九 月 ①

九月三日

 H隊員が退職された。短い期間だったけれど、彼から多くのことを学んだ。巡回路の地図、各シフトの日程、無線通信の定型文。シャワールームの使い方もH隊員から教わった。退職されるのが残念でならない。

 退職理由は奥様のご病気だと聞いた。『週刊Y隊員』によれば、警備業に嫌気が差して辞めるらしい。H隊員の腹の内には、誰も知らない退職理由が無数にあるのだろう。組織や仲間への寛容は、小さな嫌気が積み重なって、前触れもなくへし折れる。

 以前、H隊員が「警備なんてペッパー君で十分だ」と冗談半分に言っていた。確かにそうだ。カードキーの貸与はロボットに、巡回はドローンにまかせれば良い。あと数年でAIに奪われる仕事なら、早めに転職するのが得策だ。けれど、ロボットにできない業務が一つだけある。挨拶だ。

 ロボットの挨拶は駅の自動アナウンスと同じだ。「白線の内側にお下がりください」に対して、誰が「心配してくれてありがとう」と思うだろう。おはようございます、いってらっしゃいませ、お疲れ様でした。出勤されるお客様の背中を押せるのは警備員だけ。退社されるお客様をねぎらうことができるのは、私たちだけ。すべてが機械化、効率化された世界では、心のある挨拶だけが、人に残された唯一の仕事かもしれない。


九月五日

 〇一時三四分 Y隊員が屋上で人影を視認。屋上に監視カメラは無い。窓拭き用ゴンドラのレールが環状に敷かれている。単独で不審者の捜索をすると見失うので、私が応援に駆り出された。二手に分かれ、挟み撃ちをするように捜索するが、確認できない。飛び降り自殺を想定し、私が先行して外周巡回する。負傷者、血痕、建物や施設の損壊はなかったので、Y隊員の誤認として処理した。

 屋上の人影とは、うす気味悪い話だ。昔は屋上を一般社員に解放していたが、現在は関係者以外立ち入り禁止である。南北の扉は物理キーでしか開閉できず、機械的な故障で開くことはない。日中働いていた作業員が取り残され、夕方に不審者として扱われた事例はあるらしい。

 Y隊員は「俺には霊感がある」と誇らしげだ。他の隊員たちは「幽霊だ」と面白おかしく話している。午前一時に休憩時間を潰された身にもなってほしい。


九月八日

 向かいの『○○シティビル』で火災発生。消防、救急車両が駆けつけるが、ボヤ騒ぎで終わった。この件で、小火ボヤでも消防車を呼ぶ必要があることを知った。消防法第二四条に「火災を発見したものは遅滞なく通報しなければならない」とある。自分ひとりで消火できたとしても、通報の義務がある。火災が発生した原因を検証する必要があるからだ。放火かもしれないし、機械故障による発火かもしれない。

 正直に話すと、私は向かいの火事を他人事のように感じていた。表の騒ぎが現実とは思えなかった。同じような感覚を味わったことがある。妻の交通事故を知ったときだ。私はパニックに陥ると、硬直してしまうようだ。もう少ししっかりしていれば、妻の死に目に会えたかもしれない。手を握って励ませば、妻は気力を取り戻して助かったかもしれない。

 仕事に慣れてきて、緊張感を失ってきた。現在行われている週末の防災訓練を、形式的なものではなく、実戦的なものにしてほしい。緊急事態で冷静さを保つには、訓練を重ねる他ない。強くなりたい。一人前の施設警備員になりたい。私はこの仕事に誇りを感じている。


九月十三日

 スケートボード、男性、二〇代、三人が敷地内の階段でジャンプなどする。一人で不審者対応をするのは今回が始めてだが、口頭注意で問題なく退去してもらった。口頭注意と言っても「すみません、ここは私有地です」とかなりソフトだ。話し合ってみれば普通の若者で、「すみません」と頭を下げて北方面へ退去した。謝るぐらいなら私有地でスケボーするなと言いたいが、自由にスケボーをできる場所が無いことも問題なのだろう。

 不審者とは『間合い』をとる。間合いとは「犯人と向かい合ったとき、相手の攻撃が届かぬ位置。相手の隙に乗じて、いつでも制圧できる位置」と教本に書いてある。武術の心得などない、ましてや喧嘩もしたことのない私にとって、間合いはゲームやマンガの世界でしか見聞きしない言葉で、現実味がない。具体的には、昼間は歩幅で三歩、夜間は六歩とれば良い。大切なのは相手を刺激せず、警備員は毅然とした態度を崩さず、話し合いで解決することだ。


九月十五日

 監視カメラのチェックについて。日曜日、余裕のある時間帯にB勤が行う。モニターのメニューから、『録画チェック』をクリックする。日時再生で半年前まで戻し、八八台の監視カメラが正常に録画できているか確認する。チェック後はビル管理に報告書を提出する。

 監視カメラを八八台も設置しているが、屋上やトイレ内はもちろんのこと、宿直室前、D区画、階段、そして地下五階はカメラの死角が多い。報告書を提出したついでに、ビル管理Aさんにカメラの死角が多い気がする、と話したところ、苦笑いをしていた。監視カメラを増設する権限はあっても、予算がないらしい。Aさんから「死角には注意してね」と助言をいただいた。

 モニターに映らない場所で事件、事故が起こる可能性は高い。監視されてない場所だからこそ重要で、気を抜いてはならない。巡回時は特に注視する必要がある。

 日報を書いていて気が付いたのだが、「死角には注意してね」に違和感を覚える。Aさんの歯切れの悪いアドバイスでは、「死角には近づかないでね」とも受け取れる。どちらにしても、警戒を怠らないようにしたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る