居てはいけない。
葉月りり
第1話
うちのマンションはペットの飼育は基本禁止だ。規約では部屋の中だけで飼えるものは可となっているので、数年前にこの解釈をめぐって総会まで開いて犬猫禁止を決定した。しかし、プリントを配っただけで規約を作り直すまではしなかった。
犬猫禁止決定後しばらくは犬猫の姿を見かけなかったが、最近、外廊下や階段で犬を抱えた人によく行き合う。あの数年前の総会の結果はもう忘れられてしまったのかもしれない。カバンやキャリーに入れてこっそり外に連れ出しているならまだマシで、とんがった鼻の下から赤い舌を出した犬を堂々とかわいいでしょと言わんばかりに抱いて歩かれると、ちょっと腹が立ってくる。
私は犬が嫌いだ。幼い頃に噛まれたことがあるせいだと思う。あの鳴き声も耳に障ってしょうがない。外廊下ですれ違うときは、はっきり言って怖いというのが本当のところだ。
一度犬を抱いた人に
「このマンション、犬猫禁止ですよ。知らないんですか?」
と、注意してみたことがある。その人は悪びれもせず
「でもぉ、この子、あんまり吠えないからいいかと思ってぇ」
軽い。あまりの軽さにびっくりしてしまって、
「せめて、キャリーに入れるくらいはしてください!」
というのがやっとだった。
ある朝、玄関を出るとちょうど隣のご主人が出かけるのと一緒になった。
「おはようございます」
挨拶をしてご主人に先を譲って、後ろを数歩歩いたところで、ご主人がくるりと振り返って、自分の部屋の方に手を振った。私が手を振った先に目を向けると、そこは隣のうちの窓。ガラス戸が空いた網戸の向こう。子猫がいた。
「おとうさん! 行かないでー!」
とでも言いそうに網戸に手をかけてご主人を見つめている。
「どうです? うち、居るんですよ。かわいいでしょー」
か、かわいい! すごくかわいい! とんでもなくかわいい!
実は私は猫は好きだ。子供の頃から実家にはいつも猫がいた。だけど、ここはちゃんとしなくちゃ。
「えーーっ! このマンション、ペット禁止ですよ!」
ちょっとオーバーに言いすぎたかな。お隣と気まずくなっちゃ困るな。でも、ご主人は笑顔を崩さず、
「あれ? 室内で飼えるのはいいんじゃないんですか?」
「それ、金魚や小鳥、ハムスターの類までです。犬猫は禁止なんですよ。何年か前の総会で決まったんです」
ご主人はやっぱり笑顔のまま
「あ、そうなんですか。じゃ、内緒にしといてください」
もう一度子猫に手を振ってニコニコしたまま、階段の方へ歩いて行った。
軽い。軽すぎる。世の中こんなものなの? 私がかたすぎるの?
それにしてもかわいい。なんともかわいい。ずっと見ていたいほどかわいい。
それから出かけるときは必ずお隣の窓をチェックするようになった。窓辺にあの子がいるとなんか嬉しくなった。犬とすれ違うときはあんなに嫌なのに自分ながら現金だなと思う。
時々、ベランダで洗濯物を干しているとお隣の話し声が聞こえることがある。お隣が窓を開けていると聞こえるようで、奥さんが子猫を呼んでいるような声なんかすると、つい聞き耳を立ててしまう。
鳴き声、聞こえないかな。いつかベランダづたいに遊びに来ないかな。なんかいろいろ想像してしまう。
「内緒にしといてください」をしっかり守ってる上に窓辺のあの子に会えるのを楽しみにしている。これって共犯?
そんなある日、困ったことが起きた。ベランダで洗濯物を取り込んでいた時、かすかな臭いを感じた。私にはすぐにわかった。猫の排泄物の臭いだ。思わず洗濯物の匂いを嗅ぐ。大丈夫、洗濯物に臭いは移っていない。これは、きっとベランダで猫のトイレの始末をしたんだなと思った。気をつけてほしいなとは思ったけど、そのときだけのことだろうと気にしなかった。ところが、その臭いが頻繁に、日に日にきつくなってきた。
どういうことだろう。粗相をした敷物でもベランダに出してるのかな。
玄関横の窓辺にいるあの子はいつもかわいい。だけど、生きているんだから、食べもするし排泄もする。どんなにかわいくても臭いものは臭い。その辺の始末をきちんとしてあげることが愛情だ。
臭いは毎日になり、このまま放っておくわけにいかなくなった。「内緒にしといてください」なんて、もう無理。思い切って管理人さんに相談した。だけど、管理人さんは、直接注意すると言うのはこちらではできないので、記名で文書にして管理組合に出してくださいと言うだけだった。
困った。今の今、迷惑してるのにすぐに対応してもらえないなんて。お隣と気まずくなるのを覚悟で直談判するしかないのかな。
風向きで程度の差はあれ、ほぼ毎日この臭い。なんとなく酷く臭う時間帯もわかってきた。どうも猫が排泄した後、すぐに後始末をせずにベランダに出しておいて、手が空いたら始末しているようだ。自分が臭いからってベランダに出して、周りのことは考えないんだろうか。
うっ! 今日はまた特にひどい臭い! もう我慢できない! 隣へいくしかない!
と、そのとき隣から笑い声が聞こえた。何を話しているかはわからないが、話し声が聞こえる。ということは……
チャンスだ! 勇気を出して行動するときだ!
私は一度開けたサッシを閉めて、深呼吸して気持ちを落ち着けた。それから勢いよくサッシを開けた。
どんっ!
大きな音がした。そしてわざと音を立ててベランダサンダルを履いた。臭いのを我慢して大きく息を吸い、思い切り叫んだ。
「うわっ! 何この臭い! くっさぁ! どこから臭ってるの! やだ! 臭すぎるぅ!」
するとすぐに隣でガタガタ音がし出した。バタバタ足音。ガラガラ、キーキー、網戸の開く音。ベランダでもガタガタ音がし出した。しばらくして静かになると臭いもしなくなってきた。
やった! 聞こえたんだ!
その後、ピタッと臭いがすることはなくなった。トイレの始末はうちの中でやっているようだ。これは直談判したってことになるのかな。とりあえず管理組合に文書を出さずに解決した。でも、最近のペットの増え方は、じきに問題になるだろう。その時は、かわいいあの子のことは考えずにきちんと判断しようと思う。
相変わらず、玄関から外へ出たら、まずお隣の窓をみてしまう。そこにいたらじっと見つめあって、瞬きを一回。そうするとあの子も瞬きを返してくれるようになった。居てはいけないあの子とこっそりコミュニケーション。この気持ちは内緒で犬猫を飼っている人と同罪かもしれない。
居てはいけない。 葉月りり @tennenkobo
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