三崎禁区

島流十次

◾︎◾︎ ◾︎


 じゅわじゅわと音がする。というのはたぶん、蝉の声。


 わたしは目を覚ました。

 半袖から伸びる腕にクーラーの弱い風が心地よい教室では、退屈な数学の授業がいまだに繰り広げられていて、黒板には、よくわからない数式が散りばめられている。窓から見える木の緑の葉と、太陽のおだやかな光をぼんやりと眺めて、先生にばれないようにそっとあくびをした。


「ねえ、知ってる」


 わたしと同じく退屈なのであろう、後ろの席の女の子が、隣の子に話しかけたらしい。声がきこえた。今更ノートをとる気もまったくないわたしは、うしろからの嬉々としたその声に耳を傾け、頬杖をついた。


「吸血鬼が出たんだって」


 わたしは、椅子から転げ落ちそうになる。


「なに、それ」もうひとりの女の子がちょっと笑って聞き返す。

「昨日、うちの町で殺人あったじゃん、あれ、吸血鬼がやったんだって」


 それはあまりにも不謹慎で、そしてあまりにも馬鹿げた話だった。


「はあー? 吸血鬼とか、エミ、馬鹿じゃん」女の子は笑い飛ばす。「エミ、ほんと、そういうの好きだよねえ。都市伝説とかさ」


 ほんとほんとー馬鹿じゃん。でもわたしもそういうの好きだよ、割とね。頭の中で会話に混じって、シャーペンの先を指でつついて遊んでいると、ふと、視線をかんじてわたしは隣のほうを見る。

 その視線の主は、わたしの隣のまた隣の席に座っている、三崎くんだった。三崎くんとは同じクラスなのにも関わらず、まったく話したこともなければ接点もない。だから、三崎くんの視線を受けるのは、なんだか変なかんじがしたけれど、やっぱりドキドキした。三崎くんはいつもどおりのつめたい無表情でじっとわたしを見つめて、そして目を反らす。

 なんじゃあ、三崎くん。わたしはそう思ってむっとしたけれど、目が合ったことにまた嬉しくなって顔をほころばせて、さっきのことなんて簡単に忘れるのだった。



「もしもし。えーだいじょうぶ。わたしだいじょうぶだってーべつにこわくないし、わたしのこと狙うひとなんていないよわかるでしょ。それにもうすぐバス乗るから。えー、いらないいらない、ママの運転こわいんだもん。とりあえずひとりで帰るよだいじょうぶだから。うん、うん、それじゃ。あ帰りちょっと寄り道するかもしれないから、おそくなるかも。うんそれじゃあわかったー」


 わたしは電話を切る。

 校門を出て帰ろうとしていると、お母さんから電話がかかってきたのだ。殺人事件があったのはつい昨日のことで、それにうちの町で起きたものだから、お母さんはわたしのことを相当心配してくれて、車でむかえる、とか言い出した。けれど、わたしはお母さんの運転する車よりもやさしいおにいさんの運転するバスのほうが好きだから、お母さんの誘いを断った。じっさい、学校からバス停まですぐ近くだし、とくになにもなかった。

 ぎらぎらとわたしを照らす太陽から逃げるようにしてバスに乗り込むと、冷たい空気がわたしを出迎えた。わたしは中央のほうにある二人掛けの席の窓側に座りこんで、耳からはイヤホンを垂らし音楽をきき、発車するまでしきりにスマホをいじる。


〈バス涼しいーみんなもバスで帰るべき〉


 同じクラスの女の子たちのグループのチャットでそんなことを言うと、すぐに他の子から返事がきた。〈いいなあルンちゃん。あたしこれから部活だから暑いよ〉


 わたしはチャットを続けた。


〈そうだ今日話聞いてたんだけど吸血鬼のってまじなの〉

〈えールンちゃんきいてたの。ほんとだよ、吸血鬼だって〉

〈でもテレビとかではそんなこと言ってないじゃん〉

〈そんなことぜったいテレビで言わないよだって言えないじゃん。でもねなんか、その事件ではね死体が変だったんだって。ほら事件の被害者女子高生でしょ、それでねその死体のね体の血が抜かれてたんだって。死体真っ白だったって。だから吸血鬼がやったんだよ絶対。うちのお兄ちゃん駐在さんじゃん、だからこっそり教えてくれたの〉

〈それさ吸血鬼とかじゃなくてただの変質者みたいなのじゃないの〉

〈えーぜったい吸血鬼だよー、まじ。それにそうだったらおもしろいよ。あ、じゃああたし部活行かないといけないからじゃあねールンちゃんもバス降りてから気をつけてね!〉


 吸血鬼は、狼男、フランケンシュタインと並んで「三大怪物」、と言われる。まあ、創作において登場するもので、そこではなぜ吸血鬼になるかというと、生前に犯罪を犯したり、神さまや信仰に反する行為をしたり、惨殺されたり、事故死したり、自殺したり、お葬式とかに不備があったり、なんらかの理由があって後悔していたりというのがあるかららしい。


〈わたしは狙われないからだいじょうぶ〉


 昔はほんとうに信じていたひとがいたそうで、吸血鬼退治をするひともいたらしい。バンパイア・ハンターって言うとかっこいい。首を切り落としたり、心臓に杭を打ち込んで退治したとか。ウィキペディアはなんでも教えてくれる。

 そう、窓の外の太陽を見て思い出した。吸血鬼は、日光も苦手。銀の武器は、吸血鬼に有効。それと、よくある話では、にんにくも苦手だって。吸血鬼の見た目としては、ぶよぶよとした血の塊のようで不可解な見た目、あるいは、人間で――


 そこで、わたしはバスに入ってくるある人物を視界にとらえた。


 三崎くんだった。三崎くんもバス通学だったんだ、って、わたしはぼんやりと思う。それにしても、三崎くんの肌はわたしよりも白かった。そう、まるで、吸血鬼みたいな。そう考えてひとりで笑いそうになる。でももしほんとうに三崎くんが吸血鬼なのだったら、わたし、別に血を吸われてもいい。あの綺麗な肌の下でわたしの血が栄養分となった三崎くんの血が流れるのだ、と考えたら、なんとなくしあわせなような気がしたから。

 そう、こんなことを思う時点で、わたしは三崎くんにもはや恋愛感情に近いようなものを抱いていた。話したことだって、一度もないのに。だって、そう、寝ぼけまなこで朝ごはんを食べるとき、ぼんやりと三崎くんのことを考えて、そしてわたしはときめいているくらいだし、三崎くんもわたしに気づいてくれたらいいのになって、考えているくらいだから、それくらいには、三崎くんのことを好きなのだと思う。

 三崎くんのことをじっと見つめていたら、三崎くんと目が合った。わたしの呼吸はとまって、ちいさなわたしは、三崎くんの冷たい瞳に見下ろされる。そのまま数秒わたしは三崎くんに見つめられて、わたしの心臓は蒸発するかと思った。


 駄目だよ、それ以上は。


 そう思っていると、三崎くんはそっとわたしから目を反らし、わたしの目の前の席に静かに座った。時間が解放されたように、わたしの体からはどっと力が抜ける。


 ああ緊張した。

 そうして、わたしは、おそるおそる目の前の三崎くんの後ろ姿を見つめる。黒い髪は、白い首とは対照的だった。なめらかでまるで陶器のような肌に、わたしはくぎづけになる。三崎くんはわたしの持っていないものを持っている。そう、たとえば、この白い肌とか、繊細さとか、いろいろ。わたしが持っていなくて、ほしいもの――じつは、恋愛感情のうしろには、ちょうど憧れというものがあったのかもしれない。

 そこでわたしは、気づいた。三崎くんの、おかしなところに。


 あれ、って、思わず声を上げそうになる。

 三崎くんの首筋に、赤い小さな点が二つ、並ぶようにしてあったから。

 三崎くん。三崎くん、これ、どうしたの。三崎くん。ひょっとしたら、三崎くん。

「なんて。ね」小さな小さな声で、わたしはそう言って、笑っちゃった。

 三崎くんにも、デキモノとか、できるのかしら、場所はおかしいけれど、これ、思われニキビとか、そういうものかしら。わたしは楽しくなって、あかるい窓の外を見る。思われニキビだとしたら、ひとつはわたしの。じゃあふたつめは、誰のだろう。

 わたしが一瞬鼻歌を歌っても、三崎くんは振り向かなかった。たまに三崎くんのほうをちらりと見てみると、三崎くんは手帳になにかをチェックしたりメモをしたりしているようで、忙しいみたいだった。

 そのあと、三崎くんとはわたしと一緒の駅に降りたけれど、わたしと正反対の方向に向かって帰ってしまったから、べつにたいしたイベントはなかった。



「えーだめだめ。だってミナ趣味悪いもん。趣味悪いっていうのはーそういう意味じゃなくてミナは男の子のこと顔で選んでるってことだよ。顔よければすべてよしなんてわたし信じれないし絶対そういうのやだもん。うんわたし? B専じゃないもん三崎くんは王子様だから。ねえわたしB専って言葉嫌い。うん三崎くんの良さはねー語らせると長いの」


 お風呂上り、適当にワンピース一枚着て、ベッドに寝転がり、わたしは隣のクラスのナミとケータイで電話をしていた。

 クーラーが苦手なわたしの部屋には扇風機がドアの近くにひとつ置いてあって、弱い風をわたしの四肢に浴びさせる。もう九月のくせして蝉はわんわん鳴くし、お昼に太陽はギランギラン、夜に温度は上昇しまくり、夏って実感があって嬉しいけれど正直だるい。そのことを再確認する。


「わたしね意外と乙女なの」


 と言うと、ミナに「じぶんで言うな」と笑い飛ばされた。


「だってじぶんから三崎くんに話しかけられないし、三崎くんから話しかけてもらえるのいまだに待ってるし、そうさっき言ったみたいに三崎くんのこと王子様だと思ってる。だからねーいつかなにかあるんじゃないかって」わたしは頬に手をあてた。


 三崎くんて無愛想だしなに考えてるかわからないしいつもぼうっとしてるっていうかむっとしてるっていうかそんなかんじ。ねえ特別かっこいいってわけでもないでしょ、頭がいいってわけでもないでしょ、目立たないし、静かだし。だからルンちゃんの目っておかしいよ。ミナは笑った。わたしも笑う。

 そんなふうに話していると、お母さんがやってきたのか、ドア越しに「まだ電話してるのー? 早く寝ちゃいなさいよ」だなんて言ってくる。わたしは上の空で「うんうんー」と答えてまだ電話をするのだった。


 ふと、なんとなく窓のほうに行って、ミナの話に耳を傾けながらも、わたしは窓を開けて空を見た。「あ星が綺麗」。ミナも自分の部屋の窓の外を見たのか、「あ本当だ」。

 それからしばらく間があって、ミナは「アイス買ってこようなかなあ」だなんて、この時間帯なのに言いだす。そうして、ミナはほんとうにアイスをコンビニで買いたいらしいから、それをよいタイミングとして、わたしたちは通話を終了させた。

 そのままわたしは窓の外を見る。じっと見ていると、道を誰かが歩いていて、わたしはそれを観察する。その姿には、見覚えがあった。うちの近くを歩く、そのひと。月と星の白い光にぼんやりと照らされているのは、


「三崎くん」


 運命みたい。そう思った。なぜか三崎くんは黒いジャージを着ていた。ゆっくりと住宅街を歩いている。なんでジャージなのだろう、黒が似合っているからいいけれど、ひょっとして噂通り私服が残念なひとなのかなと考えてわたしはなぜか嬉しくなって、考えるよりも先に、体が動いていた。


「ママ、ちょっとアイス買ってくるね」と、リビングで映画を見ているお母さんに声をかけて、わたしはワンピース一枚の姿で、外に出た。うちのすぐ目の前にコンビニはあるから、お母さんはよくしぶしぶわたしの深夜のお買い物を許してくれる。今回にいたってはお買いものでもなんでもなく、ミナみたいにアイスを食べたくなったわけでもない。ただ、三崎くんに会いたいだけだった。ちょっと三崎くんとばったり会うふりをして、これを機に、三崎くんに話しかけられればと思った。月が浮かんでいて、星がきらめいている夜空の下でなんて、素敵じゃない。わたしは夜道をゆっくり歩いた。

 ミナは近所に住んでいる。だからきっとここのコンビニを使うんだろうなと目の前のコンビニを見て思って、不安になった。三崎くんと遭遇しているわたしを見られたら、恥ずかしいから。


 三崎くんはすぐに見つかった。わたしがコンビニの前でつっ立っていると、三崎くんは、片手をポケットに突っこんだまま歩いてこちら側に来る。目は下を向いているから、わたしには気づいていない様子だった。黒いジャージには金色のラインがあって、それは街灯に輝く。


「あ、あの」わたしの声は震えた。「三崎くん」


 するとようやく、三崎くんは顔をあげる。わたしの姿を確認して、はっとしたようで、なぜか三崎くんは後ろを振り向いてから、わたしのほうを見た。


「三崎くんも……このへんに住んでたんだ」


 三崎くんはわたしを見つめる。途端にわたしは恥ずかしくなって、目を伏せた。そう、よくよく考えたら、わたしが今着ているワンピース、むだにフリルがついていて、もっと恥ずかしい。それに、真っ白だし。わたし、なにを考えているのだろう。

 三崎くん、ランニング? そう、わたしはちょっとコンビニに用があって。奇遇だね。そんなふうに話しかけようとしたけれど、わたしの口は思うように動かなかった。そうして、わたしが三崎くんに声をかける前に、三崎くんが口を開いてしまう。


「相田さん」


 あ、わたしの名字、知ってたんだ。わたしの顔は熱くなった。

 すると、わたしがなにかを言うまえに、まるで猫かなにかが騒ぐように、「ギャアッ」と、叫び声がどこからか響いた。わたしはびっくりして思わず体を震わせる。三崎くんのほうはいたって冷静で、ふっと顔を上げた。そうして空を数秒見上げると、すぐに三崎くんは走り出す。

 あ三崎くん! そうやって叫んで、わたしはなぜか三崎くんの背中を追いかけた。そうして三崎くんは突然立ち止まって、足元を見る。「どうしたの」とわたしがきくと、三崎くんは、「来ちゃだめだ」と言って、「見ちゃだめだ」と付け加える。


 わたしは三崎くんの横に立った。


「見るな」

 語気を強くして三崎くんは叫んだけれど、もう遅い。

 ミナが、仰向けに倒れていた。

 三崎くんよりも真っ白な肌は、蛍光灯の光のようで、剥かれている白目は、きれいな真珠玉。ミナの真っ直ぐできれいな髪は、扇を描くようにひろがっている。首筋には、丸く、深い、大きな傷が二つあって、中は空洞だった。ひろがっているのは、どこまでも闇だった。

 ミナ。わたしは気を失いそうになる。そのままミナのことを見つめようとしたけれど、三崎くんの冷たい片手によって目を覆われた。わたしの視界はふさがれる。


「逃げて」三崎くんはわたしの耳元でそうそっと囁いた。「走るんだ、自分の家まで」

「でも、三崎くん、三崎くん、わたし」


 こわいよ。そう言おうとしたときには涙がどっと溢れて、三崎くんの手を濡らした。三崎くんはゆっくりわたしの目から手をはなす。三崎くんの冷たい体温が、わたしの目元にほんのりと残って、それはすぐに夏の暑さによって消されてしまう。


「ねえ、どうして、ミナはどうしちゃったの、なんで、なんでミナ倒れてるの、ねえだれがなんでミナをこんなにしたの、三崎くん、わたし」


 すると、わたしたちの後ろから、どろどろ、びちゃびちゃと音がして、わたしも(三崎くんも)はっとして振り向いた。

 曲がり角からでてきたそれは、人型のものだった。人型ではあるものの、それはもはや人間でもなんでもない。肉体は赤黒い血のような液体でできていて、そう、まるで、経血のような。腕も足もなにもかも、そういう部分はちゃんとあるけれど、頭には顔というものがなくて、のっぺらぼうだった。身長は三崎くんよりも高くて、だいたい、二メートルはあると思う。そして、横に広く、体系としてはまるで横綱のようだった。

 そいつの頭の部分が三崎くんのほうを向いたかと思うと、今度は、ぬっとわたしのほうに向いた。「ひっ」とわたしは思わず声をあげる。背筋に悪寒がはしって、全身には鳥肌がたつ。そいつには目なんかないのに、なんだか目が合ったような気がして、わたしは途端におそろしくなった。

 逃げなきゃ、と思ったけれど、それは杞憂だった。そのどろどろとした人型は、自らの意思で消えるかのように、地面に吸い込まれてゆっくりと去っていく。すると隣で三崎くんが静かに「くそ」と言って、歯を食いしばった。「また逃げられた……」


「三崎くん、あれ、なに……」


 わたしがきく。けれども、三崎くんはわたしの質問に答えなかった。そのかわりに、べつのことをわたしに言う。


「帰るんだ、早く、家に」

「でも、ミナが……」


 ミナの名前をきくと、三崎くんは一瞬悲しそうな表情を見せた。そして三崎くんは再度わたしに促す。「早く」


 わたしは後ろを振り向く。ほんのりと、鼻腔に血の香りが届いて、わたしは吐き気を覚える。あれがまた、わたしの前に姿を現したら――そう考えると、わたしはいてもたってもいられなくなり、これ以上のことを考えるよりも早く体が動いていた。わたしは三崎くんを一瞥して、まるで鞭にでも打たれたみたいに、家に向かって走り出す。

 あの、どろどろでぶよぶよな気持ち悪いの、なに? 三崎くんは? 三崎くんはなんだったの? ミナは? ミナはあれに殺されてしまったの? ミナはほんとに死んじゃったの? 三崎くん。三崎くん。

 わたしは泣きながら走った。途中でつまづきそうになっても走ったし、たとえ足がちぎれても走らなきゃいけないのだと思ったから、夢中になって走った。黒い夜空はまるで闇のようで、見上げたら吸い込まれてしまいそうな気がしたから、わたしはただ目の前だけを見ていた。

 そうして家について、涙と鼻水を流して大泣きしているわたしを見たお母さんが「どうしちゃったの」って、わたしにきく。けれど、わたしはなにも言えなかった。お母さんに、ミナのことも、あの化け物のことも言えなくて、「アイスが売ってなかったの」、とわかりやすい嘘をついて、それから自室に駆けこんで、ベッドに逃げた。

 体の震えも、寒気も、おそろしい記憶も、消えることはなかった。




「ねーやばくない? 昨日も起きたんでしょ? しかもうちの町だしーうちの学校の生徒だし。隣のクラスのミナちゃんって子なんでしょ。あたしミナちゃんと一回だけ話したことあるかも。そうそうこんなことがあっても休校にならないうちってどうにかしてるよねこんなにこっちは怖い思いしてるのにさー」


 お昼休みが始まったばかりのとき、エミはまたトイレの前でいくらかの女の子にそんな話をしていた。その前を通り過ぎようとしたわたしにエミは「あールンちゃん、ルンちゃんも一緒に教室でおひるごはん食べようよー」と誘われたけれど、わたしは断った。「ごめんもう約束しちゃってるんだ」。もちろん嘘だった。わたしは、じぶんのお弁当を持って、ゆっくりと食堂に向かった。

 三崎くんが食堂を利用しているひとだって言うのは、ずいぶん前から知っている。だから今日も、食堂にいるだろうと思った。そうして、食堂をのぞいてみると、奥のほうの席にやっぱり三崎くんがいた。今日の三崎くんは、ハンバーグ定食を食べていた。

 わたしは三崎くんの前にお弁当を置いた。するとハンバーグを一口口に運んだ三崎くんはわたしのことを見上げる。「一緒に、食べてもいい?」ときくと意外そうな顔をされたけれども、三崎くんがわたしを拒むことはなかった。わたしは席につく。

 するとおどろいたことに、三崎くんのほうからわたしに声をかけた。


「昨日は」ハンバーグを飲み込んで、「昨日は、ちゃんと帰れた……?」

「うん……帰れたよ」

「よかった」三崎くんはうつむいて、ハンバーグを食べる。


 そうして沈黙があって、三崎くんが、


「安西さんを……」安西さん、っていうのは、ミナのこと。「安西さんを、助けられなくて、ごめん」


 わたしは、なにも言えなかった。「ううん」ってそれだけ言うのでもよかったはずなのに、わたしは黙って、お母さんのつくった甘い卵焼きを食べるだけだった。


「ねえ。昨日の」わたしはべつのことを言う。「昨日の、秘密にしておいたほうが、いい?」


 昨日の、とは、あの化け物のこと。ミナのこと。あの場に、三崎くんと、それからわたしがいたということ。


「……うん」

「昨日、ランニングとか、してたの?」


 三崎くんは答えなかった。

 そこでわたしは、わざと言ってみる。


「あれ、三崎くん、首……」


 すると三崎くんはハッとした。かちゃりと食器をお皿に落として、三崎くんはすぐに、手で首筋を隠す。そして、わたしから目を反らした。


「きっと蚊に刺されたんだ」三崎くんはそう言う。


 でも、三崎くんの首にある二つのその小さな点々は、蚊に刺されでもなければ、思われニキビでもないんだって、わたしは薄々気づいていた。


 きりーつきょうつけーれーい。と、日直が言えば、みんなはまともに礼なんかしないで荷物を持って、すぐに散らばる。部活に行くひともいれば、家に帰るひともいるし、そのままぶらぶらするひともいるだろうし、バイトがあるからってすぐに学校を飛び出すひともいる。わたしはそのどれでもなかった。三崎くんについていかなきゃ、って、三崎くんを追いかけるひとだった。


 三崎くん。ききたいことまだ、あるよ。

 三崎くん。



 三崎くんって、なに?



 三崎くんの後姿をわたしは追いかけた。三崎くんはこのまま帰るのだろう。校舎を出て、校門をくぐろうとしていたときに、わたしは三崎くんの横に並んで、話しかける。


「三崎くんって、何部なの?」


 とつぜん現れたわたしに格別驚く様子もなく(ただ、目を丸くしたけれど)、わたしの質問にそっと静かに答えた。

「テニス」そう言う三崎くんが日焼けをしている様子は、まったくない。

「行かないの」

「うん……ここ最近行けてない」

「どうして」

「……仕事、が、あるから」


 バイトしてるの? そうわたしはきいてみたけれど、三崎くんは答えなかった。

 三崎くんの代わりに答えるように、近くの木で、蝉が鳴きだす。おまえにきいているんじゃないのに、おまえはしゃべれないだろうに。わたしは思わず片耳をふさいだ。蝉の声は、バスに乗り込んでからようやく消えた。

 バスにふたりで一緒に乗り込んで、わたしは三崎くんの隣に座った。三崎くんはわたしになにも言わなかったし、むしろわたしの存在をもう妥協しているようだった。


「三崎くん、うちの近所に住んでたんだね」


 わたしは三崎くんを見て言うけれど、三崎くんたら、窓の外ばかりを見ているんだから。表情は、よくわからない。でも、ひょっとしたら、わざとそうしているのかもしれない。

「ちがうよ」三崎くんはたぶん笑ってなんかいないけれど、あくまでもやさしい口調でそう言った。「おれの家は、隣の町。あそこには、住んでない」

「じゃあ、どうして」


 三崎くんは答えなかった。三崎くんにはたくさんの秘密があるようで、それを隠そうとしているようでもあった。わたしの質問に三崎くんはひどく考え込んで、バスがようやく発車して、何駅か通り過ぎたところで、それから三崎くんはまるで意を決したかのようにわたしに向かって口を開いた。


「おれの最寄、次だから」


 わたしは、じっと見つめられる。きっと、三崎くんは、わたしを試しているのだった。三崎くんの言っている意味がわかって、わたしは顎をひいて頷く。


「降りる。わたしも」


 三崎くんの最寄駅を降りてみれば、綺麗でおしゃれな住宅街がそこに広がった。こんなところにはじめてきたからって、わたしがやけにきょろきょろしていると、そのうちに三崎くんが「おれの家、あれ」って、ひとつの家を指差した。三崎くんは自慢げではなかったけれど、その先には大きな白い家があって、花壇には色とりどりのお花がたくさん咲いていて、ほんとうに綺麗で、わたしは思わず嘆息した。


「おじゃまします」とちゃんと言って、玄関にあがった。すると上の階からぱたぱたと誰かがおりてきた。若い女性だった。どこか、三崎くんと似ているなと思っていたら、三崎くんが小声で、「母」、と、とても短い紹介をしたから、そこでようやくわたしはこの美人さんが三崎くんのお母さんなのだとようやくきづいて、わたしの顔は熱くなった。


「あら、あらあら、まあ、チィくんたら。かわいらしい女の子、連れてきたのね」

「あ初めまし、て……相田ですいつもお世話に、なってます」慌てて頭を下げた。

「母さん。お茶。あとで、おれの部屋に持ってきて」


 三崎くんがそう言うと、三崎くんのお母さんは微笑んでまた二階にあがっていった。三崎くんは「こっち」とわたしを案内して、わたしと一緒に三階に行く。

 三崎くんの部屋は、シンプルだった。わたしがまたきょろきょろとしていると、お母さんがお盆に紅茶とケーキを二人分載せて部屋にきて、それを三崎くんに渡す。三崎くんはそれをベッドの前のミニテーブルに置いた。「ありがとうございます」とわたしが言うと、お母さんはわたしを見て優しく微笑んで、いそいそと部屋を出て行く。


「お母さんすごく綺麗なひと。三崎くんがうらやましい」床に座ったわたしはベッドに座った三崎くんにそう言った。「仲がいいんだね」


 お母さんが呼んでいた三崎くんのあだなを思い出した。そう、三崎くんの下の名前は――千博ちひろ――わたしは、紅茶を飲む。


「ほんとうの母親じゃないよ、あのひとは」

「え?」


 すると、三崎くんが立ち上がる。そして、クローゼットのような棚をゆっくりと開けた。

 わたしは三崎くんの横に立つ。

 視界の片隅がきらりと光ったような気がして、わたしは右のほうを見た。そこには、どこで手に入れたのだろうか、銀の斧がたてかけられていた。


「三崎くん」


 三崎くんは、さらにクローゼットの中にあるカラーボックスを開ける。

 一段目、杭、あのナイフ、大きな十字架、聖水の入ったボトル。香草。ワインの瓶。ニンニクの入った袋に、それから、蝋燭数本。

 二段目、あの夜の、ジャージ。

 三段目、吸血鬼に関する書物、多数。――『吸血鬼幻想』、『ゴシック名訳集成吸血妖鬼譚』、『スラヴ吸血鬼伝説考』、『吸血鬼伝承―「生ける死体」の民俗学』、『ヴァンパイア―吸血鬼伝説の系譜』、『吸血鬼伝説』、『ヴァンパイアと屍体 死と埋葬のフォークロア』、『図解吸血鬼』。


「びっくりした?」三崎くんは苦笑した。「おかしいよね、おれ」


 三崎くんは、わたしと向き合った。


「おれ、半吸血鬼。見たでしょ、おれの、首の傷跡。おれはあの気持ち悪い化け物みたいな吸血鬼に、生半可に血を吸われたせいで半分だけ吸血鬼になった。だから、復讐なのかな、おれのしていることは。吸血鬼が吸血鬼を退治するなんて、おかしいよね」


 このままアレがいれば、おれみたいな半吸血鬼の奴が出てくるかもしれないし、また女の子がごろごろ死んでいくから、退治しようとしてるっていうのもあるんだけど。と、三崎くんは付け足す。


「おれとは、もう、関わらないほうが、いいよ。おれが半吸血鬼で、吸血鬼狩りをしようとしているってことは、どういうことか、わかる……きみがおれと一緒にいれば、巻き込まれて、きみもいずれあの吸血鬼に血を吸い取られて、おしまい。それか、もしおれが暴走でもすれば、おれの知らないうちにきみはおれの食料になるんだ」


 わたしの心臓は、大きく脈打つ。


「おれはたぶん、近々死ぬし」三崎くんは首を傾けた。「半吸血鬼になってから、数週間、一度も血を飲んでいない。血は、ほら、生命源だから……そう、さっき言った暴走って言うのは、おれの憶測なんだけれど。飢えて死ぬ前に、おれの意識なんか吹っ飛んでまわりのひとを食いちぎってでもして血を飲もうとするかもしれないから。だからきみも、危ないよ、おれと、いたら」

「わたしの血を飲めばいいよ」わたしはすぐにそう言っていた。「そうしたら三崎くん生きていられるでしょ、だいじょうぶなんでしょ、じゃあわたしのを飲めばいいよ、わたしはどうなってもいいし三崎くんが死なないなら、生きられるのなら、それで、いいの」


 あのとき考えた。あのときはまるで冗談みたいにのんびりと思っていたけれど、三崎くんになら、別にいいかな、って、バスの中で。

 けれど、三崎くんは、また、答えてくれなかった。


「もう、わかったね。吸血鬼は、ただの都市伝説なんかじゃない。きみが夕べみたアレはほんものの吸血鬼だし、それに――」


 三崎くんがおもむろにナイフを手に取る。

 そして、半袖のワイシャツからのびる自分の白い腕に、ざっくりと、ナイフを突き刺した。それから、ナイフを腕から引っこ抜く。三崎くんの表情は変わらなかった。

 わたしは目を覆う。そうして、ゆっくりと手をおろしてみれば、三崎くんの腕から垂れた血はじゅわりと蒸発するように消えて、ぱっくりと開いた傷は、一瞬で消えてしまう。


「本物なんだよ、おれ」


 半分だけだけれどね、と言って、三崎くんはナイフを適当にポケットしまう。「今日のことは全部忘れればいいし、おれのことだって、気にしなくていい。でも、ひとつだけ、お願いがある。きみが外を歩くときは、よく注意してほしい。それか、あまり外を出歩かないでほしい。きみがあの吸血鬼やおれの餌食なんかにならないように」


 ね。言いながら、はじめて笑って、三崎くんはわたしの肩にやさしく触れる。


「でも、わたし」

「さようなら。あしたもきっと、学校でね」





『今日、ママとパパ、お仕事で帰ってこないんだってーだからおねえちゃんよろしくね。そう、わたしもね今彼氏といてー、うふ、今日ね彼氏の家泊まるの。だからルンちゃん、あ間違えたーお姉ちゃんひとりでお留守番よろしくね。ママとパパあしたのお昼になったらたぶんお家つくんだって。そうわたしはねそのままユッケとー、あ、ユッケっていうのは彼氏のあだ名なんだけどーユッケとね遊園地行くんだーあした。お姉ちゃんみじめ! それじゃあお留守番よろしくねーお母さんがね夜ご飯は冷蔵庫にあるって言ってたよ。じゃバイバーイ!』


 妹から留守電が入っていた。わたしは聞き流すようにして留守電を聞き終えて、ケータイをテーブルの上に置く。冷蔵庫を開けてみると、簡単に調理すれば用意できるようなものが入っていたけれど、めんどうくさいなあと思う。

 あ、そうだ、って、ようやくそこでわたしは思い出す。


 三崎くん。

 わたしは、台所に立った。それから、包丁を手に取る。

「死んじゃダメ」、絶対に。

 わたしは、包丁を手首に突き立てた。




 外は、すっかり静か。すっかり真っ暗。ひとはあまり通らない。東京にいる友達が、うちの県じゃ星がたくさん見られるけど、東京じゃ、滅多に見られないよ、って、そう言っていた。いくつかの白い星は、まるで笑うように輝く。そう、月なんかは、ちょうど真ん丸で満月で、とっても綺麗だなってわたしは思う。

 そうして、わたしは追われる。

 わたしはそれなりに走った。すぐうしろでは、あの赤黒いやつがどろどろと足を引きずりながらわたしを追っている。意外にスピードは速くて、うーん、うちの妹よりは走るの速いかな。妹は今頃あのクソ彼氏とクソ彼氏の家でへんなことでもしているのだろう。そう考えると、悲しくなって、それで、わたしは三崎くんのことを急に思い出す。

 妹は馬鹿。エミもお馬鹿。ミナだって。アイス食べたいだなんて、思わなければ、今頃、わたしとそのへんで遊んでたのに。三崎くんだって馬鹿だ。


「三崎くん!」


 本人がいないのに、わたしは叫んだ。すると、どこからか「相田さん?」って、三崎くんが驚く声が聞こえて、わたしは適当に右に曲がってみる。すると案の定偶然そこに黒ジャージ姿の三崎くんがいて、わたしは、漫画みたいに、ドーンと三崎くんにぶつかって、尻餅をついた。


「な」三崎くんはわたしを見て一瞬絶句して、それから、わたしを厳しく叱るように叫んだ。「なにやってんだ。もう、おれにかかわるなって言っただろ」

「なにをやってるって、見てわからないの。おとりをやってるの!」

 わたしは後ろを指差した。その先にはこちらに追いつこうとする吸血鬼がいて、三崎くんはポケットからナイフとそれから杭を取り出した。


「わたしも調べたのだから吸血鬼のこと知ってるよ。異性の血を好んで飲むんでしょ。あいつ、男だから、今までずっと女の子襲って血飲んでたんでしょ、だったらわたしいちおう女の子だしちょうどいいかなと思って外出歩いてみたの、そうしたらやっぱりアレが出てきて、わたしのこと追いかけてきて、早く三崎くん来ないかなと思っておとりしてたら今こうして三崎くんと出会ったの」

「出歩かないでくれって、あれほど言ったのに」

「こんどこそ退治しちゃおう。それで、これからは三崎くんも、ゆっくり過ごせばいいよ」

 三崎くんは、わたしを見た。そして、こちらにたどり着いたあの吸血鬼を、一瞥する。


「おれが長持ちすればいいんだけど」


 三崎くんはナイフを力強く握った。

 吸血鬼としてはもう三崎くんはどうでもいいらしい、あくまで標的はわたしらしく、三崎くんにではなくわたしにぬっと腕を長く伸ばしてくる。手がわたしの首をあとちょっとで掴むというところで、三崎くんはまるで木の枝でも切り落とすように簡単にその手を切り落とした。腕が上にぽーんと飛んで、ただの液体となったそれは、びちゃびちゃと地面に落ちて、蒸発して消える。

 三崎くんをどかすように、吸血鬼は三崎くんの腕を掴んだ。ぐっと腕を握られて、三崎くんの腕からは、骨の軋むような音がした。「いたっ」と三崎くんが声を上げるものの、まったく痛そうではない調子だった。三崎くんは吸血鬼の腕をまた切り落とす。

 半吸血鬼の三崎くんでさえあれだけの治癒力を持っているのなら、当然、完全体であるこの吸血鬼の治癒力だって三崎くんに劣らない。腕は一瞬にして映えた。


「う」わたしは声を上げる。これは確実に死なないだろう。


 わたしはあたりを見渡した。そして、自動販売機の横にあった水色のゴミ箱に目をつける。「あ」と声をあげて、三崎くんが吸血鬼と対峙しているあいだに、「よいしょ」、ゴミ箱をがんばって吸血鬼の近くまで引っ張った。


「三崎くん、これ、これ。これ、使って!」

「そんなもん何に」

「踏み台!」

「踏み台?」


 三崎くんはゴミ箱を見て、それから吸血鬼のほうを見る。二メートル近くある吸血鬼を見上げて、すぐに三崎くんは気づいたのか、「そうか」と一言言って後ろに回り、ゴミ箱に足をかけた。


「あんまり安定しないな」

「だいじょうぶわたしがちゃんとおさえてるから」


 わたしがゴミ箱の下のほうをしっかりとおさえて、三崎くんはゴミ箱の蓋の上に立った。


「切れってことだよね」

「そう」わたしは頷く。吸血鬼がわたしに手を伸ばそうとする。

「首を」

「そう」吸血鬼の手が三崎くんの横を通ってわたしのほうに近づいてきた。「はやく」


 ゴミ箱の上に立ったことによって吸血鬼の頭の高さと同じになった三崎くんは、不利から有利になった。

 三崎くんが、すぱっと、吸血鬼の首を切り落とす。

 すると呆気なく吸血鬼の頭はびちゃりと落ちた。「だいじょうぶかな」。三崎くんはゴミ箱から降りた。わたしと一緒に、崩れていく吸血鬼の首から下を眺める。

 頭はじゅわりと消えて、首から下は、どろどろと小さくなっていく。そうして、三崎くんと同じくらいの身長になっただろうかと思ったとき、赤黒い血でできたような巨体な吸血鬼の肉体がぱっくりと開いた。

 中には、少女が数人、眠っていた。

 真っ白で、生気を失ったのにも関わらず、若々しい肌。真っ直ぐな髪のひとりの少女には、見覚えがあった。「ミナ……」ひとりは、ミナだった。それから、わたしたちと同じ学校の制服を着た女の子が、三人くらい。


 どろどろと肉体は崩れ、消え、女の子たちだけが地面に残される。


 わたしはすぐに彼女たちに駆け寄った。そうして、しゃがんで、ミナの頬に触れようとする。けれど、

「あ」

 ミナを含め、吸血鬼の被害者だったのだろう女の子たちは、どろりと粘り気のある血液に一瞬にして変わって、あの吸血鬼のように、消えてしまった。


「なんで……」


 わたしは立ち上がる。そこではじめて、じぶんが涙を流していることに気づいた。


「相田さん」


 三崎くんがわたしにそっと手を伸ばして、わたしの肩に触れる。三崎くんの黒い瞳がわたしをうつす。わたしはじっと三崎くんの瞳を見つめた。ああ、やっぱり、三崎くんになら、血を吸われてもいいんだけどなあ、って、バスの中のときと同じことをまた思う。わたしの血が三崎くんの栄養分となれば、三崎くんのこの目は、しばらくは輝くだろうし、そしたらわたしだって、幸せじゃない。そんなことを考えていると、三崎くんの瞳が、赤くなった。


「三崎くん」


 三崎くんはそれをスイッチにしたみたいに地面に崩れ落ちる。三崎くんは、自分の胸をおさえて、苦しそうに呻いた。


「三崎くん」


 わたしは、三崎くんの力の抜けた体を抱き寄せた。三崎くん、死んじゃうの、ほんとうに、死んじゃうの。せっかく、さっき、あの吸血鬼を呆気なく倒したのに。


「三崎くん」


 もう一回呼ぶと、三崎くんが、顔を上げる。赤い瞳が、きらりと光った。目が合う。その瞬間に、三崎くんの手が動いた。わたしの肩は三崎くんの手に強くつかまれる。わたしもさっきの三崎くんみたいにうめき声をあげた。三崎くんの爪が肩の肉に思い切り突き刺さるようで、でも、きっと三崎くんにはそんな自覚はない。三崎くんの表情はいつもの無表情よりも死んだようで、意識を失っているようだった。

 三崎くんが、わたしの首筋に顔を近づける。

 すこし、妥協してしまいそうになったけれど、わたしはすぐに我に返った。そう、このときのために用意しておいたのものがある。わたしは片手でワンピースのポケットに手をつっこみ、二百ミリリットルのペットボトルを取り出し、片手でキャップを開けた。


「だいじょうぶだよ三崎くん」


 ペットボトルを持っていないほうの手で、三崎くんの頬に触れる。三崎くんの顔は首筋からちょっとはなれて、わたしのほうを向く。

 うふ、って、馬鹿みたいにわたしは笑って、

 ペットボトルの飲み口を三崎くんの口にぶっこんだ。


「ぐ」と、三崎くんが声を上げて、わたしの勢いが強かったのか、ペットボトルを口にはめたまま後ろに倒れこんだ。そのおかげで、ペットボトルの中に入った赤い液体は三崎くんの口の中に流れていく。三崎くんの喉仏がきれいに動いて、道中で、ゴクリという音が静かに響いた。その音が数回響いたとき、三崎くんの瞳は元の黒色にゆっくりと戻っていく。

 わたしは、三崎くんの口から二百ミリリットル飲料用ペットボトルを引っこ抜いた。そのペットボトルには、液体はおそらく二百ミリリットルも入っていなかったと思う。せいぜい二分の一くらい。

 三崎くんががばりと起き上がった。わたしは三崎くんの顔を覗き込む。


「よかった。死ななくて」

「ど」三崎くんは自分の口を拭った。「どういうことなにこれ」

「今日キッチンでね夜ご飯を作るついでに三崎くんのご飯も作ったの。三崎くんに死んじゃわれたらいちばんこまるのはきっとわたしでしょ、それに直接飲むよりはよかったでしょ。外に出る直前まで冷蔵庫に入れておいたから結構新鮮にしておけたと思うんだけど。そうわたしねー不健康なんだって。ママにも、保健室の先生にも言われるの。でねー、この時期蚊ってよく出るでしょ、よくどの血液型が蚊に血を吸われやすいとか言われるけど、蚊ってね健康なひとの血が好きなんだって。でもわたしやっぱり不健康らしくてこの夏一回も蚊に刺されてないのね、だからひょっとしたらねわたしの血まずいかもしれないんだけどもし本当にまずかったのならごめんね」

「いや、まずいとかおいしいとかじゃなくて。それよりも、なんで、自分の血……どうやって、採ったんだ」

「秘密」


 三崎くんはじっとわたしのことを観察した。と、思いきや、わたしの腕をとって、手首を確認する。わたしの手首の長い傷跡を見て、三崎くんはぎょっとした。「馬鹿」

「だって、しかたないじゃん、死んでほしくなかったんだよ、三崎くんに、三崎くんがいなくなっちゃったら、わたし、嫌だよ、せっかく三崎くんとお話できたのに、どうして、三崎くんに死なれなきゃいけないの……」


 泣きそうになったけれど、それにね、とわたしは付け加えて、


「べつに、だいじょうぶだよ、心配しなくて。なんかねー、そう、手首切ったときに、べつに痛かったのはほんとだけど、傷口がねすぐにふさいだんだ三崎くんみたいに」


 三崎くんは目を丸くした。「それ、どういうこと」


「三崎くんみたいに傷跡も消えたってわけじゃなかったけど、血を出したあとに、もういいんだけどなーって思ってたら、傷口が三崎くんみたいにすぐにくっついて、それで傷跡だけ残って。だから痛かっただけで平気だよわたし、なんか、傷治るのか早いひとになったのかな」


 三崎くんは数秒間黙った。そして、ハッとする。


「そっか。どういうことか、わかった」

 三崎くんはそう言ってうつむいて、なぜか顔を赤くした。



     ■


「あれからさー結局犯人見つからないけど事件はもう終わったじゃん、だからねーうちのお兄ちゃんがね事件がおさまったのはきっとバンパイアハンターのおかげだって言うんだ。お兄ちゃんが夜自転車でパトロールしてるときに見たんだって、ナイフ持ってる男の子とそれからなんかでっかい化け物みたいなの」

「バンパイアハンターとか、エミ、本気? それにエミのお兄ちゃんガチでどうかしてるよ。駐在さんならそこで立ち向かわなきゃただのザコじゃんー」

「怖くなって逃げたってお兄ちゃん言ってた。そうそう、それでね今度は吸血鬼に血を吸われた女の子たちが吸血鬼になって夜な夜な町を徘徊してるって噂わたしきいたの。お兄ちゃんがね吸血鬼について調べてたんだけどー、吸血鬼に殺されたひともそのうち吸血鬼になっちゃうらしいよ。うちの近所の有馬くん見たんだって、死んだみたいなかんじの真っ白な肌した女の子が口から血出して町をうろうろしてるーって」


 エミは、お馬鹿だから仕方がない。今日も、放課後、女子トイレのすぐ近くで、こんなふうに、ほかの女の子たちにこんなことをうれしそうに話しているんだから。


「あ、ルンちゃん、今日ルンちゃんもカラオケ行こうよー」

「ごめん。今日、用事があるんだ。次行くときは、わたしも行くね」


 やんわりと断ってしまったけれど、用事があるというのは、事実だった。

 三崎くんたら、きっとわたしを待たずにさっさとバス停のほうに行ってしまった。それをわたしは追いかけなくちゃいけないから、すぐに校舎を出る。

 べつに、今度は三崎くんも直接わたしの血を飲んじゃえば、それでいいのにって、わたしは思って、校門をくぐった。半分くらいならわたしも死なないだろうし、ひょっとしたら手首の傷みたいにいい具合に回復するかもしれない。わたしも吸血鬼になったら、そう、三崎くんの血を飲んでみればいい。でも、吸血鬼が吸血鬼の血を飲んだら、一体どうなるのだろう。

 わからないことは、まだたくさんある。でもきっとそれは、ウィキペディアで調べても出てこない。そう、たとえば、なんで三崎くんがあのとき顔を赤くしたのか、とか。

 まあどうにかなるかな。

 わたしは軽く走ってバス停に向かった。バス停ではやっぱり三崎くんが立っていて、バスを待っている。わたしも、早く涼しいバスの中に避難したい。それで、三崎くんの隣の席に、また座る。


 じゅわじゅわと音がする。というのは、絶対に、蝉の声。

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三崎禁区 島流十次 @smngs11

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