影の男

 巨鳥の脚に胴体を捕まれて、一気に上空へと連れ去られたフランは、必死に逃れようともがいたが、下を見てあまりの高さに絶句した。


 人々が悲鳴を上げてこちらを見ているものの、助けてもらうことなど無理にちがいないと、幼いフランでさえ思った。

 助けてくれと叫ぼうにも、声も出ない。下から見上げている人々の声も、風の音さえも聞こえない。


 恐怖と絶望感に押しつぶされそうになったそのとき、銀色に輝く髪が見えた。

 こちらを見上げているその人影は、他の人々とは、少し違うところを見ている。


 あれは……


『ハーミット!!』


 音にならない声だった。ただ、息が漏れただけだったけれど、思わず叫ぼうとしてしまった。



「フラン!!」



『――え?』


 聞こえた。

 相変わらず、風の音も聞こえないのに、ハーミットの声だけは聞こえた。

 そんな気がしただけかもしれないけれど。

 右の手の甲が、ぼんやりと光っている。

 ハーミットがかけてくれた、おまじないの神術。


『ハーミット! 助けて! ハーミット!』


 やっぱり声は出なかったけど、フランは涙をぼろぼろとこぼしながら叫んだ。

 鳥を追って、ハーミットが走ってくるのが見えた。

 けれど、どんどんハーミットの姿は小さくなっていく。


 フランは、怖くて、さびしくて、たまらない気持ちになっていた。


「気付かれたようじゃねえ。まあ、好都合というものであろうなあ」


 巨鳥が嫌な声でそう言った。

 直後だった。フランの目に、デュナミス大森林が見えた。

 大きな大きな緑の塊だった。

 こんな大きな場所に、本当に自分は行ったのだろうかと、どこか現実感を喪失して思った。


 鳥はものすごい速度で移動し、あっという間に森を追い越し、フランたちが一昨日、森に入ったときの入り口とは、反対側に降り立った。

 ラジェール領の外れ。

 森を通り抜けられないので、隣の領地から来る人々も避けて通るような、さびしい場所だった。

 こちら側にも、もちろん境界警備は立っているのだろうが、鳥が着地したのは、森から少し離れた、森を見下ろせるような小高い台地の崖の上だった。無機質な岩がごろごろと転がっている。


 巨鳥がフランをぽいっと投げ捨てる。

 なんとか受身のようなものを取ったものの、それでも体中が痛かった。


「いってェ……」


「ようこそ、少年」


 不意に、どこかで聞いた声が聞こえた。

 痛みでつい閉じていた目をあけると、上等な革靴が見えた。

 これは、この靴は――。


 フランは跳ね起きた。


「お前っ……」


「ふふ、私の声に聞き覚えがありますか?」


 耳にこびりついた、憎たらしい下卑た声の主。

 陽にあたったことがないのかと思うくらい青白い肌をしたその男は、真っ黒な髪をだらりと垂らして、その隙間からこちらを見下ろしていた。

 重たそうなローブには、黒く鈍く光る鉱石がじゃらじゃらとぶら下がっており、手にも真っ黒な手袋をつけている。

 まるで、影そのもののように見えた。


「お会いするのは二度目です。もう、お気付きのようですが、森でお会いしましたよ」


「お前、誰だよっ! ハーミットにしたこと、許さないからな!」


「ハーミット? ふふ、ああ。アルバート殿下のことですか?」


 フランはそう言いながらも、なんとか逃げられないか考えていた。

 前には影男。後ろには狼カラス。絶望的だった。

 しかも、なめたような目で見下ろされると、足がすくんだ。怒りと同時に恐怖もにも駆り立てられるような、不快な感覚だった。


「アルバートって誰だ!」


「やれやれ。愚かですねえ。少年。そんなことだから、親にさじを投げられるのですよ? ねえ? フラン・カミュールぼっちゃん」


「!」


 フランが驚くのを、男はくすくすと声を抑えて笑いながら見ている。


「調べましたよ、貴方のこと。騎士ナイトを代々輩出している名家の末息子殿でいらっしゃったとは。ふふ。あまりに粗野で乱暴な振る舞いでしたから、下民の子供とばかり思っておりましたよ。

 貴方は、他の兄上たちとは違い、王都の騎士学校には入れなかったのでしょう? ふふ。どうしてなんでしょうねえ?」


「お、お前……誰なんだよ!」


 フランが騎士の家系の出であることは、伏せられている。親が、学院長に「カミュールの家の息子だとわからないようにしてほしい」と依頼したからだ。

 それを、なぜこの男が知っているのだ。


「うふふ、言うと思います? 小僧はこれだから。ああ、本当に愚か」


 男がにたにたと笑いながら、片手を振り上げる。

 すると、フランの右手首が何かに吊られているかのように、上に持ち上がった。


「な……!」


「貴方は大事な大事な人質です。危害を加えたりしませんよ。大人しくしていればね?」


 そう言いながら腕を高く掲げていく。

 紐も、ロープもないというのに、右手首に着けられたバングルが不気味に光りながら、ぐんぐんとフランの身体を引っ張り上げていく。

 フランは足がつかなくなって、男よりもはるかに高い場所に吊るし上げられてしまった。

 逃れようと暴れるたびに、右手首にバングルが食い込む。少しずつ擦り切れているのか、だんだん痛みが強くなっていく。


 不安と、恐怖と、何もできない自分への悔しさで、フランの心の中はぐちゃぐちゃだった。


 泣き叫びそうになったとき、フランの目の前に、突然黒い渦が現れた。

 渦はすぐに一羽のカラスになった。

 カラスがギャアギャアと不快な声を上げながら、男のもとへ降下していく。男が手を開くと、その中にすうっと吸い込まれて消えていく。


 数秒後、男はニタリと笑って、フランを見上げた。


「さあ、お膳立ては完了です。行きましょうか、森に」

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