十二月十三日。

 夜勤明けのS隊員は普段通り皆に挨拶をすると、日報を提出して警備室を出ていきました。私を含め、その場にいた全員が、S隊員は更衣室へ向かったと思いました。慌ただしい朝の警備室で、彼が正気を失っていることに誰も気付けませんでした。

 〇八時一〇分。

 巡回中に「B5N1で施錠異常発生」と無線が入りました。私は巡回を中断して、至急現場へ向かいました。物理キーでしか開かない倉庫の扉が、開け放たれています。嫌な予感がした私は、部屋に飛び込みました。廊下から差し込む光の中に、投げだされた足が見えました。S隊員がスチールラックにロープを巻き付け、もたれかかるような姿勢で首を吊っていたのです。

 私はS隊員の身体を抱き起し、首に食い込んでいる標識ロープをはずしました。S隊員は意識朦朧としていますが、最悪の事態は回避できたようです。私は警備室に無線を飛ばしました。

 S隊員は助かる。安堵した私は、周囲の異変に気付きました。倉庫には廊下から明かりが入ってきているのに、まるで闇夜のようです。私は闇に目を凝らしました。部屋の照明が点いていないから暗いのではありません。人影の大群が闇を形成しているのです。一つ一つの影は、輪郭がぼやけ、かろうじて人の形を成しています。その影が幾重にも重なり、押し合い圧し合い、S隊員の自殺を見物しに来た野次馬のように、こちらの様子を窺っているのです。群衆の奥に、青白い光が見えました。一体だけ、青白い目を光らせている影がいます。その影と視線が合った気がしました。光る眼を持つ影が笑い出しました。それを切っ掛けに、野次馬たちも笑い始めました。それは、今まで聞いたことの無い下種な笑い声でした。まるで、動物が人の笑い声を鳴きまねしているかのようです。

 私は、S隊員を羽交い絞めの状態で引きずり、倉庫から出ようとしました。扉から差し込む光の道筋が、ぐんぐん伸びていきます。光の一本道は伸び続け、扉が、出口の四角い光が、地平線の彼方に沈んでいきます。

 S隊員の身体が急に重くなりました。彼の足に、女がしがみ付いていました。それは影ではなく、明らかに女です。恐怖が心臓に噛みつき、私は身動き一つ取れなくなりました。

 S隊員の足元から、女が蛇のような身体をうねらせて、ゆっくりと這い上がってきます。私の身体は指一つ動かすことができません。けれど、頭だけは高速回転して、この窮地を脱する方法を幾つもシュミレーションしていました。最善策は、S隊員を置き去りにすることです。呼吸を整え、腕の力を抜けば、金縛りが解けるかもしれません。しかし、それだけは自分自身が許さない。私の腕の中にいる高潔な男をむざむざ化け物の餌にするなど、私の美学に反します。

 女がかま首をもたげるように上体を起こしました。大きな口、黄色い歯、爬虫類のような真っ黒な瞳。這い上がってくるこの女は、S隊員の死別した妻なのでしょうか。

 S隊員が私の手を掴みました。意識など無い筈の彼が、私の手を力強く握るのです。彼の生命力が私の硬直を少しずつ解き、足が動き始めました。

 S隊員は生きようとしている。S隊員が妻の死にどれだけ責任があるのか、私には分かりません。仕事優先の生活が家庭を破綻させたとしても、命を奪われるほどの罪ではないはずです。彼は常に他人を優先させ、自分よりも立場の弱い者に共感し、個人よりも仲間を重んじる、この世界に染まらぬ蓮華のような人物です。下種な化け物に、S隊員を裁く権利など無いのです。

 気が付くと、私たちは部屋から脱出していました。隊長が駆けつけ、B5N1の中を確認しました。照明が点いた倉庫に人影や化け物の姿などありません。小さな部屋は先刻の地獄など嘘のように、静寂で満たされていました。

 私はS隊員の胸ポケットから髪の毛が覗いていることに気が付きました。日報に記されていた黒髪のお守りです。黒髪をポケットから抜き取ると、まるで自分の役目を終えたかのように、ボロボロと崩れていきました。


 日報の公開後、多くの方々からご批判、応援のお言葉、そして貴重な情報を頂くことができました。不躾ではございますが、この場を借りて心より御礼申し上げます。

 S隊員の日報が無ければ、私は惨めにこのビルから逃げ出していました。S隊員は常識を疑い、冷笑にめげず、自分の感覚だけを信じて日報を書き続けました。彼は何の見返りも求めず、後に続く者の為、日報などという枠を超越した、人生の『結晶』を残したのです。その輝きは多くの人を惹き付け、結果として私に沢山の情報をもたらしてくれました。

 皆様から頂戴した情報を吟味していくと、類似した怪談が幾つも見つかりました。家族や友人の幽霊を見た人が自殺する、という筋書きです。地域や施設は異なりますが、全て○○関東ビルのことでしょう。人の口に戸は立てられぬ。私がS隊員の日報を公開しなくても、このビル、この土地の呪いは公然の秘密だったのです。

 情報の多くは都市伝説のようなものでしたが、霊能者Mにつながる情報を得られたことは、本当に幸運でした。S隊員は会社との約束を守り、Mやオカルト関連の情報を全て破棄していました。ビル管理のAさんに直接訊ねれば良かったのですが、知らぬ間に事業所の移動辞令が出ていたらしく、話す機会を失っていました。当然ながら、ビル管理はS隊員の事件を揉み消したいようです。私がAさんの移動先を探していることが知れたら、警備会社自体が契約を解除される恐れがありました。今、B5N1との接点を断たれる訳にはいかないのです。


 Mは、紹介も無しにマンションを訪れた私をとても警戒していました。インターホン越しにS隊員のことを話して、ようやく部屋に通されました。彼女はS隊員が廃人同然になったことを知り、判断が甘かった、強引にでもビルから引き離せばよかった、と落ち込んでいました。


「貴女の髪を頂けないでしょうか。転職先が決まるまで、お守りにしたいのです」

 フォートナム&メイソンの紅茶から漂う甘い香りが、私の気持ちを落ち着かせていきます。私はB5N1で体験したこと、Mの黒髪が必要であることを詳細に、言葉を選びながら話しました。

 彼女は突拍子もない幽霊の話には頷いてくれるのですが、話が私の身の上となると、全く反応を示しません。私が一通り話し終えると、早く帰れと言わんばかりに、紅茶のおかわりを勧めてきます。S隊員は常識に押しつぶされても、Mの黒髪だけは手放しませんでした。彼が唯一信頼した霊能者に、私は敬意を払っているつもりです。それなのに、彼女の目に敵意を感じるのです。

 私は、Mが本物の霊能者なのだと確信しました。その力の前で、三文芝居を続けても無駄なのです。私は本当の目的を話すことにしました。


 貴女の黒髪を魔除けとして使うのは本当です。ただし、警備員を続けたいからではありません。

 私は、少女たちの魂を解放したいのです。

 私と少女たちの絆は、AやT、人形をばらまいた不審者、そしてS隊員とは比較になりません。愛する者の病死や事故死に責任を感じている、程度の繋がりではないのです。

 私が殺したのです。

 私が、少女たちを永遠の存在へと昇華させたのです。

 誤解しないで頂きたいのですが、私は少女を殺すことに性的興奮を覚えているのではありません。私の審美眼に留まったのが、偶然彼女たちだったのです。純粋な魂であれば、老若男女、全てが保護の対象なのです。

 私には、純粋な魂からのSOSを察知する力があります。家庭、学校、この社会全体が、あの子たちを踏みにじっていました。私は彼女たちの輝きが失われていく様を、傍観者ではいられませんでした。

 少女たちを昇華させた後、私は転職、転居を繰り返し、整形までして今の生活を手に入れました。必死の思いで手に入れた平穏なのに、一日たりとも心が満たされませんでした。崩壊していく精神を再生させるため、S隊員には申し訳ないのですが、体調不良を偽り、子供たちの代わりを探したりもしました。もちろん、純粋な魂など簡単に見つかるはずありません。

 しかし、幸運は何処に転がっているのか分からないものです。就職先の地下に怪物が潜んでいて、少女たちの魂を私の元へ呼び戻してくれたのです。死者の世界へ通じる土地が私を甦らせ、再び使命を与えてくれたのです。

 B5N1で怪物と対峙して、あれがどの様な存在なのか垣間見ることができました。怪物は様々な魂を呼び寄せ、自身は闇の奥に隠れています。S隊員の妻も、私の子供たちも、操り人形にされているのです。

 怪物は子供たちの魂を私にではなく、S隊員に接触させました。S隊員が地下駐車場で足跡を発見したあの日、本当なら現場に飛んで行きたかったのですが、混雑する受付けから逃げる口実が見つからず、やきもきしながら業務に就いていました。駐車場の一件以前は、奇妙な現象の中に子供たちの気配を感じられたのですが、それもピタリと止みました。私は、完璧に怪物の術中に落ちていました。職場の怪現象に悩まされているなら転職すれば良いだけの話なのに、それができません。あの子たちの魂にもう一度触れることができる。常識では叶わない望みに可能性が出てきたのです。頭の中は混乱し、冷静な判断ができなくなっていました。

 B5N1で怪物が私を喰い損ねたのは、痛恨のミスでしょう。あの日、初めて怪物を見た私は、無様に怯えて、蛇に絞め殺されるネズミ同然でした。しかし、今の私なら怪物に後れを取ることはありません。その恐ろしい姿も、地下倉庫を覆う異様な雰囲気も、こけおどしにしか感じません。得体の知れた怪物など、何を恐れることがあるでしょう。

 私だけが、怪物を倒すことができるのです。

 私だけが、囚われた少女たちを解放できるのです。

 どうか、黒髪をお譲りください。

 怪物が新たな手立てを講ずる前に、決着をつけたいのです。


 Mは、俄かには信じ難い話を黙って聞き続けました。彼女の胸中に様々な感情が渦巻いているのを、その押し殺した声から察することができました。


 Kさん、あなたの話を信じます。あなたの罪を許すことはできませんが、罰を与えるのは私の役目ではありません。あなたには、法の裁きが下る前に、果たすべき使命があるようです。

 ご明察のとおり、怪物は死者の魂を呼び寄せ、支配しています。皆さんが見た幽霊は、生前愛した人たちの魂です。偽モノに人の心を壊す力はありません。

 怪物は幽霊たちの復讐を手助けしているのではありません。あれは狡猾なサディスト、悪意の『結晶』です。誰もが胸に秘めている罪悪感をこじ開け、良心の呵責に付け入り、残忍なショーの生贄にしているのです。ショーは周囲のさまよう魂たちを、良い者も悪い者も引き寄せます。魂が集まるほど、フォロワーが増すほど、怪物も力を増していくのです。野放しにしておくつもりはありませんでしたが、怪物の力は私たち霊能者を遥かに上回り、手をこまねいていました。

 多くの人は怪物の標的にされても、すぐに心の不調を感じて、あの土地から離れていきます。ですが、稀にSさんのように強い心を持つ人、そしてあなたのように心を失くしてしまった人は、逃げる機会を逃してしまうのです。地下に引きずり込まれて、正気を保てた人は少ないと聞きます。なのに、あなたは怪物と直接対峙したにもかかわらず、Sさんを救いました。Sさんは心を壊されたけれど、あなたは生きる力を取り戻し、再び怪物に挑もうとしています。

 善悪の境界など脆いもの。社会のルールや常識など関係なく、全ての人間に役割があるのかもしれません。私や普通の人間には不可能なことが、あなたにはできる。囚われた魂の解放。心を失った者だけに許された、最後の使命なのでしょう。


 黒髪を切るMの瞳は、何故か涙ぐんでいました。私と怪物の相打ちを目論んでいるくせに、非情に徹することができないようです。

 暗闇の中でしか、光の価値は見いだせない。S隊員とM。彼らの純粋な魂は、私の様な存在が触れられないほど眩しく、熱い。頭では理解していても魅了されてしまうのは、虫が炎に飛び込むような、本能的な愛のなせる業なのでしょうか。元同僚と、鬼退治に重要な人物でなければ、全人生を賭して昇華させてあげられたのに。本当に申し訳ない、残念な気持ちです。


 さて、この報告書を読み返してみると、迂闊にも自分の罪を告白していることに気が付きました。どうやら命懸けの戦いを前にして、冷静な判断力を欠いているようです。けれど、面白いので書き直さず、このまま公開することにします。小説投稿サイトに掲載された罪の告白など、誰も信用しないでしょう。S隊員の日報をテキスト入力しているうちに、私も生きた証を残したくなったようです。残念ながら、私も血の通った人間だったという事ですね。


 S隊員の日報が、私に情報という最強の武器をもたらしてくれました。おかげで最強の盾、Mの黒髪も手元にあります。必ず怪物を討ち果たし、囚われた魂たちを解放してみせます。

 血沸き肉躍る冒険の行方は、いつか必ずご報告いたします。次はSNSや小説投稿サイトではなく、もっと刺激的な方法で発表したいと考えています。ご期待下さい。


 S隊員。

 M。

 情報を提供して頂いた皆様。

 最後までお付き合いして頂いた読者の皆様。

 心よりお礼を申し上げます。

 短い間でしたが、私も世界の一部であることを感じることができました。私一人では、怪物に太刀打ちできませんでした。重ねて御礼申し上げます。



 最後になりますが、『ドウギリ様』は信用なさらないで下さい。あれは心霊マニアの創作で、何の効果もありません。

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警備日報 三上一二三 @ym3316

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