十二月
十二月二日
一ヶ月も休暇をいただき、本当にありがとうございました。皆様のおかげで、病状も無事に回復し、今日から職場復帰となります。暫くの間、皆様には迷惑を掛けますが、何卒ご容赦ください。心身ともに本調子を取り戻し、皆様のご恩に報いることができるよう尽力いたします。
私が休養させて頂いている間に、F隊員が自衛消防技術試験に合格した。これで○○西ビルの連中の鼻を明かすことができる。F隊員は休憩時間やお客様の出入りが少ない時を見計らって、問題集やテキストにかじりついていた。施設警備員にならなければ一生お目にかからないであろう単語を、必死になって頭に叩き込んだ。筆記試験の出題範囲は広く、テキストのどこから出題されるのか、全く予想が付かない。私が先に合格したことでプレッシャーもあっただろうに、よくぞ合格してくれたと思う。
F隊員、合格おめでとう。これで休憩時間にたっぷり睡眠がとれる。不安にとり憑かれた日々も終わったのだ。
もちろん私も実技試験を合格した。身体が本調子を取り戻したら、F隊員と合格祝いをしたいと考えている。
十二月五日
一ヶ月ぶりの泊まり勤務となる。不安からか、小さなミスを連発したが、今、無事に夜明けを迎えようとしている。夜明けの街を見られるのは警備員の特権だ。静かで、空気は澄み、群青色の空にオレンジの光が差し込み、透き通るような青が目を覚ます。今日一日、何か良いことがあるかもしれない。淡い期待だけが世界を満たしている。それ以上に、仕事が終わって帰宅できる喜びはひとしおである。
施設警備員の仕事は、モニター監視、受付、立哨、巡回を一日の内に何度も繰り返す。ルーチンワークを嫌う人もいるけれど、私にとってはそれが救いとなっている。営業成績や納期など関係ない。ろくでもない客に頭を下げる回数も減った。火災や救急などの緊急出動に備える緊張感はあるけれど、事故が無ければ時間通りに終わる仕事なのだ。前職に比べたら、何と穏やかな毎日だろう。
私は自分の性格に適さない仕事ばかり選択してきた。欠落した部分を補うように、有名企業であること、高給であること、世間様から承認されることを重視してきた。そんな簡単な価値はいずれ破綻すると理解するまでに、どれだけの時間を費やしたのだろう。
世間様の承認など、二の次だ。己の幸福を最優先にすれば良かったのだ。手の届く範囲で、大切な人を幸せにすれば良いのだ。妻は、私が歯を食いしばって生きている姿を毎日見ていた。人が苦しんでいる姿を見守り続けるのは、さぞかし苦痛だったことだろう。私は彼女に苦痛以外、何も与えなかった。与えるどころか、人生を奪い取っていた。
日報をだらだらと書くのは止めよう。寝不足の頭で過去を振り返るのは不毛だ。もうすぐ夜が明ける。明けで帰宅できる。世界と私は、淡い期待で満たされている。
十二月七日
K隊員に、日報をSNSやホラー関連のサイトで公開しないか、と誘われている。冗談かと思ったが、K隊員の話しぶりからして本気のようだ。
職場復帰にあたり、本部から二度と幽霊話はしないように念を押されている。同僚やお客様から求められても、話すことはできない。日報の公開などすれば、どのような処分がくだるのか想像するに難くない。
K隊員も私と同じ苦しみを味わっている。彼も些細な異常をオカルトに結び付け、説明できない体験をしたと思い込んでいる。そうなった要因の一つが、私の行動や日報にあるとしたら、本当に申し訳ない。
巡回中、一〇階スプリンクラー制御弁室の未施錠を発見した。日中の作業終了後、業者が閉め忘れたのだろう。制御弁室は十二階から地下五階まで吹き抜けになっている。この吹き抜けの中を空気が流動することで異音が発生し、それが人の声に聞こえたりする。幽霊の正体など、その程度のことなのだ。
もし、K隊員に死別した人がいて、その方との再会を望んでいるのなら、諦めて欲しい。私が言えた義理ではないが、幽霊や死後の世界など無い。あの時の私はストレスが積み重なり、どうかしていたのだ。確かにこのビルは恐ろしげな雰囲気を漂わせているが、そんな空気みたいなものに人生を振り回されてはいけない。会社が許可してくれるなら、私がどれだけ不毛で馬鹿馬鹿しいことを騒いでいたか詳細に伝えたい。隊長からも会社に働きかけてくれないだろうか。
十二月九日
東京本部から課長が来館される。事業所の移動辞令が下った。休職中に何度か本部と話し合い、私から移動を願い出た。移動日は未定だが、皆さんと一緒に働けるのも、残り僅かだと思う。
移動先は千葉県の○○ビルと決定した。ここと同じオフィスビルで、人の出入りが少ない、大きな事故とは無縁の穏やかな職場だ。移動してから一ヶ月は緩いシフトを組んで頂くので、私のペースで新しい職場に馴染めるだろう。
ここに踏みとどまる選択肢もあったが、あれだけの迷惑を掛けてしまったのだ。私が移動することで、○○関東ビルに落ち着きを取り戻してもらいたい。
心機一転、新しい職場で頑張りたいと移動を願い出たが、移動先にも私の噂は広まっている。スタートから
十二月十二日
K隊員との話し合いだが、会社から許可が下りなかった。会社側の言うことももっともで、私が「幽霊などいない」と話せば話すほど逆効果だ。しばらくは事態を静観し、噂が沈静化するのと同時に、K隊員の好奇心が別の方向へ向いてくれるのを願うばかりだ。
私が休職している間に、○○サービスのT様が退職されていた。私のように事業所の移動とはいかなかったようだ。このビルにまとわりつく不気味な雰囲気が、彼女の人生を振り回した。一歩間違えれば、私もT様同様、職を失っていたかもしれない。私は幸運だ。
T様は警備員にも明るく挨拶をしてくださる、本当に優しい方だった。入社当初の私は、T様の笑顔が見たい一心で、立哨中の挨拶を頑張ることができた。T様が「夏休みに北海道へ行ってきたんです」とお土産を買ってきてくれたことを鮮明に覚えている。警備員とビルで働くお客様との間にこのような交流があるのか、と驚かされた。T様は優しくて、細やかな気遣いができる方だ。○○関東ビルを離れれば、つまらないことに悩まされず、全力で仕事に打ち込めるだろう。
そうね、ここから逃げるのが一番の解決策だと思う。
だけど、相変わらず嘘が下手ね。諦めたふりをしているけれど、あなたの目はずっとわたしを探し続けている。不思議ね、こんな状況になってはじめて、お互いに理解し合おうとしている。どうして、生きているうちに、優しい言葉を掛け合うことができなかったのかしら。言葉にしてしまえば簡単なことなのに、お互いに譲ることができなかった。
あなたは勘違いしている。わたしは怒ってないし、怨んでもいません。あの事故に、あなたが責任を負うことなんてない。いい大人が無責任に飲酒運転しただけ。あの夜、お酒の勢いであなたに投げつけた言葉、本当に後悔しています。あなたが転職を望んでいたこと。母の介護のこと。そして、子供を授かることができなかったこと。全て二人の問題なのに、わたしは不満をぶつけるばかりで、聞く耳を持とうとすらしなかった。許しを請うべきなのは、わたしの方です。
あなたを苦しめるつもりなんて無かった。あなたに逢いたいという強い想いが、このビルの、この土地の不思議な力を悪い方向に働かせたのです。事業所の移動は、正解だと思う。一日でも早く、この場所から、わたしから離れてください。
わたしたち、そろそろお互いを解き放つべきね。
あなたは未来を。
わたしは深い眠りを。
さようなら、優しい人。それぞれの、一番幸せな結末に向かって。
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