九 月 ②

九月十七日

 二十三時十二分、『閉めだし』発生。六階○○通信F様が居室内にカードキーを置き忘れた、と警備室にくる。居室には誰もいないということで、私が同行する。同行前に身分証明証のご提示を求めたが携帯されていなかったので、お名前をメモする。警備員専用のマスターキーでオートロック解除。○○通信居室内でF様のカードキー、身分証、フルネームを確認し、報告書を作成した。『閉めだし』は初めてだったけれど、事前に先輩方から教わっていたので、問題なく対処できた。

 午前二時頃、仮眠室のドアノブを誰かが回していることに気が付く。私に気付かれたくないのか、音を立てないように、ゆっくり、何度も何度も回し続けた。堪り兼ねて「仮眠中ですよ」と声をかけると、立ち去った。Y隊員かK隊員が忘れ物を取りにきたのなら、そう言ってほしい。イタズラのつもりなら性質が悪い。隊長から厳重に注意してほしい。


九月二〇日

 K隊員が体調不良のため、私がB勤務に就く。急な出勤で落ち着かないが、防災訓練に参加できたのは嬉しい。

 非常用エレベーターについて。非常用ELVは救急時と火災時で扱い方が違ってくる。救急時は、目的階でELVキーを『専用』に回し、目的階から動かないようにする。傷病者の搬送中に、ELVの移動を防ぐためだ。火災時は、目的階またはその一つ下の階で停め、キーを『通常』に回し、消防隊がELVを利用できるようにする。

 キーを差し込んで回す。たったそれだけで緊張する。訓練でこの調子だと、本番ではどうなるのか、と心配になる。お客様の安全のため、一回でも多く訓練を積み重ね、身体で覚えていくしかない。

 先日のイタズラの件だが、結局犯人は見つからなかった。Y隊員は巡回中で、その姿が一〇階の監視カメラに映っていた。K隊員は警備室にいたことがわかっている。私が寝ぼけていただけかもしれず、仲間を疑うことで職場に不穏な空気を漂わせてしまい、本当に申し訳ない。


九月二十三日

 巡回中、六階廊下北側、角を曲がったところで、壁に額を押しつけて独り言をつぶやいている男性がいた。詳細はわからないが、ひたすら謝っているのはわかる。声をかけようと思うものの、何を話しかけて良いかわからず躊躇していると、通りかかった○○サービスのT様が男性に気付き、迷うことなく男性の肩に手を置かれた。本当に強い人は、見かけではわからない。華奢で一見頼りなさそうなT様が、見る間に男性の緊張を解いていく。小さな優しさを積み重ねて、英雄が誕生する。男性はT様に手を引かれ、居室へと戻られた。

 忘れてはいけないのが、救われた男性も決して弱い存在ではない、ということだ。彼は、怒りの矛先を自分に向けられる度量がある。他人に怒りをぶつけないかぎり、彼は被害者であり、英雄でもある。彼が悲劇の主人公である間に、誰かが救いの手を差し伸べることができれば、物語は英雄譚で終わる。

 私は怒りの矛先を妻に向けていた。日々のストレスに耐えかねて、悲劇の主人公から加害者へと変貌した。暴言や暴力は使わず、徹底的に無視することで、彼女に深い傷を負わせ、最悪の状態まで追いつめてしまった。くだらない。私は本当にくだらない人間だ。


九月二十五日

 ここ数日、十一階、一〇階共用部の人感センサーが反応しない。日中は反応して照明が点灯するのに、深夜になると反応しなくなる。館内なのに、暗闇の中、懐中電灯の明かりで巡回している。この現象は私とK隊員の巡回時のみ起きるらしい。他の隊員の巡回では、問題なく照明が点灯しているそうだ。センサーの不具合なのか、たまたま私とK隊員が感知されないだけなのかわからないが、ビル管理に調査してほしい。

 ○○通信のカードキーについて。ビジターにカードキーを貸与するときは、必ず○○通信社員にロビーまで来ていただき、社員確認の後、受付けをする。セキュリティのレベルが上がって一手間増えたが、確実に事故を回避できるので、警備としてはありがたい。


九月二十八日

 ○○西ビルから、本日付けでF隊員が移動してきた。F隊員は三年この警備会社に勤務しているが、関東ビルでの勤務は初めてだ。人にものを教えられる立場ではないけれど、できる限り力になってあげたい。

 それにしてもF隊員は若い。私が能動的な青春時代をおくっていたら、彼ぐらいの子供がいてもおかしくない。F隊員のゲームやユーチューブの話が、全く分からない。もちろん彼が悪いのではなく、私の感覚が古いのだ。

 Y隊員にその話をしたところ、『アメトーーク』で良いとアドバイスされた。相手が興味のない話題でも、情熱的に、詳細に、自分がどれだけそれを愛しているのか話せば、会話が噛み合わなくても良いらしい。なるほどそうか、と感心したが、趣味やこだわりのない私にとって、『アメトーーク』はかなりハードルの高いコミュニケーション方法だ。


九月三〇日

 K隊員がまた体調不良。私がB勤につく。季節の変わり目である。風邪をひいているお客様をよく見かける。健康的な食事と充分な睡眠をとり、体調管理を徹底したい。

 私はと言えば、健康診断の結果がすこぶる良かった。四〇代で検査結果がほぼオールAというのは、自慢しても良いと思う。B判定なのは中性脂肪とコレステロールだけだ。

 若いころは健康診断の結果など、丸めてゴミ箱に放り込んでいたが、今では栄光の軌跡がごとく、ファイルに綴じている。健康診断の好成績を顧みては、年をとったな、としみじみ思う。

 私が精神的に参っているのではないか、と皆が心配してくれている。それは本当にありがたいことだが、今回の検査結果のかぎりでは、心配ご無用と言いたい。私は肉体的、精神的に問題ない。むしろ、もっと働きたい気分だ。私はたまに奇妙な話をするが、誰でも疲れてくれば、窓ガラスに映る自分に驚き、ドアのきしむ音を人の声と勘違いする。それだけの話である。


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