愚者

 狼カラスの攻撃は、風の魔術に似ているように見えた。

 だが、それはフランの思い違いで、どうやら魔術というよりも、強靭な翼で風を起こしたというだけのことで、そこに魔力は通っていないようだった。


 杖を構える学院長に向かって、狼カラスが口から黒い炎を吐く。

 学院長は背後に飛んでかわし、杖を振るった。

 学院長の杖からは、いつものように風が起こったが、そこに、普段フランが見ないものが見えた。

 キラキラと、白い何かが、輝いている。


 その風は冷たく、地面が、草花が、白く白く、凍り付いていく。


 一瞬の出来事だったろう。狼カラスが放った炎は、一撃のうちに凍てついた風によって吹き消されてしまった。


 狼カラスは、驚いたような顔をしていた。


 学院長は杖を構えて、さらに大きく横に薙ぎ払った。

 何もない空間に、透明な、水のような色の光が走ったかと思うと、氷の杭が無数に現れて、狼カラスに向かって、文字通り、目にもとまらぬ速さで飛んでいく。

 狼カラスは、口から炎を吐き出すものの、全てを打ち落とすことは出来ずに、上空へと逃げる。

 しかし、残った氷の杭は、狼カラスを追撃する。


 空中を逃げ回るカラスの羽根を、一撃、二撃と、杭が打ち抜く。


 その度に不快な唸り声が、狼の口から漏れる。


 狼は、苛立ったようにフランを睨みつけ、にたあと、笑った。


 フランの全身に怖気おぞけが走る。


「ネイサン、愚かものよ。小僧はお前の魔術で切り裂かれるぞ!」


 そう早口で叫ぶと、のこり数本となった杭を引き連れて、フランへと突進してきた。

 フランが恐怖に目を閉じた直後。


 きれいな、音がした。

 鈴とも違う、金属質で、透き通った音。


 覚悟した衝撃は訪れず、代わりに、フランは、真っ白な冷たい壁に包まれていた。


「え……? うわさぶっ……!」


 吐いた息が白い。

 上も下も、真っ白だ。

 フランは、地面から立ち上った氷の柱のようなものに包まれていた。



 外では、学院長が氷の柱を取り囲む無数のつららのひとつの上に立ち、フランが守られている中心の柱の直前で、狼の牙を杖で受け止めていた。

 狼を追っていた杭は、一瞬の後、狼カラスの背中に全て着弾した。

 狼カラスの口から、うめき声とともに、どす黒い血があふれ出す。


「愚か……ですか。愚かなのは、貴方ですよ」


 学院長は、低くそう言うと、ぎりぎりと杖を強く握り締めた。


 その手から、白い凍てついた空気があふれ出し、杖の先が白く光る。

 冷気はゆるゆると杖を伝い、異形のものと化したかつての上司を包み込んでいく。

 その姿は、まるで慈悲深い天使の抱擁のようであった。


「う……うぐ……ぐ」


 冷気に包まれていく異形は、もはや呼気すら凍りつき、肺も、体内も、全てが凍り付いていく。


「私は、貴方を尊敬していた。私は、自分のこの氷の魔力が嫌いでして。出来るだけ、使いたくはなかった。だが、貴方は、私が本来の力を使っていないことを、唯一、見抜いておられた」


 狼の、にごった瞳が、わずかに動いた。

 何かを、思い出したように。


「私に、全力を出してみたいと思ったことはないかと、仰った。守りたいものがあるのならば、己の力を恐れている場合ではないと、諭してくださった。

 だからこそ、私はこの力を、使えるように、使いこなせるように鍛錬いたしました。

 貴方に、披露するのは、今回が初めてでしたがね」


 羽根の先まで、鍵爪のついた脚のさきまで、白く、白く、氷柱を幾重にも垂らしながら時を止めていく。


「貴方、私がこの力を使ったとき、驚かれましたね?

 生前の貴方なら、この程度で驚かれるようなことはなかった。

 私の性格が捻じ曲がっていると、よくご存知でしたからねえ」


 狼の瞳も、既に分厚い氷に覆われて、濁っていたかどうかも解らない。

 今、自分の心が、頭が、何を考え、想っているのかも理解できなくなっていく。


 ――ああ。私は。一体、何に、成ったのだ。


 狼の頭が、そう考えたところで、かつて威厳に溢れる大魔術師であった異形のものは、完全に停止した。



「呪いとは恐ろしい。ご自身が、かつての強大な魔力を失っていることにすら、気付かれなかったようですね」



 学院長が、そう呟くと、巨大な異形を包んでいた氷柱は、美しい音を立てて砕け散り、わずかに翳り始めた陽の光に照らされながら、きらきらと、溶けて消えていった。


「さようなら、師匠せんせい

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