踏みにじるもの
フランが眠気に負けて意識を失ったのは、ほんの一瞬だった。
「ぐっあああああああああああああ!」
耳元で響いた絶叫に、フランの意識は無理やり現実に引き戻された。
「あっ……はあっ……はああっ……ぐっ」
苦痛にもだえる声。
今までずっと優しく、厳しく、鋭く、囁いていた声と同じ声だとはすぐに気付かなかった。
混乱の中、ようやく見えたのは、ハーミットのどす黒く染まった肩を踏みつけている、上等な革靴だった。
よほど強く踏みつけているのだろう、ハーミットの下敷きになっているフランも、息が苦しかった。
声をかけようとすると、ハーミットと目が合った。
ハーミットは、ぎりっと歯を食いしばって、左腕を立てて自分を踏みつける足を押し返そうとした。
「ハーミット!」
フランが叫ぶと、下卑た声が頭の上から聞こえた。
「おやあ? 意識が戻りましたか? 少年」
声の主を見上げようとしたところで、フランの目を、ハーミットの左手が覆った。
「静かに……していろ……私が、合図するまで……目……開けるな」
ハーミットが、息も絶え絶えに言う。
「これはこれは殿下。よほどその子供が大切なようですね。誰かを守りながら戦うなど、初めてだったのでは? 貴方はいつだって、守られる側だったのですからね。そうまで必死で守ろうとするなら、森になど連れて来なければよかったのですよ。
しかし、先ほどの魔術は末恐ろしいものを感じました。その子供は殿下とネイサン殿の大切な切り札と言ったところですか?」
声の主は、ハーミットを殿下と呼んだ。
すごく丁寧で難しい言葉を話しているのに、なんだかひどくいやな感じがすると、フランは思った。
「……? 何の、話だ……この、子は……」
「ふむ。貴方は先ほど意識を失っておいででしたが……まさか、ご存じないのですかな?」
「何の……話を……している……!」
「やれやれ、隠し立てしているのか、本当に知らないのかわかりませんが……もう問いただす時間もありませんかね。あなたのこの!」
「……っぐううぅうっ」
フランの胸に圧力がかかる。あの革靴が、またハーミットの肩を踏みつけているのだ。
「この傷。あのカラスのくちばしには毒があるんですよ。まもなく貴方は、全身に毒が回って死ぬ」
「っ?!」
フランは硬直した。
――今、何て言った? 毒?
「うふふ。貴方はまさに、国家に巣くう病原体ですよ。いつ暴れだすか、いつこの国を堕落に導くのか。私は不安でならなかった。けれど、これでもう安心だ。わかりますか? この喜び。この開放感!」
「……っ!」
フランの胸にかかる圧力が増す。耳に、ぎりぎりというハーミットの歯の音が、いやと言うほど突き刺さる。
「ご安心ください、アルバート・エルム・ミハイール殿下。貴方の、あの優秀な弟君でも、この状況なら、不肖の兄上は瘴気で変質した禍つものに殺されたと、信じてくださるでしょう」
フランの胸に、何かが広がる。
色があるとしたら黒いそれは、恐怖なのか、不安なのか、それとも違う何かか解らない。
解らないけれど、無性に叫びたい衝動に駆られていた。
ハーミットに抑えられていなかったら、とっくに叫んでる。
右手が、意図せず震えて、熱を持つ。
どうしたんだろう、自分はと、冷静に心の中で何かが囁いた。
「嘘ではありませんからねえ。ふふふ、大丈夫ですよ、幸いお一人ではない。大切なその少年と共に、あなたの愛しいこの森の大地に還してさしあげますよ!」
ああ、何かが空を切る音がする。
ハーミットが歯軋りをしている。
ハーミットの身体が、どんどん冷えていく身体が、震えている。
フランはほとんど本能で、ハーミットの身体の下から抜け出そうともがいた。
直後。
「やれやれ。これ以上我が森を汚すな」
威厳に満ちた女性の声が響いた。
「何者っ――」
あの革靴男の声がそこで途絶えた。
フランの胸の圧力がふっと消える。
ハーミットの身体が一度、大きく震えて、完全に脱力した。
フランの顔の上から、ハーミットの左手が、ずるりと落ちた。
フランが目を開けると、真っ青な空に、色とりどりの花びらが舞い散っていた。
「え?」
フランが、ハーミットの身体の下から抜け出して、上体を起こすと、今までいた森の中の景色は一変していて、自分は、ぐったりとして動かないハーミットと一緒に、色とりどりの花が咲き乱れる花畑の中に埋もれるようにしていた。
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