十 月 ②

十月十八日

 先日、自衛消防技術試験の筆記試験に合格した。試験は筆記と実技の二部構成になっていて、筆記試験の合格者だけが、実技試験を受験できる。実技試験の合格発表は二週間後だ。

 筆記試験の合格率は七割だが、本気で勉強して挑まないと、合格できるものではない。すでに合格した人たちは、問題集を丸暗記すれば合格できる、と簡単に言うけれど、今回、過去問の出題率は四割程度だったと思う。

 F隊員に先行して受験し、とりあえず筆記試験は合格した。どのような問題が出題されたのか、できる限り教えてあげたい。今回の試験では、消火剤の成分について出題された。過去問からは予想できない問題だ。問題集を丸暗記しているF隊員が、今からテキスト全部を読み込むには時間が無い。出題されそうな個所に重点を置いて、試験対策を練るつもりだ。


十月二〇日

 人形の名前は『ドウギリ様』という。警備室、仮眠室、B5N1の目立たない場所に張り付けたつもりだったが、警備員の目を誤魔化すことはできなかった。

 人形設置の許可を求めたところで、却下されるのは予想が付く。魔除けの人形を置いても業務に支障は無いと思い、無許可で設置させてもらった。

 不審者がばらまいた人形を回収した私は、ゴミ置き場に行く途中、一体だけ胸ポケットにしまった。家に持ち帰り、画像検索をかけてみると、一件ヒットした。

 ドウギリ様は作り主の身代わりとなって、悪いものを引き受けてくれるお守りだ。このお守りが優れているのは、神職による御霊入みたまいれの儀式を行わなくても完成するところだ。まずは純白の紙を用意する。正しい手順で人の形に折る。人形には内符ないふの代わりに、簡単な図形を描いた紙と、自身の髪や爪を納める。

 私は不器用で、鶴すらまともに折れない。二日かけてドウギリ様を四体作るのが精一杯だった。受付に居座った男は、尋常ではない時間と労力、そして髪の毛を費やし、身代わりを数百体作った。それだけのおとりを用意して、このビルの何処で、何をするつもりだったのか。

 人形が変色する、または壊されるなどすれば、そこに悪いものが存在する証拠となる。幸いなことに、私が設置した人形に変化はなかった。無許可で人形を設置したのは確かに非常識だが、館内をさまよう幽霊が邪悪なものではない、と証明されたのだ。後悔はしていない。


十月二十四日

 先日は妻の三回忌のために休暇をいただき、ありがとうございました。おかげさまで無事に執り行うことができました。あらためてお礼を申し上げるとともに、今後もご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 三回忌を迎え、久しぶりに妻の遺影を見た。妻の写真ならリビングに飾ってあるが、遺影はクローゼットの奥にしまいこんでいた。遺影に使った写真は、事故の二年ぐらい前、ディズニーランドで撮影したものだ。写真の中の彼女は大きく口を開け、白い歯をのぞかせている。頬があがり、大きな瞳が真っ黒に見える。信頼を寄せる相手にしか見せない、無防備な笑顔。

 あの日、私は気付いていた。ワインボトルが空になっていること。彼女の足元がふらついていたこと。そして、彼女が車のキーを握りしめていたこと。気付いていたのに、黙って見ていた。

 もう一度逢いたい。逢って、全てのことを謝りたい。許されなくても良い。呪われてもかまわない。彼女の魂に触れることができるなら、このビルで起きている奇怪な現象など、何を恐れることがあるだろう。

 ○○関東ビルが地獄の門なのか、魂が集う聖地なのか、私にはわからない。けれど、妻に再会できる最後のチャンスであることは間違いない。仮眠室で見た女性。あの夜は突然のことで動揺したが、今思えば、あれは妻の姿をしていた。私の周りで起きる不思議な現象は、妻からのメッセージではないのか、そう思えてならない。

 ビルをさまよう幽霊たちに敵意が無いことは判明した。彼らは私たちに何かを伝えようとしている。接触しようとしている。もう少し、あと一歩踏み込むことできれば、想像を超えた世界が待っている。


十月二十六日

 人形騒ぎを聞きつけたビル管理のAさんが、信頼できる霊能者を紹介してくれた。Aさんも赴任直後、奇妙な現象に悩まされ続けていた。Aさんは親戚の紹介で霊能者Mさんを知った。自分が霊能力者に助けを求めるとは、夢にも思わなかったそうだ。私も半信半疑で、Mさんのマンションを訪ねた。

 Mさんは、私が勝手に抱いていた霊能者のイメージと大きく違った。魔法使いのおばあさんを想像していたのだが、扉を開けてくれたのは、清潔感のある、育ちの良いお嬢さんだった。上品な立ち振る舞いに騙されているのではないかと警戒したが、いらぬ心配だった。私が相談料はいくらか尋ねると、霊能力では商売をしていません、と笑顔で答えた。常識的なことを聞いただけなのに、自分が下品な人間に思えてしまい、あからさまに落ち込んでしまった。金銭の話は、先にAさんから聞いておけば良かった、と後悔した。気にしていませんよ、とMさんが紅茶を勧めてくれた。高級そうな銘柄の紅茶は、一口飲むごとに私の不安を溶かしてくれた。

 私は体験したことを包み隠さず話した。普通なら聞くに堪えない、信じがたい話だ。けれど、彼女は否定することなく、かといって大袈裟に肯定することもなく、黙って聞き続けた。一通り聞き終わると、わかりました、と頷き、長い黒髪を五センチほどつまんで切り、紐で束ね、息を吹きかけ、私に手渡した。手の中に納まった彼女の黒髪は、肉体から切り離されたというのに瑞々しく、髪自体が生命を持っているかのようだ。

 彼女は言った。あのビルには大勢の霊が出入りしています。生きている人間と同じように、大勢の中には、良い者、悪い者が入り混じっています。その髪があなたを守ります。もし、髪に変化の兆しが現れたら、ためらわず逃げてください。

 私はたまらず聞いた。大勢の中に、妻はいるでしょうか。

 Mさんの穏やかだった表情が、わずかに曇った。奥様との再会は諦めてください。過去や記憶を切り捨てろというのではありません。過去や記憶は未来のためにあるのです。未来や人生を、幽霊のようなものに費やさないでください。


十月二十八日

 午後、社長が来館された。私のことを心配して、様子を見に来て下さったのだ。

 社長から、明日にでも精神科を受診するように指示を受けた。霊能力者の助言など信用できないが、医師の診断なら真摯に受け止め、長期休暇や事業所の移動を検討する、と言われた。

 私は、妻の死後、うつ病の治療で月一回精神科に通院している。最近は薬物療法をやめ、面接による治療に移行していた。けれど、社長のご指摘通り、幽霊の目撃談など医師に一切話してない。そんなことを話せば、どのような結果になるのか、想像に難くない。

 社長をはじめ、皆さんのお気持ちは本当にありがたい。感謝している。しかし、私は至って正常で、日々お客様や他の隊員たちの安全、安心について考え、行動している。私の予想では、このビルに出入りする人たちは、早晩、私と同じ体験をする。理解不能な現象を目の当たりにしたとき、私の残した日報、魔除けの品々、信頼できる霊能者とのパイプが必ず役立つだろう。館内をさまよう幽霊たちのほとんどは、人に害を及ぼさない。けれど、万が一に備えるのが警備員の務めだ。奇妙な現象の情報を先に掴んでおけば、私のように異常な日報を書かなくて済むのだ。

 

十月三〇日

 担当医師に、私がビルで体験したことを話した。医師はとても驚き、なぜもっと早く相談してくれなかったのか、と憤慨した。抑うつ気分、自己評価の低下、特に強い焦燥感が認められ、治りかけていたうつ病が、中等度に格上げされた。治療には一ヶ月間の休職及び通院を要する。

 妻の事故死、未経験の仕事、新しい人間関係、三回忌の準備、警備員の職業病であろう睡眠不足、そこへ追い打ちをかけるようなビルの怪談話。私の心は悲鳴をあげていたようだ。今まで書いてきた日報を読み返してみれば、とても自分が書いたものとは思えず、なるほど、心配されるのも当然だ。疲労からくる錯覚や、偶然の出来事をオカルトに結び付け、霊能力者のところへ相談しに行くなど、どうかしている。これ以上幻覚や妄想が強くなれば、別の病名が言い渡されるだろう。

 皆さんには申し訳ないが、お言葉に甘え、1ヶ月、治療に専念させて頂きます。急な長期休暇、申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。



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