少女羽化不全

加湿器

少女羽化不全

きぃ、きぃと軋む自転車を漕いで、早朝の町を少年が走る。

左右に揺れる籠には、今朝、彼が汲んできたばかりの水が、大きなボトルに一本。

それから、袋に入ったパンが一切れと、花束が一つ。


額の汗を拭いながら、少年は走る。

彼がこの生活を始めてから、もう四年になる。


きいぃ、とひときわ大きな音をたてて、少年は施設の前に自転車を止めた。

籠から水と、パンと花束を手にとって、ある部屋を目指し、少年は歩き出す。


――彼と、蝶の子が出会ったのは、彼がまだ学校にも上がらぬ頃であったか。


蝶は、子を育てぬ生き物であるから、この町では、卵が見つかると一つの施設に集めて、ひっそりと蝶の子が巣立つまで育てる決まりであった。


少年は、元来内気でまじめな性分であったから、幼い時分ながら、親の言い含めた通り、施設に近づくようなことは無かったけれど。

その蝶の子は、活動的で、縛られることを嫌うたちであった。


『おまえ、人の子か?』


彼らの出会ったのは、施設から見て、森を一つ越えた所にある遊び場であった。

蝶の子は、これまで何年も、何人も使ってきただろう、お下がりの子供服を着て、施設の世話係の言うことも聞かず、森の中を駆け抜けてきたところである。


少年は、蝶の子について、話に聞いてはいたけれど、今、目の前に現れた、おおよそ人と変わらぬ姿の蝶の子が、遊んではいけない、関ってはいけないと言われ続けた、蝶の子であるとは露とも思わなんだった。


『この森の奥にな、川が沸いているぞ。一緒に遊ぼう。』


そうしてかけられた一言が、少年の人生を大きく変えた。

もともと、人の輪にあまり加わらなかった少年の手を引いて、蝶の子は、毎日のように森の中に分け入っていった。


しばらくして、彼女が蝶の子であることを少年は知ったが、すでに一番の遊び友達になっていた蝶の子に、離れようと告げることは、少年にはできぬつらい選択であった。


――こん、こん、と少年がドアをたたく。

いつものように返事はなかったが、開けるよ、と声をかけて、少年はドアを開く。

部屋の中には、18歳ほどの、蝶の少女が一人。

美しい髪、透き通るような白い肌。

似つかわしくないほど簡素な服を着た彼女の背中には、醜く折れ曲がり、左右で大きさの違った、黒いはねが、ゆらゆらと揺れている。


少年は、おはよう、と一言告げると、彼女の寝台のそばにある水桶の水を、今朝汲んできたものに入れ換えてやり、残った水は花瓶に注ぐと、花束の紐を解いて生けてやる。


蝶のむすめは、暫しの間、少年を見るでもなく、ぱたぱたと足を遊ばせていたが、朝の支度を終わらせた少年が、ぽん、と肩を叩くと、ゆらりとそちらを見やって、まるで今、彼に気づいたかのように、そっと顔を綻ばせるのだった。


――彼らの間に、溝が生まれだしたのは、少年が、学校に上がってからの事。

蝶の子は、相も変わらず縛られることを嫌い、少年が下校するのを見計らっては施設を抜け出していた。


『施設の先生はいつも、あれをやってはいけない、ここを出てはいけない、とばかり言うんだ。』


とある日、ジャングルジムの天辺に昇って、蝶の子は少年にそう言った。

視線の先では、優雅に四肢を躍らせながら、ぱたぱたと翅を広げ飛ぶ蝶の番いが、夕日の中へ溶けるように消えていった。


『私も、早く大人になって、どこか知らない場所へ飛んで行きたいな。そうなったら、オマエも一緒に空につれてってやる。』


蝶の子がそういって、早く大人になりたいと求めるほど、彼女に化せられたルールは、重く、不自由なものに感じるようだった。


少年にとって、蝶の子は初めての遊び相手であったから、学校に上がってほかの人間との付き合いができても、なるべくは、と、ほかに遊ぶもののいない蝶の子を優先していた。


それでも、どうしてもままならないということはあるもので。

それは、少年が13歳になる春のこと。少しばかり背の伸び悩む少年をよそに、蝶の子の体は、繭篭もりとその後の羽化に向けて、ぐんぐんと背の伸びていた頃。


学校でどうしても外せぬ用事があって、少年が、一週間ほど遊び場に顔の出せなかったことがあった。

一週間ぶりに少年が蝶の子を訪ねると、彼女はなにやら、赤く泣きはらした目で、一人遊び場の隅でうずくまっていた。


それまでも何度か、顔の合わせられぬときはあって、その度にすねる蝶の子の機嫌を直すのに、少年は苦労させられていたのだが、その時ばかりは、蝶の子もただへそを曲げているわけではないようで。


ドームのような遊具の下で、ひざを抱えて丸くなる蝶の子に、少年は、根気よく何があったのかを問いかけた。

はじめのうちは、ちらりと少年のほうを見て、オマエなど知らない、人間の女と仲良くしていればいいだろう、と突き放していた蝶の子も、じっと座り込む少年に根負けして、とつとつと語り始めた。


『施設の先生に、オマエと遊んでることがばれたんだ。』


泣きはらした目を、また少し潤ませながら、少女がそう言う。

どうやら、いつか別れる事になって辛い思いをするのは自分たちなのだから、もう人とかかわるのは止めなさい、と、施設の人間に言われたようだった。


繭篭もりを終えて、翅のある蝶になれば、いずれ故郷を捨てて巣立つときがくる。

少年も、蝶の子も、これまでに学んではいたけれど、どちらも、そのことからはずっと目をそらしていて。


突きつけられた現実と、一週間の孤独が、蝶の子の心をずいぶんと追い詰めていたようだった。


『……オマエ、学校の女といたほうが、楽しいんじゃないか。』


そういって、また顔を伏せる蝶の子に、少年は、そんなことはない、となだめるが。

蝶の子の不信と、いじらしい独占欲は、どんどんと膨らむばかりだった。


――持ってきたパンの、二切れ目を口にしながら、少年は、蝶の少女に語り続ける。


学校であったこと、近所の猫の話。施設の子供たちとの話。

聞いているのかもわからない、ぼんやりと空を見つめる少女に、それでも、一言一句心をこめて、少年は語りかける。


少女は、時折桶の水を手ですくって、こくこくと飲み干す。口の端から、つう、と飲みきれなかった水が一筋伝うたび、少年は、タオルでその口端を拭ってやった。


軒先では、女郎蜘蛛の巣が、朝露を纏って、キラキラと輝いていた。


――そして、蝶の子の、繭篭もりの日がやってくる。


すっかりと、施設を抜け出てくることも減った少女が、最後に遊び場に現れたとき。

彼女は少年に、最後のお願いだ、と伝えてこういった。


『私、最後に煙草が吸ってみたい。今まで、たくさん言いつけを破ってきたけど、これで、本当に最後にする。』


そういって、少年に、なけなしの所持金であろう、しわだらけの千円札を握らせる。

少年は、最初こそ、止めたほうがいいんじゃないか、と彼女を説得しようとしたが、あまりに強情に、まっすぐに見つめてくる少女に、やがて根負けして。

町のはずれの、古い販売機で煙草を買い、家からこっそりとマッチを持ち出して、夜の街をゆっくりと抜けて、少女のいる施設へと向かった。


『やぁ、ほんとに来てくれた。』


こん、こん、と指定された窓を叩くと、少女がひょこりと顔を出してそう言う。

まぁ、あがりなよ、と、窓枠に腰掛けて、少年にも、隣に来るように誘う蝶の子。

やがて窓枠に二人が並ぶと、どちらから示すでもなく、二人はそっと手を重ねた。


『……あれ、もって来てくれた?』


しばし二人並んで、月を眺めてから。意を決するように深く息を吸って、少女が訪ねる。

少年がそっと煙草を差し出すと、少女は珍しいものを見るように、しげしげと外箱を眺めた。しばらくして、そっと包みを破り、少女は一本の煙草を取り出すと、口にくわえたそれを差し出して、点けてくれる、と訪ねた。


月明かりの窓枠に、マッチの明かりがぼんやりと二人を照らして。

くゆり、と昇った煙を捕まえるかのように、少女が思い切り煙草を吸い込んだ。

そして、当然のように、勢い良くむせ返る、二人。


げほ、げほ、とのどの奥に引っかかった煙を吐き出そうと、二人で咳き込む。

やがて、なんだか恥ずかしくなって、二人顔を見合わせて、声を出して笑いあって。


そうして、少女が、少年の唇を奪った。


煙の味の、キスを終えて。しばらく顔を赤くして固まっていた二人だったが、やがてどちらからとも無く、今日は、これで分かれよう、とそういって、重なったままの手を、緩めた。繭篭もりが終わって、彼女が大人になったら。また、遊ぼうと。


そういって、二人は分かれた。


――少女は知っていた。煙草の煙が、自分の繭篭もりによくない影響を及ぼすだろうことを。


やがて日の上る時間になって、少年は、それじゃあ、学校に行くから、と。

少女にそう告げて、部屋を出て行った。

少女は、その言葉に、何を返すでもなく。ただぼんやりと空を眺めて、足をぱたぱたとあそばせている。


――少女は、予感していた。もしも、自分の身に何かあれば。少年が悔い、償おうとすることを。


幾度か、また桶の水を掬って飲んだ後、口元や、手を拭うこともせず。

少女は、窓枠に置かれた、古い煙草をそっと撫でる。朝露や、少女の濡れた手のせいで、すっかりと湿気てしまったそれを、少女は愛おしそうに撫で続ける。


――そして少女の、少年の一生を手に入れた、そのほの暗い女の喜びを。ただ、女郎蜘蛛だけが知っていた。

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