お姫様の旅立ち

 アルバートがすっかり見とれていると、リナリアが「お母様!」と言って、ふわりとそちらへ飛んでいった。


「お母様、ごめんなさい、勝手に抜け出して」

「ふふふ。本当に困った子ね。素直に話していてくれたら、手助けをしましたのに」

「お母様……」


「アルバート殿下」


 呼びかけられて、ハッとしたアルバートは、慌てて姿勢を正した。


「娘たちのご無礼をお許しくださいね。わたくしは妖精王。このリナリアと、先日貴方を泉にお連れした、ジニアの母。全ての妖精の母ですわ」


「お初にお目にかかります、アルバート・エルム・ミハイールと申します」


 慌てて跪くアルバートに、妖精王は片手を掲げた。


「あまり長い時間、人間である貴方をここにおいておくわけには参りません。お話は伺いましたわ。貴方に、泉の水を差し上げます」


「ほ……本当ですか?」


「ええ」


 にっこりと微笑む妖精王を見て、リナリアは「お母様、ありがとう!」と言って妖精王に抱きついた後、するりとアルバートの前に飛んできた。


「よかったわね、アル。一緒に水を取りに行きましょう」


「リナリア。少し待ってね」


「へっ?」


「ただし、条件があります。この里のことは他言無用。水も、泉の水であることは内緒にしてください。いいですか?」


 にっこりとしたまま、有無を言わせぬ威圧感をもつ妖精王の雰囲気に、アルバートはすっかり飲み込まれていた。


「は……はっ!」


「それから、輝石と化す呪いを止める薬の作り方をお教えしますわ。人間世界の文字を書くのは久しぶりですので、読みにくいかもしれませんが、お許しくださいね。材料は全てこの森で揃います。帰り道に採取していくといいでしょう」


 そう言うと、妖精王は指先をアルバートの胸元の紙に向けた。

 ぱらぱらと紙がめくれて、白紙の紙が開かれたかと思うと、妖精王の指の動きに合わせて、紙の上に文字が刻まれていく。


「これは……!」


 アルバートは食い入るようにその文字を追った。

 文字を書き込んでいく魔術も初めて見たが、追い求めていた薬の作り方が、さらさらと目の前で文字になっていることに感動していた。


「同じ内容が書かれた書物を、はるか昔のラジェール公爵様に、私の祖母がお渡ししているはずですわ。まあ、今の公爵家に残っているかは解りませんが」

「……! 本当ですか?」

「ええ。でも、人間の皆様からしたら、本当にはるか昔のことですもの。もう、御伽噺の世界のような出来事よ? 人間の世は移ろうものですから、ずうっと保管するということでさえ、難しいと思いますわ」


 妖精王は、さびしそうにそう言うと、片手を掲げて泉への道を開いた。


「さ、水を採ったら、森にお送りしますわ。お早くご両親の元へ向かわれた方が良いでしょう。輝石と化す呪いは、術者の力量によって侵食の早さが違います。貴方のご両親に呪いをかけた術者の力が強ければ、もう間に合わないかもしれませんわ」


「え?」


 アルバートはリュックから小瓶を取り出したところで、手を止めた。


「術者……? やはり、その呪いは、現代であっても何者かが呪術を使わなければ、かかるはずはないものなのですね?」


「ええ。当然でしょう。末代まで子孫にかける呪いというのもあったと思いますけど、これは死に至る呪い。相手が死んだら呪いは成就し、消えます。効果は一回限りのものですわ」


 アルバートは、眉間にしわを寄せた。

 これが事実ならば、現代でも隠れて禁呪を継承してきた呪術者がいるということになる。


「貴方、ご自分の国に呪術者はもういないと思っていらしたのね」


 妖精王は、少し気の毒そうにアルバートを見た。

 そんな二人のやり取りを見て、リナリアは何故か心がざわざわした。


「さあ、ひとまずは急いで、お水を持っておいきなさい。七日間のうちにご両親に飲ませないと、この泉の水も、ただの水となってしまいますからね。急いで王宮へ帰られることをおすすめいたしますわ」


「はい……ありがとうございます」


 アルバートは険しい顔のまま、泉の水を小瓶にすくいとった。

 泉のほとりには、先日会ったリナリアの姉、エメラルドグリーンの髪の妖精――ジニアが、不服そうにアルバートを見ていた。

 アルバートが声をかけようとすると、ふいっと顔をそらされてしまった。



「それではアルバート殿下。貴方を元の、森の中にお送りしますわね」


「何から何まで、お世話になります。心より、感謝申し上げます」


 アルバートはかしこまって頭を下げた。


「アルバート殿下」


 妖精王は、微笑みを消してアルバートの瞳をじっと見た。


「貴方は王宮に戻ったら、呪いをかけた術者をお探しになるおつもりでしょう? 今この世に生き残った呪術師がいるとすれば、その者は自分の存在を他者に知られることこそを何より忌諱きいすることでしょう。

 術者を探すことは、貴方の命にかかわることになりかねません」


 リナリアは、隣の母の声を聞いて、目を見開いた。


「ご忠告感謝いたします。しかし、私は王子として、この国に害をなすものを見過ごすわけには参りません。この命に替えても」


 ――命。


 この言葉はリナリアの胸を、首元を、苦しいほど締め付けた。



「そうですか。

 呪いは、強力であり、魔術や神術とは違い、術者の姿が見えない場所でも発動するもの。その影響は時に、術をかけられた者の、周囲の人間にまで及んだと聞きます。

 しかし、そのような強大な術であっても、やはり全ての理の環から逃れられるものではありません。

 呪いをかけた者は、必ず、己にも呪いが還ってくると言われています。

 どのような形かはわかりませんが、必ず、ご両親に呪いをかけた者は、報いを受けているはずです。

 これが、術者を探す糸口となればよいのですが」


「ありがとうございます……! 呪術師については文献でもほとんど資料が残っておらず、そのようなことも、今初めて知りました。

 必ずや、呪術師を見つけ出してみせます。

 本当に、ありがとうございました。

 リナリアも、本当にありがとう」



 強い瞳で会話をしている母とアルバートの姿を見て、リナリアは心配と、不安と、そしてもうひとつの感情に心を揺さぶられて、息もできないほどだった。


 どうしよう、このままでは。

 このままでは、アルが行ってしまう――



「御武運を」


「貴方にも。妖精たちの未来が、明るく平穏でありますように」



 別れの言葉が交わされる。


 妖精王の指先が、アルバートを指す。


 アルバートの身体が、光に包まれる。


「待って!!」


 リナリアは、思わず叫んでしまった。


「待って! 私も、私もアルと一緒に行かせてください!」


 光に飛び込んで、リナリアが叫んだ。


「なんだと! ふざけるなよリナリア! 戻れ!!」


 ジニアが怒りの声を上げて、泉から飛んでくる。

 そのジニアを、妖精王は片手で止めた。


「リナリア。外の世界は、恐ろしいところです。もう、今の人間の世界では、我々妖精は実在しないとさえ言われている。そんなところに行くということが、どんなに危険で恐ろしいことか、解っていますか?」


「わかってる……ううん、わかってないかもしれない。でも、でも! アルが命を賭けて何かをするのに、私、笑顔で見送るなんてできない! せめて、お手伝いがしたい! それに、私が行けば、アルのご両親に血を、血をあげられる……」


「リナリア! やめろ! 戻れ!」


「里の存在が明らかになれば、この里も悪意を持った人間の脅威にさらされる。

 リナリア。貴方がその人と一緒に行くというのなら、貴方から、里へと戻る力を奪わなくてはなりません」


「構いません!」


 そう叫んだリナリアの頬を、妖精王の制止を振り切ったジニアが叩いた。


「愚か者! 里を追放されるということだぞ? あの男に捨てられたとしても、むごい仕打ちを受けたとしても、もうここには帰ってこれないということなんだぞ! 簡単に言うな!」


「簡単になんて言ってない!」


 リナリアは真っ赤な頬で、涙を浮かべて叫び返した。

 ジニアは、自分にこんな剣幕で逆らうリナリアを、初めて見た。

ジニアがふらりと一歩下がったところに、



「解りました。リナリア。母は貴方を、里から追放します」



「お母様……」


「いつでも、貴方をみています。貴方がどこでどんなことをしていようとも、わたくしは貴方の母であり、このジニアも、妖精みな、貴方の姉です。

 みな、貴方の幸せを切に願い続けます。

 どうか、それを忘れないで」


 妖精王は、いつものように微笑んだ。

 リナリアは、ぼたぼたと涙を流した。


「ありがとう、お母様、ごめんなさい……ありがとうございます!」


 そう言うと、リナリアは消えかかっていた光の中に、小さな身体を投げ出した。

 ジニアは、その場に崩れ落ちて、はらはらと涙を流し、その背中を、妖精王が静かに抱き締めた。

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