの『お願い』手伝ってもらえませんか?」

 それは、この上なく単純で、しごくまっとうなお願いだった。

 その気になりさえすれば、なんの苦労もなく達成することができる。

「…………」

 ただ、もちろん、迷いがまったくないというわけでもなかった。これまでの積み重ね、習慣、貫いてきた「ルール」の重み、それらをまったくなかったことにはできなかった。

 しかし――

「どうでしょう?」

 会長のいかにもお人好しで、まっすぐな笑顔をおれの心をとらえて離さなかった。

 おれは、とうとう心を決めた。

 そして、

「お安いご用だ」

 ただそれだけ呟くと、

「よかった。ありがとうございます」

 会長はにっこりと微笑んだ。

 やがておれの手をとって、薄暗い舞台袖から、光に満ちた壇上へと導いていく。

 どよめきが収まったかと思うと歓声と喝采に代わり、おれはどうやったって慣れそうもない面映ゆい気持ちを味わった。そんな照れくさいおれの横で、会長は自分が表彰されるのよりもずっと嬉しそうな笑顔でこちらを見つめているのだった。

 その日、おれは初めて自分の意志で「ルール」を破った。

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