呪いの使い魔

 突然、禍々しい力の気配が、ハーミットと学院長の全身を走った。


 同時に響き渡る悲鳴と喧騒。


「ネイサン!」


 ハーミットが喧騒に向かって駆け出す。

 学院長はハーミットの後を追いかけつつ、道行く人々に避難の指示を出した。


「皆さん、落ち着いて! 広場から出てください! 押さないで!」


 この気配。明らかに危険な気配を、二人は知っていた。

 瘴気とは違う、根源から、悪意の為に生まれたものの気配。


 禁じられた呪いの術の気配。


 身をもって体感するのは二度目だ。

 夕焼けの中、大切なものを失ったあの日以来。


 ハーミットの足が、不安に突き動かされる。

 不意に、前方から突風が吹き、とっさに目をかばう。

 何かが陽をさえぎり、影が頭上に落ちるのを感じて上を向くと、気配の正体が上空に飛び上がっているところだった。


 真っ黒い羽に、狼の頭。

 両の羽根を広げたその姿は、ハーミットなど軽く呑み込んでしまいそうなほど大きい。


「くっ!」


 逃げられる。


 ハーミットはそう直感して、身をよじる。

 自身のはるか上空を旋回して飛び去ろうとする巨鳥を、為す術なく睨みつけていると、脚の、少し、ほんの少し斜め下のところ。何もないその空間に、小さくぼんやりと薄紫色の光が揺れた。


 あれは。

 あの光は。


「フラン!!」


 ハーミットは絶叫した。

 思わず駆け出す。追いつけるはずもないのに。

 あの光は、フランの手の甲のものだ。

 自分が付けた、精霊の加護の紋章。


「ハーミット! どうしました!」


「フランだ! 視認はできないが、フランが捕まっている!」


「なんですって?!」


 学院長は手をかざして、魔力をこめる。はっきりと見ることはできないが、鳥の脚の下が、ぐにゃりと歪んで見える。そこにだけ、透明な渦が巻いているかのように、うまく認識できない。

 その場所に何かしらの魔力が働いている証だ。

 しかし、それに気付いたからと言って、地上からでは追跡できるはずもなく、鳥はあっという間に見えなくなってしまった。


「くっ……!」


 ハーミットがあきらめきれずに駆け出そうとするのを、学院長が止めた。


「ネイサン! 邪魔を……っ」


 ハーミットが苛立ちに任せて叫びそうになったとき、自分を抑えている学院長の肩の向こうに、見覚えのある桃色の小さな頭が見えた。


「な……」


 必死な顔で、ぜいぜいと息を切らせながらこちらに駆けてくるのは、いつもと違う普段着の、簡素な生成り色のワンピース姿だったが、間違いなくセーラだった。


「セーラ!」


「ハーミット、先生、フランが、どうかしたの?」


 ようやく、二人の下にたどりついたセーラは、ふらつきながら、必死な様子でそう言った。


「セーラ! どうしてここに?」


 ハーミットが脱力したのを確認して手を離した学院長が、しゃがみこんでセーラにたずねた。

 セーラは自分が走ってきた方向を指差した。


「私のおうち、すぐそこで。大きな音がしたから、窓から覗いてたら、ハーミットが、フランって言いながら、走っていったから」


「そうでしたか。驚かせてしまいましたね」


 そう言いながら、学院長はセーラに何と言えばいいのかを猛烈に考えていた。もうこれ以上子供たちを危険に巻き込みたくはない。


「セーラ。危険だ。帰ってお母さんのそばにいてあげなさい」


 ハーミットが少し強い口調でそう言った。

 視線は、鳥が去っていった虚空を睨みつけたままだった。


「あ、あぶないの? で、でも、フランは?」

「フランは、私とネイサンが必ず助ける。大丈夫だから、家で待っていなさい」

「……っ! ……う……はい」


 セーラは明らかに不満そうだったが、食い下がることも出来ずにうつむいた。

 学院長は、こんなセーラの顔も見たくはなかったが、どうすることも出来ずに見送ろうとした。


 直後。


「待て!! セーラ!!」


 学院長の背筋に怖気が走ると同時、ハーミットがすばやく振り向いてセーラを抱きとめて外套の中に隠した。


「えっ?」


 セーラは、ハーミットの外套の隙間から、自分が今まさに走って行こうとした場所に、黒い、黒いインクのようなものが、渦を巻いているのを見た。

 見たこともないくらい、不気味で気持ち悪かった。

 怖くて、怖くて、ハーミットにしがみついた。

 なのに、目を逸らすことができなかった。


 黒い渦は一度広がったあとで、一点に収束して、一羽のカラスになった。

 瞳が金色だ。


『ギ……ギギ』


 カラスがくちばしを開く。普通のカラスの鳴き声とはまったく違う声が聞こえた。

 甲高くて、かすれている。


『コドモ……ヲ、返シテホシケレバ、森へ、来イ。妖精ノ里ヘノ、扉ヲ、開ケ』


「何……だと? ふざけるなっ……!」


 ハーミットが激昂した。その声を、学院長が制した。


「森へ行くことは承諾しましょう。しかし、妖精の里への入り口を開くのは我々ではない。妖精王です。我々の力で、妖精の里へは入れません」


 鋭く、それでもわずかに震えた学院長の声が言う。


『ソンナ……コトハ、関係ナイ。里ヘノ、扉ヲ、開ケナケレバ、コドモハ、殺ス。日暮レマデ、森ノ深部デ待ツ。夜マデニ、扉ヲ開ケナケレバ、コドモヲ殺ス』


「待てっ――」


 カラスは、対話するつもりはないとでも言いたげに、言い終わるなりぐにゃりと歪んで、黒いインクの渦のようになったかと思うと、透明な水に洗い流されるように消えてしまった。


 セーラは、自分が息を止めていたことに、ようやく気付いた。

 そっと呼吸を再開してから、恐る恐る外套から顔を出して、ハーミットの顔を覗き見たが、下から見上げたのではよく見えなかった。


「ハーミット。どうしますか」


 学院長の震える声が聞こえて、セーラの心は不安でいっぱいになった。

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