八 月
八月二十二日
午後、社長が来館された。私の勤務態度を高く評価してくださった。入社三ケ月で解らないことばかりなのだから、先輩たちに遠慮せずに質問しなさい、相談しにくいことは日報を利用しなさい、と励まされた。日報に好きなことを書いてもよいとのことで、口下手な私にはとてもありがたい。
「警備は魅せる仕事である」とは社長が積み重ねた経験から生み出した言葉だ。私たちは
私は魅せる警備員になれるだろうか。試用期間を終えて正社員にはなれた。今では夜勤もできるようになり、一番難しいであろうC勤もできる。自分の成長を喜びつつも満足せず、どこから見られても恥ずかしくない警備員になりたい。
八月二十四日
正面玄関で立哨をしていると、急に悲しくなるときがある。気持ちをこめて挨拶しても、それが何になるというのか。私の挨拶など誰も聞いてはいない。自分が何のために働いているのか、わからなくなる。目の前を大勢の人が通り過ぎていく。通り過ぎていく人たちだけが美しい。私だけ時間が静止して、世界の流れから取り残され、人生が好転することもなく、朽ち果ててしまいそうだ。
問題を抱えた私を雇用してくれた会社には感謝している。もちろん警備という仕事を馬鹿にするつもりはない。真剣に働いている同僚たちを尊敬している。私はまだ警備員としての自覚が足りない。誇りを持って「魅せる警備」ができるよう、服務に邁進したい。
八月二十六日
警備員はディズニーランドのキャストに似ている。私たちの笑顔、挨拶、礼式は傍から見ると芝居がかったものとして映るだろう。警備員は「警備しているぞ」と大袈裟にアピールすることで不審者を威圧し、お客様に安全、安心という無形サービスを提供している。ディズニーランドのキャスト同様、私たちも「警備員ワンダーランド」という舞台を彩る俳優なのだ。この舞台に脇役は存在しない。私たち全員が主役だ。
胸を張りすぎず、両手は腰より上で後ろ手に組む。左手で右手を掴む。顎を引き、頭の上から見えざる手でつまみあげられるような感覚を持つこと。美しい立哨がビルの安全を保っている。
八月二十九日
カウンセラーから、妻の事故死に責任を負うことはない、とアドバイスされた。救われる言葉だが、頭では理解できても心が納得しない。あの日のことを思い出すたび、自分の愚かさに打ちのめされ、悶絶し、悲鳴を上げたくなる。いつまでも引きずっていては服務に支障を来すので、隊長やカウンセラーの助言を受け入れ、仕事とプライベートのスイッチを切り替えていきたい。他人の優しさを受け入れられるかどうかも、心の健康を測る目安となるらしい。
自衛消防技術認定証取得のため問題集を購入した。購入したのは良いが、それだけで勉強した気分になり、まだ一ページも読んでいない。Y隊員は試験の二週間前から勉強して合格した、と言うけれど本当だろうか。本の厚みからして二週間では覚えきれない。さらに年齢的なこともあり、物覚えが悪くなってきている。まだ受験日を決めていないが、勉強を始めよう。資格取得という具体的な目標があれば、過去に心をかき乱されない気がする。合格して自衛消防活動中核要員になれば警備員としての自信がつく。駄目元のつもりで挑戦したい。
八月三十一日
C勤一人勤務も五回目となり、緊張も解けてきた。C勤には書類整理、報告書作成、そして全居室巡回があり、無事に一晩明かせるか心配だったが、今日の調子を維持できれば問題ない。C勤は仮眠に就く時間が丁度よく、三時間ぐっすり眠れるので疲れも取れる。K隊員が「慣れてくるとC勤が一番楽」と言っていたのも頷ける。
深夜の全居室巡回のおかげでビルの全容も解ってきた。居室の配置、地下駐車場と本館の連絡通路、各エレベーターの到着階。ビルの構造についてまだ知らないことが多い。C勤をこなすことで頭に入れていきたい。
居室について面白い話を聞いた。地下五階に誰も入ったことのない部屋があるそうだ。Y隊員の話ではB5N1は開かずの間で、居室内に謎の
深夜勤務中も日中同様お客様の視線を感じる。周囲を見渡しても誰もいないが、常に誰かに見られている感覚がある。姿勢を正すには丁度良い。だらしない警備員と言われないように、モニター監視や指差呼称などを徹底したい。
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