兄と弟の立場

 ネイサン・ザカリー・ラジェール。

 彼は、今でこそ正式にツァドキール学院の学院長を任されているが、ラジェール本家からの扱いは「とても爵位を継がせることなどできない変わり者の困った長男」というものだった。


 いや。

 今もだ。


 ネイサンに絶望した親が爵位を託した弟が、まもなくその息子に席を譲るだろうと言われる今でも、ネイサンは一族にとって少々扱いの面倒な――簡単に言ってしまうと、厄介者だった。


「兄上。なぜ、こうも問題を起こされるのですか?」


 少し年の離れた弟だが、もうすぐ五十歳だ。

 少し痩せているがしわも増えて、威厳のある口ひげをたくわえ、仕立てのいいスーツを着て大きな椅子に座る様は貫禄に満ちていて、誰もが思う「公爵像」として申し分ない。

 執務机の前で立ったまま、視界の隅に見える、紅茶が置かれた来客用のテーブルに着くこともせず、ネイサンは弟と向きあっていた。


「ラジェール公爵閣下。貴方がいるおかげで私は、穏やかに、好きなように学院を運営できている。心から感謝していますよ」


 にっこり微笑んで答えるネイサン。弟に対する感謝と尊敬は、紛れもない本心だ。

 この優秀な弟は、実に堅実でまじめで、誠実だ。

 面倒なことも、ネイサンが負わなくてはいけなかった重責も、全部全部、快く引き受けてくれたのだ。

 一族連中や他の貴族たちからの、ネイサンに対する嫌味や面倒なお小言も、全部引き受けてくれている。まるで、ネイサンを世間の荒波から守る防波堤のように。


「兄上。そんな堅苦しく話して、煙に巻こうとしても無駄ですよ」


 じっとりと弟ににらみ返されても、ネイサンは顔色ひとつ変えずに微笑んだまま、肩をすくめただけだった。


「今回のことは見逃せませんよ。なぜ我々に報告してくださらなかったのですか。いくらお忍びとは言え、本来ならば本家にお迎えし、必要に応じて最大のおもてなしをしなくては……もしおもてなしを、殿下が拒否さたとしても、本家が把握していなかったというのは問題になるんです。王宮から伝令が飛んできたときは、肝を冷やしました」


「それは、申し訳ありませんでした。あの方は、もうご隠居の身の上。誰にも知られず、身軽に動きたいとおっしゃったので。それに、図書室塔を調べたら、すぐに戻ると仰せでした。ここから学院までは少し遠いでしょう? 私の家から通った方が明らかにいいじゃありませんか」


 にっこりと答える兄を見て、ラジェール公爵閣下は、軽く脱力してため息を付いた。


「そう仰ることは解っていましたよ。兄上が、あの方の希望を全面的に叶えようとされるであろうこともね」


「おや。そうでしたか?」


「ええ。けれど、兄上にも、私にも、立場というものがありますでしょう。何もせずに兄上おひとりにお任せしていては、いろいろとありましてね」


「はは。それはそうですね。全く、貴方には面倒をかけてばかりです。本当に、心から感謝していますよ、ジェイデン」


 ネイサンは深々と頭を下げた。

 ジェイデン・ラジェール公爵は、兄の屈託のない笑顔に、眉尻を思い切り下げて微笑み返した。


「ええ。せいぜい、感謝くらいは、しっかりとしてくださいね」


 二人が言葉少なに心を交わしている部屋に、甲高いノックの音が響いた。


「失礼いたします。ご主人様」


 声の主は、公爵家の執事のものだった。

 ジェイデンは特に姿勢を整えるでもなく、ゆったりとした声で「どうぞ」と言った。

 執事はジェイデンと同じくらいの年の男で、代々公爵家の執事をしてきた家の生まれである彼も、ネイサン・ジェイデン兄弟とともにこの屋敷で幼い頃から育った間柄だ。気心が知れている。


「どうしましたか?」


 ジェイデンが聞きながら、自分の手元にある紅茶のカップを手に取った。


「は。ネイサン様にご連絡が……」


「おや。私ですか?」


 ジェイデンが紅茶をすする。ネイサンはのんびりと振り返りながら、胸になにかが広がるのを自覚した。

 年の功でよく解っている。これは、嫌な予感というやつだ。


「ネイサン様の執事殿から、至急お屋敷へ戻られますようにと」


「ふむ。何かありましたか?」


「その、ネイサン様の、お客様が……」


 ぴくりと、ジェイデンの眉間が痙攣した。


「お客様が、学院の一年生の少年を連れて、デュナミス大森林に向かわれたと……」


 ネイサンの笑顔が凍りつき、ジェイデンのカップから紅茶がこぼれる。


「その話は――」


 大地を揺るがさんばかりの低音が、執務机の向こうから響いてくる。ネイサンに振り向く勇気はない。


「その話は、他の誰かに話しましたか?」


 執事が、びくりと肩をふるわせて背筋を伸ばして答える。


「いえ、その、ネイサン様のお屋敷の方々が、くれぐれも、ジェイデン様とネイサン様以外のお耳には入れぬようにと、申しておりました。私も、このようなお話を外でするなど、とても……」


「よろしい。貴方は優秀です。助かります」


「お、恐れ入ります」


 執事が腰から直角に折れ曲がって礼をする姿を見て、ネイサンは少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 少しだけ。


「あにうえ」


「は、はい」


 呼びかけられても、振り向く勇気はない。

 負のオーラが紫色の炎になって揺らめいていそうで怖い。


「即刻お戻りになり、お客様を……アルバート殿下を森から連れ戻してください」


「え、ええと……殿下にもこう、お考えが……」


「いいですね?」


「ジェイデン、あの」


「いいですね?」


「……はい」


 ネイサンは弱々しく答えると、振り向けないまま、屋敷を出立することになった。

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