壁の向こうの隣街
橘花やよい
壁の向こうの隣街
暖かい昼下がり。私はサンドイッチを持っていつもの木の下に座っていた。壁にもたれかかってサンドイッチを食べる。
空を見上げれば清々しいほどの青空が広がっていた。
「今日の授業は退屈だわ」
「それ、昨日も聞いたわよ」
鈴を転がしたような声で返事がする。私は「そうだったっけ」と適当な返事をした。
「そうよ。あなた、いつもそればっかり。あなたが楽しいと思う授業なんてないんじゃないかしら」
彼女はくすくすと笑う。私は少しむっとして、黙ってサンドイッチを食べた。
いつもの穏やかなランチの時間だ。いつもと同じ定番のサンドイッチ。いつもと同じ木陰。いつもと同じ彼女の声。
そしていつもと変わらず、私と彼女の間を壁が隔てている。
この街と隣街との間には壁がある。私はこの壁の果てを知らない。とても長い壁なのだ。どれだけ歩いても途切れない。しかし、高さはそれ程ない。越えようと思えば越えられる高さだ。
だが、誰もこの壁を越えようとはしなかった。
壁を越えて隣街に入ってはいけない。
それが私たちのルールだった。
いつ頃できたルールなのかは知らないが、連綿とそれは受け継がれてきた。誰も疑問を持つことはない。壁の先を知ることはできない。みんながそれを当然のことと思って受け入れている。
ただ、壁の先は見えずとも、この壁の先にいる人々との交流は続いていた。顔は知らない、声だけを知っている。
私も、隣街にはたくさん友達がいる。その中でも一番仲のいい子が彼女だ。彼女とはいつも一緒にランチをする。綺麗な声をしている子だ。
こちら側に友だちがいないわけではないが、なんだか彼女といる時が一番落ち着く。それに、これは私と彼女に限ったことではない。こちら側の友だちも、昼になるとランチをもって各々外に出ていく。彼女たちもきっと、壁の向こうの友だちと昼時を楽しんでいるのだ。
壁の向こうの、声しか知らない友だちが、私たちは妙に気に入っている。
「ねえ、この壁ってそんなに高くないわよね」
私は壁をこつんと叩いた。
今まで、壁を超えてはいけないという決まりに疑問をもったことはなかった。だってそれが私たちの常識だった。けれど。
「私、あなたに会いたい」
この壁が邪魔だと思ってしまった。
彼女は少しの間黙っていた。でも、「私も会いたい」という微かな声が、風に乗って私の耳に届いた。
それから私たちは今夜会う約束をした。
私たちがいつもお昼を食べる場所には、壁の近くにオリーブの木がある。木は壁の向こう側にもあった。木を使えば壁に手がかかる。だから、この木を登って、私が壁を越える。計画はいたってシンプルだった。
「おい、お前」
彼女と別れて教室に戻ろうとした時、しわくちゃのシャツを着た男が声をかけてきた。
「先生、どうかしましたか」
「お前、あんまり壁の向こうに固執するなよ」
先生は面倒くさそうにそう言った。
普段先生らしいことをしないくせに、どうして今日はそんなことを言うのだろうと私は不思議だった。
先生はいつも気だるげでだらしがない。それに首元にいつも包帯を巻いている。昔はやんちゃで、その時に出来た傷を隠しているのだろうと、専らの噂だった。先生は不良だとみんな言っている。
だが、そのくせ生徒には人気だった。必要以上に生徒に干渉しないことが受けたらしい。そんな先生が、私に先生らしくそんなことを言うのが不思議でならなかった。
「大丈夫ですよ」
私は適当なことを言って、授業が始まるからと先生と別れた。ちらりと振り返ると、先生は首をかきながらため息をついていた。
ただ壁を越えるだけだ。それの何がいけないのだろう。
私は先生の言葉をまともに聞く気なんて、さらさらなかった。
その日の夜、私はオリーブの木に登った。そして壁に手をかける。あれだけ邪魔だった壁が、随分とあっさり超えられた。こんなに簡単なことだったのだ。
「あ」
壁の下に、彼女がいた。
私はその日、はじめて彼女に会った。
とても可憐な子だった。碧の黒髪が柔らかく月光に照らされている。
「やっと会えた」
私は嬉しくて、彼女に駆け寄ろうとした。
しかし、彼女は私を見て固まっていた。
「まって、なにか、おかしい」
彼女はいつもと同じ鈴を転がしたような声で、つっかえながらそんなことを呟いた。
しだいに彼女の体はふるふると小刻みに震える。彼女自身驚いたように目を見開いて、自分の肩を抱いた。
私は何がどうなっているのか、全く分からなかった。ただ彼女の状態が普通でないことは察した。だから彼女に駆け寄って、「大丈夫?」と声をかけようとした。
しかし、次の瞬間。
彼女は素早く私との距離を詰めた。先程まで淡く月光を反射していた瞳が、妖しく光っているのがみえた。
そして彼女は、私の首に噛みついた。
鋭い痛みが走って、私は身悶えた。何が起きているのか分からない。でも、痛みが私を動かした。ばんばんと彼女の背中を叩いてみるけれど、びくともしなかった。
がりっがりっと、彼女は私の首元をかじる。かじられる度に、痛みが体を突き刺して、私は情けのない声を上げた。
血が流れていくのが、体の温度が消えていくのが、私には分かった。
しかし。
死ぬのだろうかと、状況が読み込めないながらもそう感じたとき。
どすっと重い音とともに私の体は解放された。
いつもと同じ、しわくちゃのシャツを着た先生が彼女を突き飛ばしていた。突き飛ばされた彼女は地面に転がって呻いている。長く美しい黒髪が、地面に散らばっていた。
先生は呆然とする私の腕をひいて無理やり立ち上がらせた。そして木を登って壁を越える。先に壁の上に立った先生が強く腕を引いてくるから、私も壁を越えるしかなかった。
壁を飛び降りる刹那、振り返ると、呻く彼女に走り寄る女性の姿がみえた。
「先生」
「あいつらはあれくらいじゃ怪我もしないだろう。それにあっちにも優秀な医者がいるから心配するな」
それだけ言うとまた歩き出す。依然として腕をひかれたままの私はされるがままに先生についていった。
救護室に連れていかれると、先生は私の首を見る。
「こりゃ、痕が残るな」
先生はそう言いながら、いつもとは違っててきぱきと私の首に処置を施していく。
「心配するな、俺はヤブじゃないからな。ちゃんと医者の免許持ってる」
そういえば、先生は救護室の先生だった。
「お前、俺の忠告聞かなかったな」
「ごめんなさい」
「壁の向こうにいる奴らはな、俺らとは全然違う存在なんだよ」
先生は手を止めないまま、静かに語る。
「あいつらは俺らを見ると食い気が抑えられないんだ。だから壁を越えてこっちの人間とあっちの人間が会うことは禁止されている」
そんな話、聞いたことがなかった。
私は救護室の窓から外を見る。
彼女、驚いているみたいだった。それに、先生に強く突き飛ばされていた。大丈夫だろうか。私が会いたいと言ったばっかりに。
「どうして、あっちの街のことを私たちに教えてくれないんですか。それに、そんな関係の私たちがどうして壁なんて薄っぺらいもの一つを隔てて一緒にいるの。あんな、すぐに越えられるような壁」
先生はじっと私の瞳を見つめた。
「まあ、面と向かって会わなきゃ、いい奴らだからな。それはお前も知っているだろ。だから余計なことはお前たちには言わない方向にすると、お偉いさんが決めている」
それに、と先生は首元を抑えて、かゆそうにぽりぽりと包帯の上からかいた。
「向こう側のあいつらは、会うことさえしなければ、いいお友だちだ。だからみんな、あいつらから離れようなんて思えないんだよ。あの壁ぐらいが丁度いいのさ」
月光が、外の壁を照らしている。高くもないが、長く、果てなく続く壁。
「ルールってのはな、お前らを守るためにあるもんだよ」
先生は独りごとのように呟いた。
暫く私は寮の自室で謹慎処分となった。あれ以来、私はずっと首に包帯を巻いている。
処分がとけて、穏やかな昼下がり。私はいつもの場所に向かった。
いつものように声をかけると、いつもと同じ返事がした。
「私、謹慎させられちゃった」
「あなたも? 私もよ。――あの、私」
「うん――」
それからも、壁の向こうの彼女とはよく話をした。友だちだった。一番の友だちだった。もう二度と、壁を越えて会うことはなかったけれど。
私たちは、何故かどうしても惹かれ合うのだ。会うことはできないくせに。
私は今日も彼女と壁越しに昼時を過ごす。時々、包帯の上から首元をかきながら。
壁の向こうの隣街 橘花やよい @yayoi326
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