十 月 ①
十月二日
Y隊員が退職した。事情通で、ビルや他の隊員の噂話をしこたま貯め込んでいたY隊員がいなくなるとは、寂しくなる反面、喜んでいる隊員もいるのではないか。退職理由は、給与面で会社と折り合いがつかなかったと聞いた。確かに警備員の給与は安い。男性一人がかろうじて食べていけるくらいの収入だ。Y隊員は転職先がすでに決まっている。ここよりも断然良い給料だそうで、奥さんの収入と合わせれば、今よりも余裕のある生活、そして貯蓄ができるとのこと。Y隊員のことだから、新しい職場、新しい人間関係の中でも上手く立ち回ることだろう。
私が入社してから半年近く経つが、Y隊員を含め三人も退職している。人の出入りが激しい業界だと聞いてはいるが、それにしても多すぎる。Y隊員の退職理由は本当に給与面だけの問題だろうか。彼も時々奇妙な話をしていた。退職理由は他にもありそうだ、とは考えすぎか。
私は転職など考えていない。以前にも書いたが、このビルはとても居心地が良い。できることなら定年まで勤めたいと思っている。
十月四日
十四時十二分、B5N1で施錠異常。現場に行くと、扉が解放されていて、居室内に侵入者を確認。○○サービスのT様である。
○○サービスに連絡。隊長がT様と○○サービス責任者に厳重注意。T様は上司に支えられ、ふらつく足取りで居室に戻られた。その後すぐに早退された。
B5N1。開かずの間で祠があると噂されていたが、その実態はビル管理の物置だった。ガラクタしかないその部屋で、T様は照明も点けず、糸の切れた人形のように床に座り、壁を見つめていた。私は彼女の肩に手を置き、名前を呼んだ。T様は私に気がつくものの、視線を正面に戻した。彼女にしか観えない映画でも映し出されているのだろうか。灰色の壁を見つめながら「お姉さん、お姉さん」と涙を流し続けた。
T様はどうやってB5N1へ侵入したのか。T様に聞いても、明確な答えは返ってこなかった。B5N1は物理キーしかついてない。電気的な故障で扉が開くことはない。ビル管理が使用後に鍵をかけ忘れた可能性もあるが、この部屋は何ヶ月も使用履歴がない。
もう一つ不可解なことがある。T様のカードキーには地下五階に行ける権限がない。B5N1に行くことすらできないのだ。道に迷って偶然たどり着いたのだろうか。あり得ない。誰かが導かない限り、たどり着けるわけがない。
十月七日
先日、私とK、F両隊員の三人が揃って明け休だったので、F隊員の歓迎会もかねて飲みに行った。F隊員は○○関東ビルの雰囲気をとても気に入っているようだ。先の事業所では人間関係に恵まれなかったらしい。こちらに配属になってからは、毎日が楽しいそうだ。環境が人を変える、というのは本当なのかもしれない。
F隊員も自衛消防技術認定証を受験する。過去に何度か受験したが、元来勉強が不得手で、合格にはいたらなかった。F隊員によれば、自衛消防試験は鬼のように難しいらしい。K隊員は自動車免許より簡単だと豪語する。どちらを信用して良いのかわからないが、とにかく勉強するしかない。私の受験日はすぐそこまで迫っている。二人同時に受験となると、落ちた方が相当格好悪い。余計なプレッシャーを感じるけれど、励ましあいながら試験に挑みたい。
十月九日
午前二時ごろ、また仮眠室のドアノブを回される。「仮眠中ですよ」と声をかけたが、今回は立ち去るどころか、執拗にノブを廻し続けた。あきらかに侵入する意思を感じた。幾分恐怖を覚えたが、ここで何もしなければ相手を調子付かせるだけなので、正体を確かめてやろうとドアノブに手をかけた。すりガラスに女の顔が浮かんだ。
驚いた私は、ドアから吹き飛ばされるように腰くだけ、暫く動けなかった。平静さを取り戻し、地下一階エレベーターホールまで様子を見に行ったが、間が開いたせいか、誰もいなかった。
冗談でこのような日報は書かない。信じてもらえないだろうが、全て真実だ。地下一階ELV前の監視カメラを確認すれば、女を探している私の姿が映っている。残念ながら女の姿はどの監視カメラにも映っていない。非常階段を使用したか、監視カメラの死角を移動したのだろう。
深夜に地下まで降りてくる女性社員がいるだろうか。まさかとは思うが、外部から侵入できる経路があるのかもしれない。徹底的な調査が必要だ。
十月十二日
十三時二十三分、男性、五〇代、一人が受付に居座り、意味不明なことを話し続ける。帰って頂けませんかと説得するが、全く話が噛み合わない。警察に通報すると警告したところ、憤慨した様子で、駅方面へ退去した。
十三時五十六分、先ほどの男性が引き返してきて、リュックサックの中身を受付けにぶちまける。折り紙の『やっこさん』に似た小さな人形が数百体、バケツの水をひっくり返したように広がり、受付を覆い尽くした。男は意味不明なことを叫びながら、駅方面へ逃走した。人形はすべて拾い集め、廃棄した。
どんなに立哨を頑張っていても、玄関先で不審者を食い止めるのは不可能だ。一目で不審者とわかる人物を、今まで見たことがない。昼間の男も、一見普通のサラリーマンだった。私たちが知らないところで、普通の皮をかぶった不審者が、ビルに出入りしているのかもしれない。
仮眠室で見た女も、昼間ビルに侵入し、深夜まで身を潜めていたのかもしれない。どうして警備員を脅かすために隠れていたのか、と言われれば反論できないが、その方が幽霊よりも説得力がある。
十月十五日
巡回中、地下三階駐車場で複数の足跡を発見する。砂埃にまみれた駐車場に、子供の足跡を見た。足跡は裸足で、まるで鬼ごっこでもしていたかのように渦を描いていた。足跡は渦の中心で途絶えていて、そこから移動した形跡がない。子供たちは宙に舞って消えた、としか書きようがない。
足跡は監視カメラが撮影できない場所を駆け回っていて、映像記録が残らない。他の隊員にも確認してもらいたくて無線を飛ばしたが、受付けが忙しくて誰も現場に来ない。そのうちに車両が何台も降りてきて、足跡はタイヤの下敷きになり、確認不能となった。
不可思議な現象が立て続けに起きている。けれど、あまり恐怖を感じないのは何故だろうか。恐ろしい経験もしたが、冷静に考えれば、無邪気なイタズラにも思える。このビルに巣食う連中は、私たちがどのような反応をするのか試しているのだ。
私たちがビルを監視しているのと同じく、彼らもまた私たちを監視している。敵か、味方か、尊重すべき相手か、とるに足りない存在か、私たちを見極めようとしている。
彼らの評価基準は何なのだろう。嵐が過ぎ去るのを待つ忍耐力か、それとも想像を超える相手を理解しようとする行動力か。私は知りたい。彼らが何者なのか。何を望み、その望みに答えたとき、私たちに何をもたらすのか。彼らが私たちを試すつもりなら、私たちも彼らを試す覚悟で挑みたい。
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